雪のふる日に思い出せ
微動だにしなくなったメインモニターを見つめながら大きく舌打ちを鳴らす。少し離れた場所で焦ったようにキーボードを叩く後輩の姿を見るにサブモニターも駄目になっているのだろう。飛び交う怒号とサイレンの音が現実感を伴わないまま遠ざかり、消えていく。手の届くところにあるデヴァイスはどれも
ため息をつきながら腕を組みかえて体重を壁にどっと預ける。冷たい金属の感触が肩から腰へと伝わるのと同時に、何か紙のようなものが折れる音がした。慌てて振り返った先で落ちていく紙片を、床につくすんでのところで受け止める。何の変哲もない白いメモだ。そこにはこう書いてあった。
『今日のことは誰にも言ってはいけない』
気取ったような右肩上がりの文字。その一文以外には何も記されていないが、その一文だけで全てが分かってしまっていた。祖母がかつて教えてくれた北国のおとぎ話に出てくる女もこう言っていた筈だ。
『今日のことは誰にも言ってはいけない』
このメモを残したであろう人間、あの女のことを思い出す。抜けるように白い肌、額の上で艶やかに光を反射する長い黒髪。唇は冷たく青ざめて、けれども優しく口角は上がっていた。私に銃口を突き付けたときも目の前で法を犯している間もずっと変わらず静かに微笑んでいた口許。それは、あのおとぎ話に出てくる女に重なる。おとぎ話の女も、彼女のコードネームも、同じ名だった。
〈雪女〉。
今日何度目かの舌打ちをしながらメモを握りつぶし、私はその部屋を後にする。
「で、昨日の残業中、〈雪女〉に為すすべもなく負けたってわけ?」
トレイにランチを載せ歩いてきた女が私の目の前にどっかりと座る。雑に染められ適当に結い上げられた金髪、特に労わってもいないのにいつでもきめ細やかな肌、仕事のできそうなパンツスーツの着こなし、女らしさや清楚さとは無縁でいながら目立った華やかさと美しさを持ち合わせた同僚だ。鬱陶しげに顔をあげてみせるが、彼女は気にする様子もなく丁寧に手を合わせると白米を美味しそうに頬張った。社員食堂は広々としていて他にも沢山座席は空いているというのにこの同期の女はいつだって私と一緒にいたがる。呆れてもきっと小言は彼女に届かないだろう。カルボナーラ・スパゲッティを飲み込むと、ため息まじりに頷いた。
「そういうこと」
私の同意の声を聞くや否や彼女はあっはっはと大きな笑い声をあげた。明け透けで大雑把な女。川嶋
「それにしても
「残念だけど姿は見てないの」
これは噓だ。だがあの〈雪女〉の残したメモの意味を考えると、どこまで言っていいのか分からない。彼女が侵入したことは当然の如く明らかにされているから気にすることはないとしても、容姿を見たのは私だけだ。簡単に口を滑らせては命がないかもしれない。川嶋はふーんと残念そうにしながら味噌汁に手を移した。
「でも良かったね、芹生は脳を支配されなくて。過去の事件では〈雪女〉に乗っ取られて死んだ人もいたんでしょう」
本当に、と頷きながらもう一度脳を〈雪女〉に関するデータに接続する。触れた精密機器を
危険だ、とても。
次に誰が彼女の能力によって脳を焼き切られるか分からない。目的も意図も分からない今、一般人が死なないとも限らない。頭では分かっていてもあの時の〈雪女〉の圧倒的な強さは思い出しただけで身震いがする。誰にも言えないまま、この恐怖を抱えたまま、私はあの女を探し続けなければならないのか。
「情報が少なすぎる……」
頭を抱えながら、脳を現実に引き戻す。目の前に座ったままの川嶋は微笑みながらこちらを見つめていた。
「どう? 〈雪女〉、捕まえられそう?」
正直に言ってほとんど無理に近い。〈雪女〉の姿や情報を映したデータは彼女の手によって消されているだろう。だからこそほとんど情報がインターネットにも出回らないし、組織同士での共有もない。私は彼女に指一本触れられなかった。
