環(11)ついに孵ったのだわ。

 わたしはドアノブを握り込んだ。猫のかたちを模した、環お気に入りのドアノブ――、と、べっとりと指にこびりつく何か。咄嗟に洗面所のごみ箱を思い出す。けれど、違う。これは――、


「うえっ、これ……、い、糸……、かしら」


 糸のような、粘ついた何か。これは、ベランダで見たものに間違いない。この中で養蚕でもしているというのだろうか?


「……行きましょう」


 奏が神妙に頷いて、わたしの背に手を当てた。それだけで、わたしは強くなれる。地面に対してまっすぐに立てるみたいな気持ちになれるんだ。


「うん――、開けるよ」


 扉を、開ける。漂う、臭気。いや、あるいは瘴気のようなもの。

 そこに、あった。

 猫。見慣れた、大量の猫グッズ。

 その中心に、何かが。

 猫たちを押し退けるようにして、何か分からない、白くて奇妙な物体が鎮座していた。わたしは、戸口に立ちすくむ。後ろにいる奏が、隙間から部屋の中を覗いて息を呑んだ。小さく、呟く。


……!」

「え? 何? 何て言ったの、今」


 奏の口から、具体的な何かの名前が出た気がする。聞き逃してしまったけれど、えっと、コクーンって言ったの、かな? この奇妙な物体のことを?


「こ、コクーンなのです。これは、やっぱり環も……」

「――やっぱり?」


 昼間から何か違和感があったのだけれど、やっぱりそうだ。奏はわたしの知らない情報を持っている。しかもたぶん、幾つも。彼女は口を結んで、それ以上は答えようとしない。目の前にあるものが何であるのか、慎重に観察しているような目つきだった。


「……何なのよ、もう」


 わたしはいらつきを抑えながら奏から目線を切る。それからその奇妙な物体をよくよく眺めた。

 奏はコクーンと言った。つまり、繭。

 確かに昆虫の繭のような、有機的で不気味な形状をしている。しかもこれは、普通の繭じゃあない。一瞥しただけで異常さが克明に分かる、ひとよりも巨大な卵型の繭。それが、部屋のど真ん中にまるで主みたいな顔をして居座っている。部屋中の猫という猫が、その繭から伸びた糸でデコレーションされていた。

 ベランダから差し込んだ月光が、繭をほんのりと照らしている。神々しい雰囲気さえ見受けられるけれど、明らかに普通じゃあない。この世のものとは、到底思うことが出来ない。


「な、何なの、これ。コクーンって一体何なのよっ!」


 と。がちゃがちゃと、玄関扉のノブを回す音。それから小さく舌打ちが聞こえて、


「あれ? おかしいわ……。鍵、閉めちゃったかしら?」


 環のお母さんだ。やばい、もう戻って来たのか。疑問はますます膨らむ一方だけれど、わたしたちは慌てて部屋の扉を閉める。それから不気味な繭を横目に、ベランダへと滑り出た。糸が幾らか服に絡みついたけれど、構っている暇はない。このまま窓を閉めて、ベランダを乗り越え――、


 ぱきっ、


「――え?」


 軽い、音。繭の、方から。振り向く。繭の表面に、罅割れ。卵の殻のように、剥がれる表皮。そこから覗く、生き物の欠片のようなもの。その行為はまるで、脱皮。その中にいるものは、その少しばかり覗いているひとの指にも似た何かは、もしかして――、


「円、早く窓を閉めるのですっ」


 ベランダの桟に必死ですがりつこうとしていた奏が、慌てた様子で叫んだ。


「えっ?」


 瞬間。どろっとした濃密なスープのようなものが、繭から一気に溢れ出た。な、何? 何なのよ、これは――!


「ああ、環、たまきねっ? ああ、!」


 環? 何が、環なの? 玄関の辺りから、環のお母さんの声。入って来た。鍵を持っていたんだ。けれどこれで、逆に疑われにくいかもしれない。あとはこの混乱に乗じて何とか逃げ出して――、


「何をのんびりとしているのですかっ、早く来るのです!」


 液体の流出は、思ったよりも早かった。気づいたら既にわたしの足元に、その液体がねっとりと纏わりついている。ローファーの先に、その液体が絡みついた。


「えっ、えっ?」


 思考速度が、追いつかなかった。ローファーからソックス、そしてプリーツスカートへ。その粘ついた奇妙な液体は、一瞬にしてわたしを室内へと引きずり込んだ。全身を絡み取られて、動くことが出来ない。


「ま、まずいのですっ!」


 奏がわたしを液体から引きずり出そうと手を伸ばす。けれど、わたしたちの腕は引き離されてゆくばかりだ。わたしは液体にますます沈み込んでゆく。


「ああ、だめ、だめ。だめなのです」


 奏の焦った声が、粘ついた液体に反響してくぐもって聞こえる。


「何をしているのです、早くこちらに来るのですっ!」

「か、なで」


 そんなこと言われても、わたし、うごけ――、ない――、

 途端、眼前にいきなり四角くて黒黒としたものが現れた。


「――え?」


 それは、〈アナ〉だった。かつて駅で目撃したような、漆黒の四角形。世界から切り取られたかのように、そのアナはわたしの視界の中でぽっかりと口を開けている。


「円、まどかっ! 目をきちんと開けるのですっ!」


 いつかの何処かから、奏の声が耳朶を打つ。けれどもう、アナはわたしの視界いっぱいに広がっていた。一面がまっくらやみだ。


「奏、かなで。どこ、どこかなで。何も見えない……、何も、何も視えないんだよ」

「私はここです、私はここにいるのですっ!」


 何を、なにをいっているんだろう、かなでは。わたしはもうすべてが四角いアナの中に囚われて。だから、もう息さえも、いきることさえも――、それではみなさん、さような、


「ああ、もう。こっちなのですっ!」


 奏の手らしきものが、ようやくわたしの手を引っ掴んだ。ぐい、と身体を思い切り引っ張られる。騒がしい音と、奏の舌打ち。それから、浮遊感と全身を貫く痛み。何、なの。一体全体、何が起こっているの。顔に何やら不快感。芝の、感触?

 これはもしかして、ベランダから、落ちた、の?


「円、まど、か。うう……、はあ、はあ。だいじょうぶ、なのです。あなたは私が守るのです」


 ぐるん、と流転。意識が反転して、漆黒がもう一度眼前に迫る。ちか、ちかと光が明滅して。わたしはなにもかんがえられない。そしてすべてが呑み込まれる――、


 ◆


「よろしく〜」


 五月蝿さんは軽やかにわたしたちの横を通り過ぎて、団地の隙間を抜けてゆく。その飄々とした動きは猫科の動物を連想するもので、何となく可愛らしい印象を残すのだった。


「……相変らず、風のようなひとなのです」


 奏が、彼の通ったあとを見て呟いた。


(▽Tamaki is Bad End?)

(…… and To Be Continued.)


▽戻る


https://kakuyomu.jp/works/16816452218745260886/episodes/16816452218745637054

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