卒業式

蛯原棗えびはらなつめたち一五〇名の聖マルグリット女学院一三七回生が「卒業式」に囚われてから既に一年と六十二日が経過していた。式は滞りなく進行し、四二七回目の答辞を卒業生代表である生徒会長、十黒木エリカが読み始めたところである。

「厳しい寒さが和らぎ、校庭の桜のつぼみも綻び始める季節となりました。再び春を迎えたこの美しい学院を今日、私たち一三七回生は卒業します」

 会長は決して姿勢を崩すことなく、四二七回目の答辞を読み上げ続けている。自らの流麗な筆跡で書かれた答辞を一字一句、淀みなく。だが蛯原の横に立つ山岡千春は会長の言葉にそっと呟いた。

「もう桜のつぼみどころか初夏だと思うけどね」

 蛯原たちのカウントが誤りでなければ今日は五月二日。式が執り行われている講堂は相も変わらずきんと冷えて肌寒かったが外の日が長くなってきているのは誰もが実感していることだった。世間——というものが存続しているのならば——はゴールデンウィークを迎えた頃。大学二年生になっている筈だった一三七回生の彼女たちは、今なお女子高生のままだ。

 カトリック系ミッションスクールである聖マルグリット女学院は「仰げば尊し」の代わりに聖歌を歌い、閉式の辞の後、卒業生らが講堂を去ることで式は終わる、筈だった。

 あれは去年の三月二日。卒業式、当日。

 卒業式もその後の謝恩会もすっかり終わり、余韻に浸るあまり校舎内に残っていた卒業生が既に退校した父兄たちを追って学外に出ようとした時のこと。颯爽と校舎を後にしようとしていた学年一の優等生であり校風部長でもある天崎瞳あまさきひとみが講堂と教室のある高等学部棟を出る昇降口の扉に手を触れたとき、それは起こった。

 バ チ ン

 不自然なほど大きな音を立てて扉の取っ手は天崎の手を拒んだのである。

 その後の卒業生たちの混乱は説明するまでもないだろう。いつの間にか教師らは影も形もない。学院は何が変わるわけでもなくそこにあり、。混乱と恐怖、怒号と慟哭。淑やかで優秀な女子生徒が集う聖マルグリット女学院とは思えない光景が広がり、やがて疲れ果てたことで収まっていった。唯一助かったことと言えば、謝恩会で残ったと思しき寿司の箱とケーキそして紅茶は十分にあり、その日の食事には一切困らなかった。

 だが翌朝。いつの間にか眠っていた卒業生たちは目を覚まし、ありえない光景を目の当たりにしたのである。

 。そして、何事もなかったかのように卒業式が再び執り行われ始めたのだった。昨日などなかったかのように同じことを述べ、同じ会話を交わし、涙を流す父兄や教師たちに卒業生は恐れおののいた。だが聖マルグリット女学院の伝統ある式典を台無しにするわけにもいかず、前日と全く同じ式をなぞったのであった。

 恐ろしいのはそれだけではなかった。

 昨晩、空になるまで食べた筈の寿司が元通りに箱に収まっていたのである。

「時間が……戻っている……?」

 蛯原が最初に考えたのはその可能性だった。だがそれは誤りだと暫く後に分かった。外界は確実に季節が移り変わっているのである。三年生の教師から見える紅葉は夏に青く、秋に赤く染まり、冬には丸裸になっているのであった。父兄や教師たちはそれでも「桜のつぼみ」という答辞に異を唱えることは決して無かった。父兄や教師は卒業生たちが聖マルグリット女学院の中に囚われていることにすら気づいていないようだった。

