いちごミルクとかぐや姫

 どうしてそのバイトを選んだのかは覚えていない。雑誌を適当にめくって決めたような気もするし、散歩をしているときに貼り紙を見たような気もする。そんなことはもうどうでもよくて、とりあえず、その大学にも家にも近くない小さなケーキ屋で私の人生はめちゃくちゃになった。

 正しくは、そのケーキ屋で働いていた先輩のせいで。

「好きです付き合ってください」

 女どうしだし無理だと言われることも覚悟していた。きっとバイトでの居心地が悪くなるだろうと思った。でもその明るい色の髪や、たくさん開いたピアスや、夏でも冬でも変わらない黒いTシャツや、その全てをどこにいても思い出してしまうくらい先輩が好きだった。先輩にこの気持ちを伝えなければ、きっとこの気持ちはぐらぐらと煮え立って、地球温暖化を進めてしまうような気がしていた。

「あれ」

 先輩は、ケーキ屋の窓を指さした。

「え?」

「空、なんもないでしょ」

 先輩は笑っていなかった。まっすぐ窓を指さしたままこちらを見ていた。窓に向かって何かの光が差し込んでいるかのように、まっすぐ、肘から指先までが空を向いていた。はぐらかされている、と思う。

「ええ?」

 前から分からない人ではあった。分からないから、そのミステリアスなところまで好きだった。でも、今度は分からないことが多すぎる。返事は?

「なんもないとさ、投げたくなるんだよね」

 投げたくなる。

「鉛筆とか、槍とか」

 分かる? と先輩は振り向いた。分からないです、と私は言った。なにもない空を見ると、尖ったものを投げたくなるということですか?

「そう。空だけじゃなくても、たとえば誰もいない小学校のグラウンドだったり、そういう空っぽになった広いなにかを見ると、尖ったものを投げたくなるんだよね」

 言われてみると、何だか分かるような気がしてきてしまった。自分が小学校のグラウンドに立って誰もいない肋木や雲梯を背に中央に向かって槍を投げるところを想像してみる。何故か、心が少しだけ軽くなったような気がした。

「届くんだって。空に、槍が。届いて、刺さるんだって」

 先輩は続ける。私はもう何も言わずに、先輩の話の続きを待っている。

「刺さったら、空の人たちが頑張って抜いて、それが私と空の人たちのコミュニケーションになる」

 先輩が投げた槍が空に刺さるところを、その槍を抜いた空の人がまじまじと槍を見つめるところを、そんな空の人を満足げに見つめる先輩を、想像した。

「私、かぐや姫だからさ。空の人と、話すんだよね。そろそろ帰っていいですかーって」

 かぐや姫が槍を投げるのは何だかおかしいと思った。でも、かぐや姫が槍を投げなかったなんてどこにも書いていない。もしかしたら槍を投げたのかもしれない。誰もいないグラウンドに向かって、空に投げるように、鉛筆を投げる練習をしたかもしれない。でも、先輩が、かぐや姫?

「えええ?」

 頭を抱えた私を見て、ふふ、と先輩は笑った。それから思い出したように手を叩いて、ポケットから小さなペットボトルのいちごミルクを取り出した。

「はい、かぐや姫から、月のお土産」

 はぐらかされている、とやっと思い出した。いちごミルクでは、槍では、かぐや姫なんかでは騙されない。

「あの先輩、返事は」

 んーと間延びした返事をしながら先輩はエプロンの紐をほどき始める。先輩の向こうに広がっている空にはやっぱり何もなくて、無性に槍が投げたくなった。

「かぐや姫は、空に帰るので、無理です」

 そう言って先輩は、ばいばい、と言いながら店の裏口を出た。私は先輩を呼び止める声もあげられないまま、バックヤードで一人、いちごミルクと取り残された。いちごミルクは何だか居心地が悪そうに私の手の中に収まっていた。地球の大気は少し濃すぎるのかもしれない。空の人のいちごミルクにとって。

「かぐや姫なら、仕方ないか」

 私は小さく呟いて、エプロンの紐をほどき始めた。


 先輩はその日からバイトにはもう来なかった。辞めたらしい。わざとなのか、もともと辞めるつもりだったのかは分からない。かぐや姫だから、月から迎えが来て帰ったのかもしれない。

 それからずっと、快晴の日には空に向かってペンを投げてしまう。

 空の人からの返事は、来たことがない。




〈いちごミルクとかぐや姫 了〉

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