第2話
会社の上司や同僚に話し、僕は通常よりは比較的早い時間に退社し、ほぼ毎日お見舞いに行った。あくまで通常よりということで、普通のサラリーマンよりはかなり晩い時間だけどね。
その時は、娘のつきそいで病院から出れない妻の荷物を届けたり、食事を届けたりもした。
そう、付き添いの母親の食事はでないので、「今日は何食べたい?」
とメールで訊いてからお見舞いに行っていた。朝食や昼食はね、別ルートで調達しているからなんとかなるとのことなので。
娘のベッドは毎日のようになぜかおもちゃが増えてきている。毎日のように実父母、義父母が昼に来て、かわいい孫におもちゃを買ってきているからだ。
「これ、退院するときには全部持って帰るんだよね‥」
僕は狭いマンションの部屋のどこに片付けようかと考えていた。
「うん、まだ増えそう」
妻も少し困った顔で言った。でも娘が飽きないので助かってはいるだろう。
「今日はパスタ買ってきた。昼はお父さんからおむすびもらったんでしょ」
「うん、明日の朝のサンドイッチもおかあさんが買ってきてくれてるからね、なんとかなってる」
なんとかなっているそうだ。
娘は一度かなりやつれたし、高熱も入院後も続いていた。一歳児というのは子供によるがハイハイからつかまり立ち、そして“あんよ”の時期で、当然お話しもまだできないし、こちらの日本語もあまり理解できていない。
でも顔が丸くてプチプチでほっぺが落ちている、そう、かわいいさかりなんだろうな。
毎日点滴があり、ベッドから外には行けず、体調も悪いのか甘えてぐずっている。
僕が行くと少し安心するのか妻に抱かれてそのまま眠ってくれる。
「先生、なんだって」
いつも訊くことは同じだ。
「まだ様子見だって、薬がうまく効いているかだね‥様子みないと‥」
やつれたとはいえ十分プチプチのほっぺを指でなぞりながら妻は言った。
二人ともだまってしまう。
入院はいつまで‥、治るのか‥、そして後遺症は‥。心配はつきない。
「自分の病気のほうがさ、気が楽だな‥ってずっと思うんだ。自分ならね、具合がわかるしね」
僕は娘の髪をなでながら続けた。
「まだ一歳だとさ、痛いとか苦しいとか言えないし、つらいだろうな‥ってね、思うんだ」
つらそうな娘につきそう妻のほうが僕より大変だろう。妻は
「うん、自分のことならね。でもこの子のことだとね‥」
とちいさい声で言った。おそらく娘を起こさないようにというのと、今の気持ちがね、声をそんなにしたんだろう。
娘のことだと僕は弱い。妻もある意味弱い。心配事が現実にならないように‥、そう祈るしかない。
「帰るね」
ごめんね、とも、がんばってともお互いに言わない。娘が元気になることだけが、僕ら夫婦の願いで、
“帰ってごめんね”も
“お仕事がんばって”も
今の僕らにはそぐわない。ただひとつだけ、
「りほ、みんながりほが元気になることをね、いのっているよ」
それだけだ。
一人で帰るマンションの部屋はこのうえなくさびしい。誰もいないのは当然だが、静かな暗い部屋に入る時は
「やっぱり家族はいっしょがいいな‥」
としみじみと思った。
家事などは大学のヨット部の合宿所生活で慣れているのだが、それよりもね、なんというか、二人とも旅行に行っているならいいんだけど、大きな病気で入院中という現実が‥。
妻も娘もさびしいかな‥、よく眠れてるかな‥、治るかな、元気になれるかな‥。
考えてしまう。お酒でも飲めばということになるが、いつ電話がくるかわからない。
僕はいっそのこと願掛けをした。
「娘が退院するまで飲まない」
社会人になってからこれは一番長い禁酒期間となった。
会社に行き仕事をこなして夜に病院に行き、一人のマンションに戻り寝る。
先の見えない状況は人をいら立たせるし、
沈ませる。僕ら夫婦だけではない。
「今日ね、お母さん泣いてた」
妻の母親が今日はお見舞いに来ていたそうだ。
「まだ一歳なのに‥」
娘を抱きながらそう言って泣いていたそうだ。かわいいさかりだしね。
「だからさ、退院したらね、この子いろいろやらせようと思う‥。スイミングとかバレエとか‥」
娘の寝顔はかわいい。
「やらせようね、運動系がいいね」
がんばろう、りほ、みんなでがんばろうね、入院中も退院してからもね。
「こんな時こそ仕事をちゃんとしないとだめだぞ」
僕の父はある日こう言った。
ちょっといいか‥と帰りがけに病室から呼び出され、院内の椅子に座り、おそらく入院費の足しにする為だろう、僕にお金の入った封筒を渡しながらそう言った。
「うん、わかってる、休んでないしね‥仕事はちゃんとしているよ」
それならいいんだ、と父はやつぶやき、ポケットからお守りを出した。
「じゃあ、また来る」
お守りを僕に渡して僕にありがとうと言わせる時間すら作らず帰っていった。
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