環(10)クソったれどもなのです。
病院であれば、宿直担当が見回りに来たりするだろう。けれど、この団地にはそういったシステムはない。見回ったとしても団地内は広大で、効率が悪いためだ。医者や看護士たちは住み込み勤務ではあるものの、彼らの多くは今頃自宅でぐっすりと眠っていることだろう。
重症になったアナアキたちは医師たちの近くに住居を移すように指示されるし、簡易だけれど一棟まるまるを入院や宿泊施設にしている棟もある。また、体調の急変などの緊急事態があればもちろん彼らが駆けつけてくれる。その場合は、家の中にあるブザーを鳴らすと連絡がすぐに行く仕組みだ。
ただし、喪失感が一気に押し寄せたためにブザーを押せずに亡くなった方も、それなりにいるって噂だけれど。
「臆していても仕方ない、か」
ともあれ今は、そんな押されるかどうか分からないブザーなんかどうでもいい。医師や看護士たちに「何をしているんだ、戻りなさい」と注意されるのはまだいい。何よりもこわいのは、管理組合のひとたちだ。自転車の破壊行為。決めつけはいけないけれど、あれは管理組合の仕業に違いないだろう。あのような暴力的な行為がわたしたちにもし向いたとすれば、それはわたしたちの危機を意味する。文字通り、危ないってことだ。
「奏、一気に抜けるよ」
第五団地の端まで来て、わたしは言った。奏は神妙に頷く。それから、生活道路を素早く横切って、第六団地の前へと辿り着いた。首を伸ばしてそっと辺りの様子を伺う。大丈夫、すべての窓にはカーテンがかかっているし、明かりがついている家もない。
「よし、まずはベランダ側に回ろう」
「承知したのです」
わたしたちはこっそりと環の棟のベランダ側へと移動した。こちらは少し開けた感じになっていて、低木の木々が多く植えられている。植栽に身を隠しながら、環の家とベランダを観察する。暗いし霧がかかっているので見えにくいけれど、やっぱり糸のようなものがべっとりとついている様子だ。
「うう、あれを見に行かなきゃあいけないのか……」
「私、登れるか心配なのです」
わたしは運動はそれなりに出来たけれど、奏は結構運動音痴だ。それに、彼女のバルーンスカート。目立つ上にベランダを登っていくことはかなり難しいんじゃあないだろうか。
「いちおう玄関ドアの方へ回ってみる?」
「ですね、そうするのです」
棟の前まで回り込む。すると、階段室から覗く3階の玄関扉。気づく。
「あ、あれ……、何か、おかしくない?」
「……えっと、あ、え? あの……、あれって、開いてます?」
玄関扉が薄く開いている。これはもしかすると、誘い込まれているんじゃあ?
「どうする? これ、罠とかそういうのだったらどうしよう。中にさ、管理組合のひとたちがいっぱいいて、捕まっちゃったりとか」
「悩むのです……、これはかなり、判断に迷うところなのです」
わたしたちは頭を抱えてしばらく考えを巡らした。そうしているうちに、霧の向こう。ひとけがまったくなかった空間から、ゆったりと落ち着いた足音が響いて来た。
「やばい、隠れて」
わたしたちは向かい合った団地の棟の端に身を隠す。すぐに、女性の姿が見えて来た。あれは――、環のお母さんだ。何か、動きがあったに違いない。彼女は後ろに男性の医師をひとり従えている。わたしの担当医じゃあないから名前は知らないけれど、見覚えのある顔だった。
「……家に、入ってゆくのです」
彼女たちは連れ立って、海底家に入ってゆく。一体、あの家で何が行われているんだろう。何か、恐ろしい何かが――、
動くに動けず、更に三十分ほどが経過した。秋の風はまだ少しだけ夏を孕んではいたけれど、それでもじっとしていると身体が次第に冷えきってしまう。
今日は諦めて帰った方がいいかな、と思いかけた頃にようやく玄関の扉が開いた。そこからするりと、再びふたりが連れ添って降りて来る。距離感が近過ぎる気がする。彼女たちはそのまま、霧の中に消えた。