それでも。
「捕まえなきゃ、人が死ぬでしょ」
インターネットの波間で、コンピュータの奥深くで、誰かが困っていたら助けてあげる。自分たちの命が危なかろうと、絶対に。
それが私たち、公安警察サイバー課の役目だ。
そう言って立ち上がった私を、川嶋はその右手をひらひらと振って見送った。
ジャキという音が鳴って耳元に銃口が突き付けられた時も、何が起きているのか理解できなかった。広がっているのは無音だけ。空中から不意に拳銃を持っている女が現れたのだと説明されてもあの時だったら信じてしまっていただろう。それほどに〈雪女〉の登場は無音だった。銃口から流れ込んでくる殺意、音の鳴っていないセキュリティ装置、外にいるはずの数々の部下たち。そのどれもが、無音だった。数秒の後どっと汗が噴き出てくるまで、時間が止まっているのではないかと錯覚していた。どんな爆発音よりも、あの無音が恐ろしい。
「やあ、芹生
〈雪女〉は笑う。ボイスチェンジャーを通して人工的につくりだされた声。身元がバレないように声を変えているのだろうかと思いながら首を回した先にあったのは、声とは裏腹にむき出しの顔だった。抜けるように白い肌、額の上で艶やかに光を反射する長い黒髪。唇は冷たく青ざめて、けれども優しく口角は上がって。
コードネーム通りの〈雪女〉の姿。
「……何が狙いなの」
私は両手を挙げながら問う。彼女もそれに合わせて銃口を少しだけ離した。私の名前を知っているのなら相手に何を隠しても、何かを誇張しても筒抜けだろう。そう諦めていた。彼女もそれを分かっていたのだろう、素直に答える。
「ここのチームが私、〈雪女〉を探しているって聞いたから情報を消しに」
バックアップまで、全て。そう言いながら〈雪女〉は楽しそうに笑う。私が動こうとするや否や彼女は目にもとまらぬ速さで拳銃を額に突き付け直した。汗が、また流れる。冷たく重い汗が。
「動かないでよ、全部終わるまで」
私が死ななければデータは壊される。でも私が死んでもデータは壊される。ならば生き残って、この女を絶対に探し出してやろうと心に決めた。この女を見つけだして、これまでのことも、このことも、これからのことも洗いざらい明らかにする。
「わかったわ」
手を高く挙げ直した私を確認すると、彼女は頷いてメインモニターの前に座る。心地よい速度でキーボードを叩き、彼女が望む操作を行っていく。その間中、私は彼女を見つめていた。作業の間はコンピュータに影響を及ぼさないようにするための黒い革手袋、白いワイシャツ、パンツスーツ。アクセサリーのようなものは無く、足元のヒールは控えめだ。彼女が顔を露わにしているということは、彼女の姿など覚えても詮無いことだと分かっている。だが、出来る限りのことはしたかった。彼女のキーボードをたたく指先を覚える。彼女の身長を覚える。
無音は続いていた。コンピュータの作動音が静かに鳴っているだけの、薄暗い部屋。モニターの光が、部屋の隅にまでほんのりと行き届いている。窓の外には、雪が降っていた。
『
祖母のゆったりとした声であのおとぎ話が思い出される。〈雪女〉は猟師の親子がいる山小屋に入り、父親を殺して子を逃がしたんだった。そして子にあのセリフを言い残し、一時は去っていく。
『今日のことは誰にも言ってはいけない』
当時のセキュリティの状態などを確認しながら〈雪女〉との会話を思い出していた。セキュリティは恐らく彼女がその能力で止めたのだろう、あらゆる扉は自動で開き、監視カメラすら機能していなかった。あの後〈雪女〉は手袋を脱ぎ捨て、コンピュータに、メインモニターに、サブモニターにと順々に触れていった。コンピュータは音を立てて動かなくなり部屋を照らしていたモニターの光は息を吞んだ人間のような声をあげて消えた。彼女はその後丁寧に指紋をふき取るともう一度拳銃を私に向けてこう言ったんだった。
