方舟は遠く
世界はきっと私たちを馬鹿にしている。
そう思ってしまうくらい平和な朝だった。都市がひとつ無くなる地震が来てもまるで生活が一変するような疫病が蔓延しても変わらなかった毎日は、地球が滅ぶ今日になっても変わるつもりがないらしい。窓の外では木々が風に枝を揺らしているし、青空はまぶしく光っている。そう思いながら私はオレンジジュースの味を丁寧に再現した栄養補助飲料を流し込んだ。バタートーストの味がする白い錠剤二粒と、シーザーサラダの味がする緑色の錠剤一粒。これも同じ。私たち
『……まもなく太陽は寿命を迎えます。やがて私たち人類が暮らすには過酷な星へと変わってしまう地球をあとに太陽系外惑星 E-7730 への移住が進んでおり、既に全人類の 99 パーセントおよび確認できている動物の全てが移住に成功しました。この計画も今日の最終移住便で終わる見込みです。……』
そう、今日で地球は滅ぶ。
正確に言えば、太陽の寿命で地球はとても暮らしていける星ではなくなってしまう。
この
〈
滅ぶ地球から人々や動物を救いだす船としてはこれ以上ない名前だろう。クイーン・ヴィクトリア号、プリンセス・エメラルド号なんかよりもずっとセンスのいい名前だ。そしてだからこそ、そこに込められた少しの皮肉に私たちは目をつぶってやり過ごすしかなかった。方舟はノアの家族と一つがいの動物たちしか救ってはくれな
い。つまり、地球上の全ての生命は救えない。人類は全員救えるかもしれなくても、取り残されていく動物たちのことをどうしても考えてしまう。航海員たちは言われた通りの時間に渡されたリストの人々や生物を乗せて惑星 E-7730 へと飛ぶだけに過ぎない。だから責められる言われはないし、その言葉は計画を考えだした博士たちに向けられたものだというのも分かっていた。分かっていたつもりだったけれど、誰もが少しずつ自分たちを責めていることも知っていた。命の重みを選ぶということ。
「おはようエーリカ副艦長」
目の前に錠剤の並んだトレイが置かれて顔をあげた。そこには私の相棒、私がいつも乗っているクイーン・エリザベス号の艦長、メイが立っていた。私も最後の錠剤を飲みくだしてから挨拶を返す。
「おはよう、艦長」
今日の最終移住便で地球上からはすべての人類がいなくなる。私たちもその操縦が終わればこの仕事を辞め、もう二度と地球を訪れることはない。十数年繰り返してきた惑星間往復を終えるのだ。メイと私の操縦するクイーン・エリザベス号が最終移住便のひとつに選ばれたのも、ほんの偶然だった。
「最後の朝だねえ」
メイはそう言って錠剤をぽいぽいと口の中に勢いよく投げ込むと、すべて栄養補助飲料で飲み下した。この大雑把な女も操縦桿を握った瞬間だれよりも上手く軌道に乗るんだから人間というのは分からない。航海員養成所の成績でも彼女に勝てたことは一度しかなかった。それも、彼女が腹痛に悩まされていたときだけ。私は最後の朝、というメイに似合わない感傷的な言葉を小さく笑い飛ばした。そうだね、と。
「それでも何もかも、いつもと同じ」
メイはまるで私の心を読んだようにそう呟いた。食堂の中は次第に人が減って、今は数人のグループと私たちしかいない。ざわめきは遠のいている。朝一番の便がそろそろ出発する頃合いなのだろう。彼らはもう二度とこの地球には帰らない。惑星 E-7730 で新しい仕事を見つける。でもきっと向こうでもまた、同じような毎日がや
ってくるだけ。だから私はその言葉には乗らない。
「感傷なんてメイには似合わない」
「酷くない? 私だって地球最後の朝くらいしんみりしたいの」
地球最後の日ってもっと悲壮感に充ちたものなんじゃないかって、昔の人は想像したことだろう。でも違う。
こうして私とメイは笑い合いながら最後の一分までをいつも通りに消化していく。
「でも、まあ、今日もいつも通り。取り残されている人がいないかの見回りを終えたら、14:50 に最終移住便となるクイーン・エリザベス号への搭乗を始める。15:30 には出発。いいね」