「お母さんは、出て行った。それに、鍵をかけた様子はなかったわ」
「ですね。チャンスと捉えます?」
「うーん……」
悩んでいる時間は、長くはなかった。わたしは答えるよりも早く、足音を抑えて駆け出していた。
「……ま、待つのです」
奏が慌ててそのあとを追って来る。
もしかすると、あの家に誰かほかのひとがいて、わたしたちはヒドい目に合わされるかもしれない。けれど。もしそうだとしたら、環だってヒドい目に合っているはずだ。わたしは、彼女を見捨てて後ろを振り向いたりはしない。
そんなことを口に出したわけじゃあないけれど、何かが伝わったのだろう。奏は文句も言わずにあとをついて来た。この娘の存在にわたしはとても助けられている。もしかするとひとりだったら、このような事態に差しかかったときに尻尾を巻いて逃げ出してしまったかもしれない。
覚悟を決めて、わたしたちは扉に手をかけた。引く。それは抵抗なく、軽い軋みを立てながら無防備に大口を開けた。途端、
「うっ……!」
「な、何なのですか、この空気は……」
悪寒。何かは分からないけれど、途轍もなく厭な空気感。深い海の底を覗き込んだみたいな、得体の知れない恐怖と吐き気がわたしの下から這い上がって来た。
「はあ、はあ……」
奏がわたしの後ろで震えている。けれど、彼女は逃げ出さない。わたしのスカートの裾をきゅっと引っ張っただけで、懸命に恐怖と戦っている。
そして、家の中。あまりに不気味な雰囲気ではあるけれど、ひとの気配はないようだ。念の為、気配に敏感な奏の方を見ると、彼女は震えながらも頷いた。息を潜めていない限りは、この中にひとはいない。恐らくは、ふつうのひとは。
「さあ、行こう」
「は、はい、行くのです」
まったくもって、惑っちゃう。わたしたちは自然と手を繋ぎ合ってから、恐る恐る家の中に足を踏み入れた。後ろ手に玄関扉の鍵をかける。鍵を持って出ていなければ、これで外から簡単には入って来られないはずだ。もし持っていたとしても、必ず音が鳴るから気づきやすいだろう。
玄関には靴が一足だけ。たぶんこれは、お母さんの靴。わたしたちは、靴を脱がない。土足で申し訳ないけれど、框を跨いで左右をさっと見回した。
「出来るだけ、証拠を残さないようにね」
「はい、もちろんなのです」
環の家は、一般的な3LDK団地の間取り。電気は消されていたけれど、差し込む月光のおかげで状況がつぶさに確認出来た。入って右手には、洗面所やお風呂場がある。左手の短い廊下の先には、四畳半の部屋。奥にはリビングダイニングとあとふたつの部屋があって、扉が開いているためほとんどが丸見えだった。
もちろん何度も訪れているから、勝手知ったる家の中。そしてリビングダイニングには、一見すると異常は見当たらない。奥の二部屋も扉が開いている。ちらりとそちらを見たけれど、やっぱり変なところはなさそうだ。と、すると――、
「ん……?」
洗面所から、奇妙なツンとした香りが漂って来た。匂いの元はごみ箱か。ちらりと見ると、捨てられたコンドームにべっとりとしたものがこびりついていた。まったくもって洒落たお出迎えだ。吐き気が込み上げて来る演出じゃあないか。
「……クソったれどもなのです」
奏が不愉快そうに吐き捨てた。わたしも不快感に胸が詰まる。
環は果たして、無事なんだろうか。左手に見える四畳半。そこが、彼女の部屋だった。その部屋の扉だけ、几帳面に閉め切られている。異様な気配は、そこから漂って来ていた。
躊躇をしている時間はない。やるしか、ない。先に進むしか、道はないんだ。
「行くよ」
「はい、承知したのです」
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