第3話

 娘の出産の時もそうだった。難産だった。おなかの中の赤ちゃんの心拍音がモニターに響いていたが、たまに体の向きなのかなんなのか音が止まるので怖くなった。

「帝王切開します」

 と言われたが、その後他の医師が来るまでずいぶんと待ち、やっと出産できた。

「大丈夫ですか、この子大丈夫ですか」

 と医師に何度も訊いた。帝王切開の手術中、待合では心配で座れなかった。

 男はこうゆう時はなんて無力なんだろう、

なにもできないもどかしさが苛立たしかった。

 後に妻から、

「看護師さんからね、旦那さん、奥様に『大丈夫だからね』って声かけてて、落ち着いていましたねって言われたよ」

 とのことだった。

 そうかな‥落ち着いてはいなかったけれど。

 でも今回もそうだ、娘の病気に僕はただ無力で人に任せるしかない‥。そのもどかしさ、無力感。娘の将来はどうなるの、出産の時も思ったが自分の寿命をいくら縮めたっていいから、この子を生かせたい‥。そんなこともできない悔しさ。男って弱いな、ダメだなと思ってしまう。父として夫として、しっかりしないといけないのにね‥。

 思い起こせば、うん‥、この娘の入院時、僕は摩耗していたり何かが溜まっていたり、疲労して戸惑って困惑していたんだろうな‥。


 僕の母も毎日ではないが頻繁にお見舞いに来ていた。一歳の孫に確実に会えるし、勿論心配もしている。そして僕の体の心配も母親だからだろう、お弁当を僕の分も作ってくれたり、会うたびに父とは違い気遣ってくれていた。

「達也は体は大丈夫‥、お前まで倒れたら大変だよ」

「うん、まあね、なんとかね」

 いつもそんなふうに応えていた。

 ある休日、母と二人で待合の椅子に座り、休んでいるとき、ふと昔のことを思い出した。僕はほとんど病気をしなかったが、母は親戚や近所の人達によくこう言っていたっけ。

「この子はお兄ちゃんとちがってね、病気をしなくて助かる‥」

 僕の健康にあまりお金がかからなくていいってことだと思っていた。

 でも、お金なんてそんなことではなく、きっと違っていたんだね。

「母さんさ、俺さ、心配でね、りほがね」

 僕は今一番気になっていることを話した。

「心配でしょうがないんだ、でもさ、何にもできなくてさ‥なんにもね‥」

 病院の待合には僕ら以外には誰もいなかった。看護師も医師もその他の職員さんも。

 自動販売機の電気が静かに光っていた。

「男ってこんなもんなのかな‥」

 僕の横には小さくなった母がいた。少し顔を僕のほうにむけている。年をとったが優しい目で僕を見ている。

 その目を見た時、不思議なことに僕の目のほうから温かい何かが大量にあふれてきた。そんなつもりはなかったのに。あまりに久しぶりで、それが涙と気づくまで、そう認識するまで少しとまどった。

「心配で心配でさ‥」

 これは平日にしているコンタクトレンズだったら確実に無くしてたなと思う自分と、なんでこんなに泣いているんだろう、という自分と、ああ、やっと泣けたな‥という自分とがいた。

 母の手が僕の背中をさすっている。きっと皺のある手だろうな。

 ハンカチをポケットから出す暇もなく、両目からまさに流れでている涙を、僕は昔の子どもの時のように右手のこぶしで何度も何度も拭いた。でもね、涙は止まらない。

 三十男が他の患者さんがいないとはいえ病院の待合で母親の前で泣いている。

 かっこわるいな‥、でもなんか落ち着く‥。

 母親がハンカチを出して僕に渡してくれた。

 また背中をさすってくれた。

 まったく、いい歳なのに、母親の前で泣くなんて‥。

「ありがとう」

 僕は母のハンカチで涙を拭いた。すぐにハンカチはひどく湿ってしまったが。

「はぁ‥、だめだね、こんな年で母さんの前で泣いちゃね。まったく‥」

 今度は左手の袖で僕は涙を拭った。なんなんだよ、人の涙ってどれくらいあるの。

 母はまだ僕の背中をさすっている。

 ああ、困ったもんだな、困ったな‥。涙も止まらないし、母親に心配かけちゃうな。

「達也‥」

 母が背中の手を止めずに僕に話しかけた。

「母さんはね、りほちゃんね‥」

 母の手が、軽く背中をたたいている。

「大丈夫だと思う‥」

 そう‥

「あなたより長く生きているし、あなたのおじいちゃんやおばあちゃんやおじさんも看取ってきたし‥」

 六人兄妹の末っ子の母はたくさんの人を看てきたね。

「大丈夫だと思う‥それにね‥」

 それに‥

「こうゆう時は大丈夫なの」

 こうゆう時‥

「大丈夫だからね」

 何か、涙といっしょに溜まっていた感情が、思いが流れて出て行った感じがした。

 なんの感情なのか、なんの思いなのかよくわからなかったが、大量の涙が押し流してくれたようだった。

 娘の容態について“大丈夫”と初めて聞けた。誰も言ってくれなかった一番聞きたい言葉が母親から聞けた。

 僕はひどい顔のまま、母にもう一度

“ありがとう”

 と言ったが、おそらく涙声でよくは聞こえなかっただろうな。

 母の手はずっと僕の背中にあった。


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