イエス、艦長。私は髪を低くむすび直しながら答えた。メイと同時にトレイを持ち上げると、それを返却棚に戻して仕事へと向かう。地球で食べる最後の朝食くらい昔の人が食べていたような本物の食事がしてみたかったな、なんて思ったりしながら。
「ユン・ルォシー一等航海士、船員の状況は」
「職員・航海員すべて揃っております。異常はございません」
「了解した。では私と副艦長で見回りに行ってくるので、クイーン・エリザベス号の最終整備をお願いする」
「了解しました」
慌ただしく制服に着替えた私たちは一等航海士に船を託し、見回りに出かける。そう遠くにまで行くことはできないが、船に乗り遅れてしまったり一人暮らしで取り残されてしまったりする人々を見つけるのがこの仕事でも特に重要だ。方舟は人類をひとりも取り残さない。そういう約束だったから。
メイが運転するジープは荒れ果てたアスファルトの上でもすいすいと進んでいく。左右には朽ちた建物と、生き生きとした木々。古いサイエンス・フィクションの挿絵に描かれていたのと全く同じ光景が目に入る。
「艦長、この辺りからです」
「そうだね」
メイはゆるやかにブレーキを踏むと、もともと病院だったらしい建物の前でジープを停めた。私たちが同時に扉を開けはなって降りると、肺の中いっぱいに植物の香りがした。念のためにと支給されている拳銃を腰につけ、そっと辺りを一瞥する。ヤグルマギク、ヒナゲシ、シバ、シロツメクサ。それ以外に目に映るものは何もない。
先へ進もうと手で合図したメイに頷き返し、歩みを進める。
その時だった。
かすかに、歌が聴こえる。子どものか細く、高い声で。私はすぐに熱探査機を取り出して回る。
「子どもか?」
「出ました。前方十数メートル辺りです」
私が言い終わるか終わらないかのうちに、メイは駆け出していた。それに追いすがる。
走った先にいたのは三つ編みの可愛らしい少女。程よく日に焼けた肌にそばかすが散っていて、飢えている様子はない。手には背丈に似合わないほどのシャベルが握られていた。
「お嬢さん」
メイの声にびくり、と彼女は肩を震わせてこちらを見上げた。厳めしい制服姿では驚かしてしまうと思ったのだろう、メイは艦長帽をとって腰を折り、目線を少女に合わせた。
「お母さんとお父さんはどうしたのかな」
少女は困ったように目を泳がせて唇を舐めただけ。メイはさらにしゃがんで下から少女の顔を覗き込んだ。
「お名前を訊いてもいい?」そうしてやっと少女は、「……サム……」とだけ答えた。私は今日出発する船の中からサム、サマンサ、など彼女に近い名前の少女を探し出す。
「サマンサ・アーロン?」少女は首を振る。
「サム・ダニング?」まだ違うようだ。
「サンドラ・ローズ?」これも違うらしい。
少女はどうやら昨日より前の便に乗るはずだったらしい。両親はどこにいるのか、名前も分からないなら探し出しようがない。メイはやれやれと肩をすくめた。その時、また少女は小さく口を開いた。
「……おばあちゃんが……死んじゃった……」
見回りを他の航海員に任せて彼女に温かいココアを用意させた。そうして少しずつ彼女の緊張をほぐして聞きだせたことはこんな感じだ。少女はサムという名前であること。少女には両親がおらず、おばあちゃんのアリスと二人暮らしだったということ。おばあちゃんが一昨日死んでしまったこと。おばあちゃんとサムは二人で一昨
日の便に乗る予定だったこと。それらの情報はすべて手元にあるリストに一致した。一昨日の便に乗っていなかった人のリストにサムとアリスの名前はあった。良かった。私たちは一人の少女を見つけだすことが出来た。
「それじゃあ、サム、あなたは私たちと一緒に今日のお舟でお引越ししようか」
ココアをぐいと飲み干したサムに私たちは笑いかけた。でもサムはそこで今までにないほど力強く首を振った。
「だめ」
だめ? どうして? 私たちはもう一度笑いかけながら問いかける。サムはココアのマグカップを握りしめて答える。
「おばあちゃんが、死んだら地球にうめてほしいって」
それで全てがつながった。彼女が方舟に乗らずにシャベルを手に持っていたわけが。少女はその小さな手ひとつでおばあちゃんを地球に埋葬したかったのだ。惑星 E-7730 ではなく。
