柳(08)やっぱりわたしの記憶は、どこかが欠けている。
家に戻り、ソファーにぐったりと座り込む。
夕暮れ時が世界を統べるときには、団地のみんなは家でお祈りを捧げるという。これは〈夕べの集い〉といって、かつて存在していた新興宗教で行われていた行為だった。太陽が沈むと、敬虔な団地組合員たちは仕事をしない。何ならスイッチのひとつすら押さないのかもしれない。ユダヤ教の超正統派のひとたちみたいに。
とはいえ、宗教法人が消え去ってからは随分と時間が経っている。最近は縛りもゆるくなっているみたいで、仕事に出ている父親らは無理に参加をしなくてもよくなったらしい。けれど、基本的にはこの時間までに家に帰って、家族みんなで集い、そして新しい夜明けを迎えよう、そういった試みは今でも連綿と続いているみたいだった。
「まどまど、かなかな、それじゃあねえ」
環もその集いをしなくてはいけない、ということで家にとんぼ返りしてしまった。不如帰さんたちに挨拶に来ただけみたいだったけれど、何かもの凄い違和感を覚える。
確かに、環は組合員だった。そういえば、一緒に活動をしていたときもしばしば集いがあるなんて言って、集会所に足繁く通っていたんだった。わたしはあまり行かなかったけれど、今日みたいに無理やり参加させられたことが何度かはあった。その過程で、お茶が不如帰さんに気に入られたんだ。そして、その空間の中には確かに環も存在していた。
やっぱりわたしの記憶は、どこかが欠けている。
不完全な思い出、不完全な記憶。父のことだけじゃあなくって、何か団地で起きた奇奇怪怪な出来事が、しばしば頭から抜け落ちてしまっているみたいだ。深くて昏いアナの中に、埋まってしまっているみたいに。そこには土が幾重にも覆い被さっていて、簡単には取り払うことが出来ないんだ。
「ああ、惑っちゃう、惑っちゃう」
わたしはため息をついた。四時間にも及ぶ集いのあとの、失踪した親友との再会。本来ならば、喜びに涙を流してもいいくらいだ。
けれど――、けれど、環は本当に失踪だったのだろうか。こんなにあっさりと姿を現すだなんて。もしかしたら彼女は家で引きこもっていただけで、それを知られたくないから環のお母さんは娘のことを忘れたふりをしていた、とか。そういうつまらないオチなのかもしれない。だったら、それはそれでいい。
どちらにせよ、彼女が無事で良かった。うん、無事で、良かったはずなんだ。けれど、それをまったく喜べていない自分がいる。むしろ、どうしてこのタイミングで出て来たのって、ちょっとした恨み節すらも抱いてしまっているんだ。
ああ、だめだ。わたしは本当にだめな人間だ。
わたしの目の前には、喪われたかもしれなかった友だちがちゃんと存在しているのに。わたしは彼女の手を取ることも出来ない。だからわたしの足先は今にも漆黒のアナの淵にかかっていて――、
「円、まどか。落ち着くのです。私がここにいるのです」
わたしの背をさする手のひら。ああ、奏だ。奏がいる。わたしには、奏がいてくれる。
「円、環のことは本当に難しい問題なのです。円が感じたように、私も大きな違和感を抱いているのです」
「うん、うん」
わたしは丸まって、膝に頭を埋めた。そのまま土の中に埋まってしまえばいいのに。そうしてすべてがなくなって、喪失してしまえば……、って、だめ。だめだわ。しっかりしなくっちゃあ。
「ありがと、奏」
「いいのです。円は私のいちばんの友だちなのですから」
ああ、そうだ。わたしには、奏がいる。奏のためにも、地に足をつけて考えないといけないんだ。
「うん、うん。――よし、元気、出た」
そうやってことばに出すことで、無理やり気持ちのスイッチを切り替える。大丈夫、だいじょうぶなんだ。わたしは本当に、大丈夫なんだ。
「さ、それじゃあ環のこと考えよ。あとさ、今日の不如帰さんの話の中で、第一団地のくだりのところがちょっと気にかかったのよね。何か、引っかかるんだ」
そこまで言って、わたしは思い出した。自転車を第六団地に置きっ放しにして来てしまっていたことを。今日は面倒だから、明日取りに行こう。それから、
「あ、ちょっと考える前にさ……、わたし、お腹空いちゃった。ごはん、食べよ?」
フライパンにオリーブ油を引く。じゃっ、という小気味の良い音が響いて、こころがうきうきと沸き立って来る。唐辛子とにんにくを塩を絡めつつ炒めて、そこにスライスしたベーコンを加えた。横ではパスタがぐつぐつと茹立って来ている。茹で具合をちらりと確認しながら、わたしはきのこを何種類か放り込んだ。
「ふーふふん、ふふふん」
匂いに誘われたのか、奏がキッチンの方へ向かって来る。
「お? 食べる?」
「いえ、必要ないのです。私はこちらを摂取するだけで構わないのです」
彼女はそう言うと、冷蔵庫にストックしている栄養ドリンク類やゼリー飲料を取り出した。
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