第5話

 待ちに待った退院の日は雨だった。僕は車をできるだけ小児病棟の近くに停めた。

 娘の病状はゆっくりと良くなり、約一か月半、娘も妻もそして親族、ついでに僕もがんばった。

 今日は義父母、実父母まで来ている。

 心配されてたね、この子はね。幸せだね。

義父と実父はたくさんの菓子折りを買ってきて、断る医師に

「医局でどうぞ‥」

 と強引に二人ですすめていた。

 娘は部屋着でもなくパジャマでもない服を久しぶりに着て、なにか感じるものがあるのかいつもより愛想がいい。

「帰るよ、りほ」

 抱き上げるとにこにこと笑った。

 医師、看護師に挨拶すると

「よかったね‥本当によかったね」

 と誰もが言ってくれた。

 その都度、大きい目をくりくりさせて娘はなにかしら話しているが、もちろん意味はよくわからない。

「ばいばいね、今度くるときは診察だから会えないね、お姉さん病棟だからね、でも元気でね」

 娘の部屋の担当をした若い女性の看護師は笑って言ってくれた。

 退院はいいね、希望だね。

 たくさんの荷物、着替え、そしておもちゃを車に運ぶ。四往復ぐらい。本当に、このおもちゃどうしよう。

 実母も手伝ってくれて荷物を運んでくれた。

 なんかお世話になりっぱなしだね。

「母さん‥」

 着替えを運びながら僕は気になることを母親に訊いた。

「俺が泣いたの、父さんに言ったのかな」

「言ってないよ、心配するし、面倒だからね」

 さすがに父親の性格を心得ている。

 あともう一つ。

「なんであの時さ、俺が泣いた時、こうゆう時は大丈夫って言ったの‥なんで大丈夫だと‥」

 母親が立ち止まった。僕も歩くのを止めた。

「達也がつらそうだったのとね‥」

 少し笑いながら続けた。

「りほちゃんをね、みんなが応援してくれていたからね、心配して支えていたからね‥」

 よくわからないな‥。

「なんかあるんだよ、そうゆう『気』みたいなものなのかな‥。みんなの応援がりほちゃんの病室やさ、周りに満ちている、力になるっていうのかな‥それが雰囲気として感じられてたからね‥」

 うん‥、まだよくわからない。

「そうゆう時はね、大丈夫なんだよね、経験的にね」

 そうなのかな‥。

「りほちゃん元気になったでしょ」

 まあね、そうだけど。僕はやっと頷いた。

「よかったね‥」

 母親は荷物を持って歩きだした。

「ありがとう」

 本当にお世話になりっぱなしだね。


 最後に、もらった花や花瓶を持ち帰るとき、廊下であの電話をしていた母親とすれちがった。

 今日は穏やかで強い母親の顔だった。

 軽く会釈をすると、彼女も笑顔でかえしてくれた。

 話したこともないし、いきなり

「今日で退院します‥」

 と言うのもね、変だし。

 僕はそのまま車に行こうとした。

「退院ですか?よかったですね」

 張りのある声が僕の背中を追ってきた。

「はい、ありがとうございます」

 振りかえって、少しお辞儀をしながら僕は言った。

「よかった‥」

 心から言われているようだ。

 こうゆうことかもしれないな‥。

みんなの応援、知らない人も知り合いも、みんなの応援や心配する気持ちが、娘に効いたのかな。

「本当によかったですね、なんかこちらもうれしくなります、よかった‥」

 僕はまた泣きそうになった。

 見ず知らずとは言わないが、そんな人も娘の心配をしてくれていたんだな‥。

「あの‥、息子さんですよね‥」

 彼女は頷いた

「僕もお子さんが元気になれるよう、祈ってます、本当に応援してます‥」

 彼女は優しく笑ってくれた。

「応援してますから‥僕の妻も娘も」

 ふふって笑ってくれた。

「幸運を分けてもらえているようでうれしいです‥」

 彼女は目を細くしている。

「いくらでも、いくらでもお分けします。早く、早く退院できるといいですね、というかできるように祈ってますからね」

 僕はヨット部の先輩にもしないくらいの深いお辞儀をした。彼女もまたそうしてくれた。

 元気になって欲しいな、あの息子さんもどの子もね。


 車にはたくさんの荷物と妻と久しぶりにチャイルドシートに座った娘が待っていた。

 チャイルドシートはね、いつもちょっと嫌がるのに、今日はなんか機嫌がいいね。

 やっぱり分かるんだね、いい子だ。

 あまりの荷物に、実父母は遠慮して電車で帰ってくれたようだ。義父母はもともと車できていたし。

「なんかこのまま帰るの惜しい感じだな‥」

 みんな元気でドライブなんて久しぶりだ。

「でもさ、今日は帰ろう、家族そろって家にもどるのってさ‥」

 エンジンをかけた、

「ちょっとね、というか、う~ん、すごく嬉しいんだよね」

 周囲を確認して車を動かした。駐車券を出さないと‥。

 雨は小雨になってきた。ワイパーもいらないくらいだ。西の空は晴れてきているね、もうすぐ本当に止むだろうな。

「帰るよ、りほ」

「りほちゃん、やっとおうちに帰るんだよ」

 妻も嬉しそうだ。

 ルームミラーに娘が写る。元気に笑っている。いいね。

 その後ろに今までいた小児病棟が見えた。

落ち込み、泣き、少しのことで喜び、いろいろあった場所。娘が初めて歩いた場所。

子供への思いや愛やその為のつらさやね、そんなのが詰まった場所だ。

“みんな、どの子もね、元気になって欲しいな”

 僕はすぐに前を見た。駐車場のゲートだ。

 何度も一人で部屋に帰ったが、今日は違う。

今夜は久しぶりにビールを飲もう。

退院という特別な日だからね。

入院の前、家族がいっしょなのは普通のことだった。でもね、家族いっしょってさ、うれしいことだったんだよね。また家族でいっしょに暮らせるだけなんだけど、それだけなんだけど、今日は特別な日になった。

歩行者と車に気をつけて、道路に車を左折で出す。娘の好きな音楽をかける。

雨で濡れた路面、僕は車を家路に向けた。


                                     了

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初めてのあんよ @J2130

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