『女の子だから、あんたは見逃してあげる』
「でも、今日のことは誰にも言ってはいけない、ってわけ……」
これではまるであのおとぎ話そっくりだ。
彼女によって
助けられた。それがたとえ情によるものだとしてもこの機会を無駄にするわけにはいかないのだ。ここに侵入した目的は彼女に関する情報の削除だと言ったが、それも本当かは分からない。もしも彼女が別の情報について探していたり、壊そうとしてたりするならば、それが何かを早く知りたい。
もう一度、セキュリティシステムの稼働状況を表すデータをあの時間まで巻き戻していく。23時34分、彼女が私に拳銃を突きつけたあの時間まで。監視カメラとエントランスのセキュリティシステムが稼働しなくなったタイミングはその僅か数分前。突如映像と赤外線センサーが途切れ、そして公安警察サイバー対策課のオフィスから〈雪女〉がいなくなってから数分後、またセンサーは稼働し始める。
先ほど確認したものと何も変わっていない。特におかしい点は見当たらない。そう思った時だった。
何かが、おかしい。違和感が脳内を駆け抜ける。コンピュータではなく、インターネットに繋がっている私自身の脳がそう告げている。そして数秒。違和感の正体が分かる。
セキュリティシステムと赤外線センサーはなぜすぐに復旧している?
〈雪女〉の能力を行使したのであればあらゆる精密機器は故障してしまうはずだ。つまりこれは〈雪女〉の能力ではなく何らかの人間の手によって停止され、復旧されている。そんなことができるのは公安警察サイバー対策課内部の人間だ。
慌てて振り返り、デスクを見渡す。後輩の女。上司の男。一つ一つ顔を思い浮かべる。誰が怪しいのか、誰が〈雪女〉なのか、あるいは〈雪女〉に協力していたのかを考える。
私の少し後ろに配置されたあのデスクが、目に留まる。
川嶋裕貴。
私は目を見開く。
社員食堂で手を振った彼女が身につけていたものは、何だったのか?
「川嶋裕貴」
業務は終わり、警備も非番は大方いなくなった時間。オフィスで一人キーボードを叩く同僚の名前を呼ぶ。彼女は振り返って私を確認すると、よう、と軽薄な挨拶をよこした。いつもと変わらないように見えるいつもの同僚。
「こんな時間にどうした」
息を大きく吸ってから呟く。
「〈雪女〉、あんたなの」
世間話は嫌いだ。必要な会話だけがそこにあればいい。こいつはきっとこの一言で全てを分かってくれる。川嶋はしばらく無言のまま私の目を見つめ、やがて笑った。〈雪女〉のときとも、社員食堂で会話を交わすときの彼女とも違う、心底楽しんでいるような笑い。
「なんでそう思った?」
否定も肯定もしない。最悪の予想が的中していく。
「セキュリティチェックとIDカード、これが〈雪女〉の能力で壊されているのかと思ったらそうじゃなかった。単純に何者かによって止められ、何者かが壊すことなく侵入している。それってこの建物を熟知している者にしかできないことじゃない?」
用意していた答えを即座に返しても川嶋はへらへらと笑っていた。だから続ける。
「それだけじゃなかった、手袋よ」
社員食堂で先に行った私を見送った手は、手袋をしていた。〈雪女〉のものとは型こそ違っていたけれど黒い革手袋であることは同じだった。出会った時から手袋をしていた記憶がある。特に気にも留めなかったことだ、けれども何故この仕事に手袋がいる? キーボードを叩くのにも、コンピュータをいじるのにも面倒なはずだ。
思い浮かべる答えはたった一つ。
触れた精密機器を
「あんたは出会った時から手袋をしていた。それは特に珍しいわけではないけれど、どこまでも厄介なその能力のせいでしょ?」
そんな能力を抱えながら公安警察サイバー課なんてものに入ったのもここが日本のインターネットの要だからだろう。〈雪女〉の目的が何かは分からないけれど、それがどんなものであれここを押さえることは重要になる。
