第275話
「『自分自身の名前も年齢も、住所も。全部わからない』ですって?」
連れ込んだファミレスのメニューの文字。
それが眼前に着席している男性には読めていることと、言葉が普通に日出国の標準語で通じる現状。
それだけに、「何それ? おかしくない? 私のことをからかっている?」と、一瞬で頭に血が上ってしまった十八歳の女性。
彼女の名は聖美和。
周囲からは「顔の美醜が醜の側に振り切っている」として、格好のイジメの対象とされている高校三年生の女生徒であった。
付け加えると、お金だけは沢山持っていることも、嫉妬されてイジメに拍車がかかっていたのかもしれない。
尚、会話から生じた美和の怒りの感情は、「僕、お金はこれしか持っていないんだけど。これって使える?」という言葉と同時に、じゃらりとテーブルの上に出された金色の硬貨十枚を見せられたことで一気に冷める。
と言うか、「『金貨』と思われるそれを初めて直に見て、美和は無言で固まってしまっていた」のだが。
硬直状態の美和に対して、ラックは更に疑問を口にした。
「この『円』ってのがたぶん通貨単位なんだと思うけど、金貨一枚は何円になるのかな? 『支払いにこの金貨が使えるとして』の話だけれど」
二人の間でこのような会話が成立するまでには、それなりの事態の推移が当然のようにあった。
時系列的に、冒頭の発言が飛び出すまでのアレコレは後述のようになる。
所在なさげに不安満載の表情を浮かべたまま、周囲を見回していたラック。
カルダーレから記憶のほとんどを奪われたも同然の状態で、見知らぬ街のただ中にいきなり放り出された男の反応としては極めて妥当なモノであろうか?
生々しい指先の傷口からは、真っ赤な血がアスファルト舗装の地面に向けて、ぽたりぽたりと滴り落ちていた。
そんなある意味「不審人物」でしかない男を、一目見るなり直感的に動く女性が存在していた。
ほんの一瞬で「今の自分の窮地に利用できる、絶好の人物」と判断を下して、瞬時に組み上げた計画に沿って行動に移したのは、聖美和であった。
ラックを見つける少し前までの、美和が置かれていた状況とは?
その答えは、「美和は差出人不明の手紙の呼び出しに応じて、待つこと二時間が経過していた」だったりする。
そこまでくると、「いくらなんでも、これはおかしい」と美和が考えたのは普通のこと。
いや寧ろ、そこまで待ち続ける前の段階のどこかで異常に気づくか、来ない相手を待たずに問答無用でさっさと立ち去るべきであったかもしれない。
現実の美和は、二時間を越えて待ち続けてしまったけれど。
とにもかくにも、異常を感じた今、改めて周囲をさり気なく見渡せば。
同じクラスの男女の姿が複数、見え隠れしているような気が美和にはしてきた。
完全には姿を確認できないものの、「ハメられたのだ」と思える状況に気づいた美和は、「現状から如何に上手く逃れるか?」に思考を全振りする。
そうして、さもラックが美和を呼び出した相手であるかのように、そんな風に見せかける方向に聖美和は運を天に任せたのだった。
「あのさ、よくわからないけど、貴方は今、困っているのよね? 私があとでできる限り助けてあげる。だから、今から少しの間だけ、『貴方が私に恋の告白をしようとしてここに呼び出した』って感じの演技をしてくれないかな」
にっこり笑顔でラックに小声且つ早口で用件を伝えたあと、美和は少し大きめの声で傷口を押さえるためのハンカチを差し出しながら話す。
「痛そうな怪我ね。この怪我のせいで待ち合わせに遅れたのかしら? 貴方が私を呼び出した人で合ってるよね?」
「よくわかったね。『ひじりみわ』さん。遅れたのに待っててくれてありがとう。かなり待たせてしまったから単刀直入に言おう。君が好きだ。僕と付き合って欲しい」
ラックが美和の名前をフルネームで言えたのは、単純に美和が名札付きの制服姿だったせい。
彼女の学校は校門を出入りする際に、現在彼女が首からさげている紐の先にぶら下がっているパスケースに入った、名札兼学生証が必要となっている。
通常であれば、往来に出る時にはそれを隠すのが一般的な学生の行動ではあるのだけれど。