 卒業生たちは四二七日間、学院で夜を明かした。

 混乱は一月で収束し、否、収束させられた。

 生徒会役員つまり会長、副会長、書記、会計、庶務の五名が「卒業式対策本部」を設置し、毎日卒業式が終わるとすぐに委員会の幹部らを集めて会議を開いたのである。一月が経過しても続く卒業式に対応するため、卒業生自らが立ち上がらなくてはならないという副会長、仲村梓なかむらあずさの提案によるものだった。日ごとに委員会幹部が本部に呼ばれ生徒会役員と話し合う傍ら、役職を持たない生徒たちは脱出経路を探したり、外界に戻った際に置いて行かれないよう高校過程の勉強を何度も復習したり、変わらない毎日に少しでも緩急をつけたるために新しい遊びを考えだしたりしていた。保健部は毎日の健康管理や爪切り、校風部は校内の安全確認、視聴覚部は生徒会と連携した全体放送など、それぞれの仕事をこなす。

 食糧については何ら問題は無かった。謝恩会で出される寿司と煎茶、ケーキと紅茶は必ず翌日には元通りになっているのだった。私物に関しても食糧は〇時を境に元に戻るらしく、サプリメントや野菜ジュースなど、卒業生たちが勝手に持ち込んでいた私物も分け合いながら、時に日ごとに食されたため、栄養面にも問題は無かった。

「問題は精神面だね」

 四二七回目の卒業式を終え、卒業式対策本部に召集をかけられたらしい保健部部長である山岡は腕組みをしながらはっきりと言い放った。近くを通り過ぎた副会長がさっと振り向き、仕草で山岡に黙れと命じる。誰もが疲弊しているのだ、この終わりなき卒業式の悪夢に。

 卒業生だけが学院に囚われている。誰も助けてはくれない。スマートフォンは学校には持って入れないし、コンピューター室の扉は固く閉ざされたままだ。

 この極限状態で一年以上正気を保ち続けていられるほうがおかしいのかもしれなかった。

「棗はどうなの、図書部長でしょ」

 山岡は副会長に向かって肩をすくめて見せてから蛯原を振り返って言った。蛯原もそっくりそのまま、肩をすくめ返した。

「図書部長には何もできないよ。ただ皆が退屈しないように本を選んで状態を保つだけ。本にはこんな時、何の力もない」

「棗の選書のおかげでかなりの時間、楽しく過ごさせてもらってる。礼くらい言わせて」

 卒業生の健康管理を一括して担っている山岡に礼を言われる筋合いはない。少し恥ずかしそうにする蛯原だったが、すぐに表情を硬くして言った。

「でもここ一・二週間が瀬戸際なんでしょ?」

 蛯原の言葉に、山岡も表情を引き締める。

「生徒会が危ない」

 生徒会会計の目黒穂香めぐろほのかが体調を崩している。

「もともと誤認の生徒会でしょ、一人欠けた状態で保つはずがない」

「私たちで何とかしなければ、か」

 山岡はじゃあ、と言って対策本部へと駆け出していった。

 私たちで何とかしなければ、蛯原は自分で放った言葉を嚙みしめながら、卒業生たちが集う三年生の教室へと急ぐ。

 それから、一週間が経過した。

 目黒穂香、生徒会会計の体調は依然として不安定なままだった。ぎりぎりの人数で仕事を割り振っていた生徒会には案の定ガタが来はじめ、対策本部の活動は目に見える形ではなくとも徐々にその進行を遅らせているのは確かだった。蛯原と山岡は二人、一年前、初めての卒業式で何があったのかを書きだしながら、この卒業式から逃げる方法を考えていた。

「いつから窓が閉まっていた?」

「分からない」

「ドアは?」

「天崎さんが触れる時は閉まっていたけど……」

「なんで食糧は全て元に戻るのかしら」

「衣服も〇時を過ぎるとすぐに乾くようになっている」

「保健室にバスルームと洗濯機があって本当に良かったよ」

 一年間解決しなかったものが一週間で解決するはずもなく、二人の討論は起こっては空に消えていくばかりなのだった。これからも卒業式と上手くやっていく、それしかないのかもしれないと彼女たちは考え始める。