「ねえ、あんたが〈雪女〉なの」
もう一度、訊く。ややあってから川嶋は口を開いた。
「『今日のことは誰にも言ってはいけない』って言わなかったっけ?」
そう言いながら自身のつむじのあたりに手を伸ばして。
髪と皮膚を引き剝がす。
現れたのは、あの〈雪女〉そのものだった。抜けるように白い肌、額の上で艶やかに光を反射する長い黒髪。唇は冷たく青ざめて、けれども優しく口角は上がって。こんなにも危険な女を前にして、ただ綺麗と思ってしまっていた。川嶋裕貴、あんたはこんなにも綺麗だったんだ。
「約束を破ったら殺すつもりだったからさ。何か最期に言い残すことはある?」
手袋から指を引き抜きながら彼女は笑う。きっとあの細くて長い指に脳は握りつぶされ、コンピュータと同期している神経は死んでいくのだろう。でも、不思議と怖くなかった。
「目的は、何なの」
〈雪女〉の一貫しているようには見えない意図と目的。何のために各国のデータを引き抜くわけでもなく破壊して回り、何のために脳にコンピュータを接続させた人々を殺すのだろう。何のためにその能力を使っているのだろう。
「私たちはつまんなくなっちゃったんだよ、脳にコンピュータを接続したせいで」
脳に電極を貼り付ける人、死人の脳を培養して魂だけをコンピュータに甦らせる技術、広大なインターネットの中を泳ぐ人々。出来ないことだらけの、未熟で矮小な人間だからこその創造力が死んでしまった。今や人間はなんだって出来てしまう。そう川嶋は言った。
「だからさ、世界を元に戻したいんだ」
コンピュータと人間が共存しているようで共存していなかったあの時代に。多くの人間がコンピュータやインターネットを思うように使いこなせていなかった時代に。〈雪女〉の能力、この時代に生まれてしまったが故に厄介なものとして扱われる能力を持ったからこそそれを成し遂げられるのは自分だけだと川嶋は信じていた。
「〈燕の子安貝〉をはじめとした日本最強と呼ばれるホワイトハッカー5人をもってしても全貌の分からないクラッカー〈かぐや姫〉や、対象の人間に接続したコンピュータだけを急激に老朽化させる〈乙姫〉。彼女たちと一緒に私は、元の世界を取り戻したいんだ」
雪が降っていた。窓の外は深く、黒く、ただ地面はほのかに月の光が反射して、銀色に眩しい。
世界を変えるためだから、ごめんね。
川嶋は指をそっと私の額に近づける。
私は目を閉じる。
「なんで川嶋さんは芹生先輩を殺さなかったんすかねぇ」
空になった缶コーヒーを振りながら後輩は言った。メインモニターもサブモニターも新しくなって、川嶋のデスクは消えて、それでも世界は今まで通り続いている。
「情でも湧いたんじゃない」
はは、と笑い飛ばす後輩を横目に煙草を咥える。祖母が教えてくれたあのおとぎ話の〈雪女〉もまた、情が湧いて猟師の子どもを殺さなかったはずだ。だからもしかしたらとも思っているし、〈雪女〉たちの目的のためにはまだ私が必要だったのかもしれない。どちらにせよもうそれは分からない。川嶋は私が目を開けたときにはもういなかった。荷物も棚に置かれた私物も全て消え去っていた。
あの夜から、一年と三ヶ月。
桜の花びらが風に乗って吹き込んでくるような季節を二回巡ってからもなお、〈雪女〉川嶋裕貴の消息は途絶えたままだった。彼女はまだ世界を変えるために何かをもくろんでいるのだろうか。あの能力を他のために使うことにしているのだろうか。どちらでも構わない。あいつがまた何か法を犯すのであれば、今度こそ捕まえてみせる。〈雪女〉の情報が明らかになった以上、もう私たちは負けない。
それでもほんの少しだけ。
雪のふる日にはあの白くて細い指先を、思い出すのだ。
〈雪のふる日に思い出せ 了〉
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