第4話

「今日ね、りほ、歩いたの」

 妻がうれしそうにそう言った。

「ね、はじめて“あんよ”したんだよね」

 娘は妻に背中から抱かれてなかば仰向けになり、哺乳瓶をくわえている。まだそんな姿を見ると赤ちゃんだがね、歩いたのか。

「ここでね、二歩‥。なんにもつかまらずにね、よちよちって」

 つかまり立ちはできてた、ベッドの柵につかまってバイバイしてくれたときもあった。

 でも、歩いたのか‥。

「初めてあるいたところが‥ここか‥」

 病院のベッドの上。この娘らしいのかな。

点滴と心電図の管をつけて、そのまま“あんよ”ね。

 がんばった。

「まだ哺乳瓶使っているけれどね」

 妻は哺乳瓶をすこし持ち上げて娘が飲みやすいようにしてあげている。

 ストローマグもつかえるが、寝るときはこちらのほうがいいらしい。中身は白湯だったりお茶だったりなんだけどね。


 点滴がとれたのはそれからしばらくしてからだった。娘はうれしそうに動いていて、家族、親族の顔にやっと笑顔が戻った。

 だが、来週には退院かな‥とも言われたが、残念ながら体調が崩れ延び、またその次の週となるとなぜか検査の数値が悪くなる。

「快方にはね、向かってますからあせらないでください」

 女医は言うが、僕らは退院が伸びる都度悲しい気持ちになった。

「この子、がんばってる‥」

 妻は少し泣きながら言った。

 妻の落ち込んだ顔を見ると、娘は妻に近づき体を密着させるそうだ。どこまでわかっているのかね、でも、なんとなく自分の状況がわかるのかな‥。


「哺乳瓶洗ってくるね」

 僕は数本の使い終わった哺乳瓶をもって洗い場に言った。廊下に出て右に行き、緑のカード電話の手前を左に折れて開け放たれた扉の向こうの洗い場に入って行った。

 蛇口は三つほどあり、食器や哺乳瓶が洗えるようになっている。娘の入院中、フォークやスプーンや食器を洗いに何度も来たところだ。

 緑のカード電話は、今はいつか急患で入ってきた小学校高学年の男の子の母親が使っていた。

 彼女と話したことはないが、気になるし、この病棟では何度か目にしている。

 お子さんの病状は軽くないのだろうね、いつも付き添っている印象があった。

 僕はその前を軽く会釈をして通り洗い場に入った。

「うん、そう、うん、私はね、大丈夫‥」

 暗い洗い場に母親の声が入ってくるが、僕は気にせず哺乳瓶を洗い続けた。今日はこれを洗ったら帰ろうかな‥。

「大丈夫だからさ、母さんもさ、遠いし‥」

 張りのあるしっかりした、でも通る声が聞こえる。

「そんな、私は元気、うん、食べてるし‥」

 蛇口を閉じてっと‥。哺乳瓶の水を切ってね‥。

「母さんの子だよ、心配ないよ‥」

 僕は洗い場の出口に向かおうとした。

「‥‥うん、うん‥うん」

 くぐもった声。重い声。

「うん‥、先生はね、そう言うんだ‥」

 さびしそうな、小さい声。

 椅子が動く音がした。座り込んだのかな‥。

「でも‥」

 少しの間があった。

 静寂。

 嗚咽が漏れた。

 わずかながら話し声が聞こえた。

 そしてすがるようなつらそうな響きも。

「うん‥ねえ、母さん‥」

 僕は洗い場から出れなくなった。

「どうしよう‥、あの子‥どうなるのかな‥」

 動けなくなった。

「ねえ、母さん、私さ‥」

 病気の子供を持つ家族のつらさはね‥

「どうしたらいいかな‥、母さん‥」

 泣声‥。つらいよね、本当に。

「母さん‥」

 暗い夜の小児病棟。僕は洗い場でかたまった。


「どうしたの?洗い場混んでた?」

 寝た娘を抱っこしたまま、妻は僕に訊いてきた。

「あ‥、洗ってたらね‥」

 僕はあのお母さんの電話のことを話した。

「そうなんだ‥」

 娘をやっとベッドに置いてから妻は言った。

「つらいね‥」

 ふとんをかけてあげている。ふとんからでている娘の腕はだいぶ回復してきて、赤ん坊特有の張りがもどってきている。

「子供のことになるとね、この子が元気になるなら、回復するなら、なんでもするってね、思うけど‥」

 妻は続けた。

「心配で、誰か頼りたくって‥どうしようもなくて‥」

 僕も気持ちは同じだな‥。

「元気になればいいね‥、みんなどの子もね」

 妻の白い手が娘の腕をさすっている。みんなどの子も元気になればいいな‥。

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