 その、筈だった。

 同じ日の午後、蛯原は図書部長としての仕事をこなしていた。返却された蔵書をひとつひとつ書架に戻し、新たに薦める本を探す。今まで触れてこなかったジャンルを、というのが蛯原のモットーだ。彼女は「聖マルグリット女学院 学院史」という札が貼られた書架に近づき、その中でも特に分厚い一冊を何の気もなく手に取った。すると、

 ぱらり。

 一枚の紙が落ちたのである。蛯原は床に着く直前でその紙を受け止め、表に返した。紙は一枚ではなく、複数重なっているようだった。そこにはこう記されていた。

『聖マルグリット女学院 最終期末試験 攻略方法』

 どくん、と蛯原の心臓が鳴る。知らないはずの文字列に、どこか懐かしいような、ずっとこれを探していたような確かな手触りがある。震える手でそれを捲ると細かい字で続きが記されていた。

『聖マルグリット女学院七不思議、七つ目。最終期末試験。卒業生たちが学院に囚われこの試験を終えるまで脱出できない。ただしこの試験期間中、卒業式内からは外界の時間は進んでいるように見えるが単に時間の経過を示しているにすぎず、外界も卒業式終了まで時間が止まっている。代々教え伝えられる攻略方法は以下の通り。ただしこれは後輩が自力で見つけるために口頭で伝授してはならない』

 噓でしょう。

 蛯原は息だけでそう言った。最終期末試験? ふざけるな。試されていたのか。聖マルグリット女学院七不思議? 冗談じゃない。

 でも、でも。そんなことはどうでもいい。後で考えれば良い。

 脱出、できるのだ。

「千春! 来て!」

 こんな簡単なことで良かったのだ。

「どうした、急に」

 山岡は呆れながらもすぐ蛯原のところへやってきて、紙を指さした。

「何それ」

「ここから脱出する方法」

 山岡は食い入るようにその文字列を眺めた後、呆れて呟いた。

「嘘でしょ」

 笑いそうになるのをこらえて。でも、蛯原は何故だかこれがどうしても冗談のようには思えないのだった。

「本当」

「みせて」

 山岡はそろそろと紙を開き、中の文字列に目を通した。

「冗談よね?」

「冗談かもしれない。でもやってみる価値はあるじゃない?」

 こんな簡単なことで良かったなら、これが最終期末試験である意味も分かる気がする。蛯原は山岡の顔を見ながら読み上げる。一字ずつ丁寧に。

「最終期末試験攻略方法:卒業生のうち親友一組が相手に〈好き〉と言うこと」

 あの初めての卒業式、一年間、誰も発さなかったのか。この簡単な言葉を。このたった二文字を。六年間を隣で過ごしてきた友に。言わなくてはならない。

 蛯原はこの一年間のことを思い出していた。いつも隣で退屈な卒業式を過ごしてくれた親友。何も出来ない図書部長という役割にいつだってやりがいを与えてくれた親友。卒業生一五〇名の健康管理を行いながら、特に蛯原に気を配っていてくれた親友。それは山岡千春だった。成績が優秀なわけでもない、運動ができるわけでもない、でも傍にいるだけでいつも誰かを笑顔にしているこの親友。山岡千春。

「こんな簡単なことで良かったんだよ」

 どうか、と祈りを込める。後輩たちが難なくこの簡単な言葉を見つけられますように。親友たちと違う道に進む前に、どうかその一番近くにいる間にその言葉を見つけ出すことができますようにと。

 これから外に出て、きっと世界は何事もなく進んでいくのだろう。けれども私たちは生涯をかけて覚え続ける。私たち全員の命を救い出したそのたった二文字の簡単な言葉。神を愛し、隣人を愛する私たち聖マルグリット女学院の卒業生の、簡単で、けれども深い深い想いの丈。六年間と、この卒業式の一年間の、全て。

 

「千春」

「なに、棗」


 好きだよ。ありがと。





〈卒業式 了〉


 

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