環(09)熱に身体を焼かれながらも、彼らは光を希求する。

 淹れたてのお茶が、甘い香りを漂わせている。わたしたちは、家に戻って来た。家の中は何ごともなく綺麗に片付いていて、手は出されていないみたいだった。よかった、ここが荒らされていたら、わたしはもう、だめだったかもしれない。

 だって、もうすべてがおしまいになってしまうのだから。なにもかも。わたしは漆黒のアナみたいなところに落ちて行って――、


「円、まどか。大丈夫、ですか?」

「……あ、ああ、うん。大丈夫、だいじょうぶ」


 知らないうちに押し寄せて来る喪失感。こころの波は、荒くれになってしまっている。落ち着けないと。こころを凪にしないといけないんだ。


「えっとそれでね、奏。さっきの変な糸みたいなの、何か知っているの?」

「えっ、あの、ええっと」


 彼女は少し戸惑ったみたいだった。それから奥歯を噛みしめて、


「……あの、はい。あれはたぶん、〈櫻町団地七不思議〉とかいうもののひとつなのです」

「櫻町団地七不思議?」

「そうなのです。あの、私、円よりもあとに入居していますよね。一年くらいあとになるでしょうか」

「ああ、うん。そうだったね」

「その少し前にあった出来事なのですが、インターネットにあるオカルト掲示板に、櫻町団地に関する都市伝説めいた七不思議というものが掲載されたのです。インターネットに触れられない環境にあった円には、知り得なかった情報なのです」


 奏はわたしに七不思議を教えてくれる。


 曰く、真っ黒な部屋。

 曰く、夕べの集い。

 曰く、スターハウスの数。

 曰く、暗号めいた文字列。

 曰く、蜘蛛の巣や蚕の繭のような糸。

 曰く、紫紺の花。

 曰く、謎の集団失踪事件。


「謎の集団失踪事件って……、わたしたち以外にも、そのことについて知っているひとたちがいたっていうこと?」

「はい。ですが、それを受けてこの団地を訪れた野次馬たちが、そんな事実はない、七不思議なんて単なるネタだよってブログとかTwitterに書いて再び拡散させたみたいなのです」

「と、いうことは今は……」

「はい、眉唾だったよね、ってことになっているみたいなのです。少なくとも、一年前くらいまでは」


 つまりこれは一年以上前に、団地内に蔓延る異常を発見したひとがいたということ。けれど恐らく、それは巧妙に隠蔽された。たぶん管理組合による隠蔽工作で。どうやったのかは分からないけれど、何らかの働きかけをして、七不思議をないものとしちゃったんだ。けれど、


「そのひとつが、さっきの奇妙な糸、か……」


 物的証拠が残っていた。失踪事件のことは分からなくても、この糸のようなものの正体を掴むことが出来れば、そこから謎を紐解くことが出来るかもしれない。

 それにしても、わたしたちの育てている花まで七不思議の対象になっているだなんて。あれは、お父さんたちが始めた大切なプロジェクトなのに。

 インターネットに触れなくなってから随分経ってしまった。普段は意識をせずに生活が出来るようになったけれど、やっぱり自分自身で情報を手に入れに行けて、特定の情報のコントロールもある程度は出来るという点において、インターネットはとても便利で優秀だ。


「でも、どうして教えてくれなかったの」

「あの、私も眉唾だと思っていたのです。というか、現に今の今まで忘れていたのです」


 わたしや奏、環にもあった記憶の混濁や喪失。アナアキのせいか、それとも別の原因か。ともあれそれが事実ならば、責めることは出来ない。


「はあ、まったくもって、惑っちゃうわね」


 けれどわたしは、自然と強い口調になってしまっていた。だってきっと、これだけじゃあない。この娘は何か、大切なことをまだ隠している気がするんだ。

 奏は、眉根を寄せて俯いた。ああ、だめ。可愛らしい奏を、わたしの奏を悲しませちゃいけないんだった。

 彼女のさらさらとした髪が揺れて、額にかかる。わたしはその髪を、手ぐしで梳いた。しばらくそうやって気を落ち着かせる。奏の髪から漂う香りが、わたしを凪にしてくれるから。

 たぶん、わたしと奏は、同じことを考えている。だから何となく気持ちが落ち着かないんだ。けれど、


「……やるしかない、か。奏、こっそりベランダに上がって様子を探るよ」

「承知したのです。夜です、夜に忍び込むしかないのです」


 ◆


 逢魔が時を跨ぐと、櫻町団地はひっそりと静まり返る。そして宵の空に月が打ち上がる頃には、一層しぃんとした耳が痛くなるくらいの静寂で包み込まれるんだ。

 わたしと奏は、僅かな月明かりと所々に設置された街灯を頼りにしながら、夜の団地を駆け抜けていた。いや、正直なところ、恐る恐る忍び足なのだけれど。


「……うう、こわ。何なんだろうね、この静けさ」


 月光に薄ぼんやりと照らされたとっくり型の給水塔が、濡れたように光っている。そこからはでっぷりと太った影が落ちていて、この世とあの世の境目すらも曖昧にさせてしまうんだ。


「……はいです。ちょっと、ぞわぞわってするのです」


 描かれたようにねっとりとした影と、見捨てられたみたいにぽっかり孤独な月明かり。その下でこそこそと動き回っているわたしたちは、空から見下ろすと一体どのように視えるのだろう。

 第五団地だけにあるポイントハウス。空から見るとY字型になっている星型住居が、月光に祝福されて輝かしい威容を見せている。その横で、どぶねずみのように這い回るわたしたちは、一体本当になにものなのだろうか。


「ああ、惑っちゃう、惑っちゃう」


 第五団地を抜け出して、第六団地へと向かう。所々にある電灯に群がる虫の翅音。熱に身体を焼かれながらも、彼らは光を希求する。それは一体、何のためなのだろう。身体を焼き尽くされるって分かっているのに、光を求める彼らの気持ちを、わたしは未だに理解出来ない。


「……不思議な空気なのです。何というか、この世のものではない感じといいますか」


 深夜の団地内には不穏な雰囲気が立ち込めていて、ひとけはまったくなかった。気温の変化のためか、薄く霧がかかっている。これは、わたしたちにとって幸運だった。時刻はすでに丑三つ。窓から漏れる明かりすら、ひとつも見当たらない。ここは、夜になるとすべてが眠りこける町なんだ。

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