この日の美和は男性からの呼び出しっぽい手紙の存在に浮かれていたせいもあってか、それを隠すことなく出しっぱなしのままであった。
それが上手く状況にはまったのは、ラックにとっても美和にとっても、少しばかりの幸運であったのかもしれない。
「あっ。はい。なら、お試しのお付き合いからでお願いします」
「うん? 『お試し』って、それはどんな感じの意味なのかな?」
なかなかにうまく演技をしてくれる初対面の男性の対応に安堵しつつ、美和は会話を続けた。
「まだ貴方のことを全然知らないので。『しばらくの間はお試しのお付き合いをしてみて、もし私が貴方のことを好きになったら恋人になる』ってことですよ」
「なるほどね。それで良いよ。ところで、どうやら周囲の注目を集めているみたいだから、場所を何処かに移さないか? お互いを良く知るために、邪魔が入らないでゆっくり話ができる場所が良いんだけど」
「わかりました。血も止まったみたいですね。移動ついでにドラッグストアに寄って消毒液を買いましょうか。絆創膏は、私が持っていますからそれを使いましょう」
そんな流れで、事態の推移を悪意ありあり状態で注視していた、同じクラスの人間が呆気にとられているのを尻目に、美和はラックの手を取ってスタスタと歩き出した。
両者はお互いに無言のまま、事案発生現場からある程度離れたところにあるドラッグストアに立ち寄り、そこから更に歩いて十分弱の距離にあるファミレスへと二人で突入する。
そうして、状況は冒頭の美和の発言に繋がっていくのであった。
「それ、たぶん『金貨』ってやつですよね? そのままじゃ使えない。でも、金属の金として売れば『円』に交換できるだろうけど。グラムあたりで今なら一万円を超えるかな? 正確な相場は必要ならあとで調べて教えるけど」
「そうなんだ。使えないのか。ならコレを売るまで、僕は無一文か」
「そうなるのかもね。とりあえず、注文をしましょう。お金は私が持ってるから大丈夫。お腹は空いてる? 私はドリンクバーだけにしておくけれど」
「いや。食事は要らない。僕も飲み物だけで良い」
「了解。ならドリンクバーを二人分注文するね」
備え付けの注文用タブレットを操作して、美和は注文を確定させる。
ラックは一旦会話を止めて、それを興味津々で眺めていた。
「単語からドリンクが飲み物なのはわかるけど。『バー』ってのは何?」
「あー、それ本気で質問してるんだよね? んー、『自分で注ぎに行く形の定額飲み放題』って言えばわかる?」
「なるほど」
「グラスを取りに行く前に、怪我をしてる左手を出して。今更かもしれないけど、ちゃっちゃと消毒して絆創膏を貼っておきましょうね」
「了解。ありがとう」
美和が手早くラックの傷の手当てを終える。
続いて、美和がアイスティーを。
ラックは水と緑茶の二つを手にしてテーブルに戻った。
ちなみに、ここでラックが水も選んだのは、緑茶が口に合わない可能性を考えての保険であったのは些細なことであろう。
「で、もう一度確認するけど。名前も住所も、自分の年齢すらもわからないって本当なの? 外見からはとても外国人には見えないんだけど。言葉もまぁ通じるし、文字も読めるみたいだけど、おかしくない?」
「そう言われても困る。本当にわからないから困っているんだ」
「スマホは? 個人IDカードは?」
日出国人なら誰でも当然持っているであろう二つのアイテム。
美和はそれらを確認しようと、「さぁ、ここへ出して」とばかりに手を差し出しながら問うた。
もっとも、まだ名前すら教えてくれず、円の現金も持っていなくて、金貨の現物が出された先ほどの事案があった時点で。
それらを所持していない可能性も、むろん想定はしての行動である。
「ごめん。『両方、何それ?』になるんだけど」
ラックの答えに、「やっぱり」と思った美和は「ならば」とばかりに言葉を紡ぐ。
「不法入国者の外国人。もしくは、身元がバレないようにその手のブツを処分した家出人で、身バレしないように全部忘れた振りをしてる人。普通に考えると、貴方はこのどっちかになるんだけどなぁ。でも、話をしているとどっちも違う気しかしないのが困る」
「事実として、違うと思う」
ラックは「違う」と本気で思っているが故に美和の推測を否定した。