「分かった。じゃあ私たちが埋めておいてあげるから、サムはお舟に乗ろう」
「いや!」これが少女かと驚くほどの力で私たちは振りほどかれる。「おばあちゃんと一緒じゃなきゃ嫌だ」
刻一刻と搭乗時間は迫っている。私たちも操縦のための準備をしなければならない。メイは腕時計を何度も見ながらなんとか笑顔を保っていた。その圧力もサムは感じ取ってしまったのだろう。ますます彼女は頑なに方舟への搭乗を拒むようになってしまった。私たちも粘り強く話しかけたが。
「副艦長」
とうとうメイは顔を上げて言う。
「惑星移住特別措置法に基づいて、この子はここに置いていきましょう。私たちも咎められはしない」
嫌だと言い切りたかった。この少女のように、できることならば。でも私は大人で、クイーン・エリザベス号の副艦長で、そういうことは許されていない。サムの手をそっと離して私は言った。
「ごめんなさい、サム。私たちはお引越しの準備に行かなくちゃいけないの。だから……あなたは、おばあちゃんのところに行ってあげて」
その時のサムの寂しそうな笑顔は忘れることがないだろう。おばあちゃんのところにいられるということ、それがきっと必ずしも良いことではないことを、賢そうな彼女なら気付いていたはずだった。それでもサムは大きく頷くと、振り返ることなく外へと飛び出していった。入れ違いに見回りを任せた航海員たちが帰ってくる。
「艦長、報告致します。人の気配はありませんでした」
「宜しい、それではクイーン・エリザベス号搭乗準備を急ぎたまえ」
私は駆け出していく航海員とその後に続いていくメイを追いかけて歩いて行く。サムとは違って何度も何度も後ろを振り返りながら。とうの昔にサムは見えなくなっているのに、それでもまだ彼女が帰ってきてくれるような気がしてならなかったからだった。帰ってきてほしかったから、というのが正確かもしれない。発進 15 分前になり、宇宙船クイーン・エリザベス号にはエンジンが点けられた。リスト上の人はみな船の中で思い思いに地球との別れを惜しんでいる。航海員たちには悲しむ暇も胸躍らせる暇もなかったが、私はどうしてもサムのことが心残りだった。地球上の誰ひとり取り残さないのが惑星移住計画じゃなかったの? サムはどうして置いて行かれなければならないの? それもたった一人で、あんな幼い子を。
クイーン・エリザベス号が、発進する。
その瞬間、私はもう我慢ができなくなっていた。気が付けば私は操縦桿を握るメイに向かって叫んでいた。艦長、と。メイは私の切羽詰まった声色に気が付いたのか、操縦桿を航海員たちに託してこちらに向き直った。ほかの航海員らは何事かとこちらを伺っている。もう戻れない。
「地球への滞在とサムの回収の許可を」
「許可できない、もうこれが最後の便なんだ!」
「私が一人で行きます。副艦長はユン・ルォシー一等航海士にお願いします」
「死ぬ気なのか!? 私たちが助けに行ける保証などないんだぞ!」
「たった一人の少女も守れないで何が『誰ひとり取り残さない』ですか!」
私はそのままの勢いで後ろ手に緊急脱出用の扉を開く。風圧でメイの顔が歪む。私はあのときの寂しそうなサムの顔を思い浮かべながら、泣いた。
「ごめんなさい、メイ。それでも私、行かなくちゃ」
方舟は命を救うものであってほしい。誰ひとり取り残さないものであってほしい。それでもそれが無理ならば、私がたった一人の誰かの方舟でありたかった。そのためにこの仕事を選んだんだった、と思いだす。一つでも多くの命を方舟のなかへと送り出したかったから。メイも泣いていた。それを見て、もう何も思い残すことはなか
った。
地面を背に、飛び降りる。パラシュートが開いて、クイーン・エリザベス号は遠ざかっていく。
私は地球に近づいていく。
さようなら、みんな。
方舟は青空のなかで輝いているよ。
百合SF短編集 Yukari Kousaka @YKousaka
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