けれども、実際は「不法入国者の外国人と同じ」である。
まぁ厳密な定義だと、この場合の外国人が指すのは日出国が存在する世界における日出国以外の国の人間であって、ラックのような異世界人はそこに入っているはずがないのだが。
「はぁ。どうしよう、コレ」
「僕は、やばいのかな?」
「(普通なら警戒巡察庁案件なんだろうけど。でもこのまま連れて行ったらその場で確実に捕縛されて留置所送りよねぇ)うん。周りに聞かれないように小声でお願い。ちょっと本音がここでは言えないくらいにまずいかも」
「そんな感じなのか」
ガックリと項垂れたラックを見ながら、美和は思考をぶん回す。
「(私の顔を見た上で、『演技』とは言え躊躇うことなく『君が好きだ』って言える男性は貴重過ぎる。手を取って移動した時も、嫌悪の表情を見せなかった。現在進行形で私を避ける、嫌う様子もない。この人の美的感覚、どうなってるの?)」
美和は、自身の顔や体型への評価が不用意に男性に近づいたら石を投げられて、「近寄るな! 気持ち悪いブス!」と言われるレベルなのを自覚している。
片や美和の現実を知らせる言葉に落胆している男は、出合ったばかりの状態で何の信頼関係もなかったにも拘らず、そのような自分の言葉に従って、演技をしてくれた点だけでも高評価だ。
ついでに言えば、同い年かやや年上に見える細身の男性は、美和の判定からするとイケメンに属する顔の持ち主なのである。
「あの。自虐するような質問なんだけど、さ。私のこと、『気持ち悪い』とか思わないの?」
「へっ?」
「いや、その、私の外見がね。すごく悪いから。はっきり言って『すごいブス』でしょう?」
ラックは周囲を見渡し、何人かの女性の姿を確認した。
どう見ても、不細工としか思えない女性ばかりで、美和の持つ容姿の美しさに比べると雲泥の差がある。
太めで凹凸のメリハリが少ない体型に、肉付きが良くてパンパンに膨らんだ顔立ちの女性たち。
ラックからすると、「これのどこが美人なんだ?」となる。
「僕がオカシイのかな? 美和さん以外の、今周囲の女性をざっと確認したんだけどね。僕には君が一番綺麗に見える。一番の美人さんは君じゃないかな?」
「あー。ブス専かぁ。本当に存在するんだ。都市伝説じゃなかったのね」
「酷い言われようだな」
「あ、ごめん。で、貴方の今後なんだけれどね。私にとって、貴方は貴重な存在になりました。すぐにでも結婚したいぐらいに」
「そう言われても。美人から求婚とか嬉しい気はするけど、自分が何者なのかもわからないからなぁ」
「だよね。名前も住所も不明じゃ。結婚して入籍なんて夢のまた夢。そもそも、今の段階だと貴方が『独身』って保証すらないわけだし」
「うーん。僕が覚えている限りだと、天涯孤独。なんか一人で家に閉じ込められて、施設の人にお世話されて育った感じなんだよね。勿論、結婚とかしてない」
テニューズ家の敷地内の離れで、ネグレクト的に育てられた記憶が薄っすらと残されている今のラックには、それが全てであった。
むろん、カルダーレの手によって、記憶の繋がりの重要な部分が完全に切り離されているのが元凶となっている。
具体的には、超能力者が語ったそれらの全てについて、「本人が元の世界に戻ろうとする動機になりそうな部分」を全く思い出せなくしているのだ。
よって、ラックが結果的に事実と異なる情報を出してしまうのは当然であろう。
そんなこんなのなんやかんやで、親の遺産がガッツリあって、お金だけは唸る程持っている美和は、ラックを手元に置くために札束ビンタを敢行する決意を固めた。
政府の借金が「国債」という形で、莫大な額にまで積み上がっている日出国に置いては、お金で解決できない事柄は少ない。
裁判所で、犯罪者の保釈金のような形でお金を積み、美和がラックの身元引受人となれば、仮の名前と戸籍、個人IDカードを作成できるのである。
もっとも、指紋登録が行われ、その際に「行方不明者に該当していないか?」が入念に調べられる。
そこでもしも「該当者あり」の判定がラックに対して出てしまうと、美和が支払う保釈金モドキは没収されるのだけれど。
美和の保有する現金資産から、足元を見られたのか?
ラックが日出国の身分証を得るのに必要とされた対価は、諸々込々でなんと三十億円に達していた。
但しそれは、美和が所有する現金を含む金融資産総額の一パーセントに満たない。
それが、一般的な日出国人の額面での生涯賃金の十人分を優に超える金額であっても、今の美和にはどうということもなかったのである。
「これで、貴方は今日から『聖幸甚』って名前を持つ人間になりました。一年間罪に問われるような事案を起こさなければ、私と結婚できます。と言うか、結婚してもらうからね?」
美和はやり切った感で満面の笑顔を、聖幸甚となったラックに向けて語る。
金にモノを言わせる諸手続き。
それに奔走させられた法律の専門家は「ひっどいブスが何寝言を言ってんだ? この男も災難だな。不法入国者が金で人生を買われたのか」と内心では考えていた。
だが、そこはプロの精神を以ってして、依頼人にそれを悟らせるような愚かな真似はしない。
彼は彼で、「もう己の仕事は済ませた」とばかりに一礼をして美和と幸甚の二人を自身の事務所から送り出す。
幸甚なる人物が何らかの問題を起こして、有能な法律の専門家である自身に大金が転がり込むような、次の新たな依頼が発生するのを願いながら。
「あ、うん。それに異存はないんだけどさ。これ、今はどこへ向かってるの?」
「説明してなかったわね。私たちの愛の巣になるお家よ。で、申し訳ないけど、一年間幸甚は外出禁止だからね?」
「えっ?」
ラック的には寝耳に水のお話が飛び出した。
もっとも、「何かをしたい」や、「どこかに行きたい」という欲求を持つ以前の問題のレベルの知識量しか持ち合わせていない超能力者からすれば、びっくりはしても些細なことではあった。
「不用意に外出して、何かのトラブルに巻き込まれたらいろいろ台無しになるから。無事に問題なく一年が過ぎれば入籍できるし、その段階で裁判所に担保みたいな感じで預けているお金が戻って来る。そこまで行って、幸甚は初めて完全に日出国の人間と認められるのよ」
こうして、ラックは「ひじりこうじん」という新たな名前を獲得し、女性に対する美醜の一般的な価値観がおかしな世界での人生の第一歩を踏み出すことになった。
これは、ミシュラたちに知られたらただでは済まない事態のオンパレードだったりするのだが、関連する記憶を全て失ったも同然の超能力者にとって、予見できない事柄に間違いはない。
実年齢からは乖離した見た目から、身分証に記載された年齢は保護者の美和と同じ十八歳にされたファーミルス王国の元国王様。記憶が失われているので、知り合ったばかりの美和との婚約状態に陥っていても、「右も左もわからないのだから、生きて行くためには仕方がないか」と安易に受け入れてしまう超能力者。無意識下で漏れ出てしまっているヒーリング能力の効果で、指の負傷の治りが異常に早いのには、全く気がつかないラックなのであった。
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