百合SF短編集

Yukari Kousaka

Travelers

 土地は流れ、同じ空を見上げることは二度とない。

 スマートフォンの画面が暗くなったのを確認してから、窓の外に広がる闇を見た。昨日見えていたはずのみずへび座はもう見えなくなっていて、また少し座標が変わったことを知る。ここは、昨日のではない。窓から流れ込む冷気の鋭さに耐えかねて、私はさらに強くひざを抱いた。

 いつか読んだ小説の世界がずっと、羨ましかった。

 その世界では、任意の時間に移動することはできないけれど、その代わりにどんなところへだって行くことができた。私たちが時間旅行をするように、彼らは好きな場所に好きなときに行ける。電車や自動車などという、輪のついた大きな鉄の塊が、人間をどこへでも連れていってくれるらしい。そんな世界は物語の中にしかないと分かっていても、好きな人と待ち合わせるために足取り軽やかにどこかへ向かう世界を、一度でいいから歩いてみたかった。この世界では、歩けばどんな時間にだって行ける。ちょっと機械を使えば、デボン紀やカンブリア紀にだって行くことができる。けれどもこの世界では、私たちはずっと違う場所へと進み続けるしかない。時間と空間の概念が逆転したあのSFの世界が、私はずっと羨ましかった。

 ピロン、と音がしてまたスマートフォンに明かりが点いた。ロック画面に設定していた飼い犬の写真より前面に、青い鳥のアイコンが目に入る。私はそれを見るや、スマートフォンを掴んで震える手で指紋認証を解く。

響乃きょうのさん、素敵な小説を教えてくれてありがとう。読んでみるね』

 その二文が、たった二文が、救い。

 私はスマートフォンを包み込んでいた両の手から右だけをそっと解き、親指を画面に滑らせていく。

「あやかさん、ありがとうございます……っと」

 彩夏。本名かどうかも分からないその名前の彼女だけが、この世界で私を繋ぎとめてくれていた。彼女にはSNSで出会った。私が呟いた、ほとんど誰にも届かないような小さな声で呟いた小説の感想に、彼女がいいねをくれたのが始まりだった。私が恐る恐る彼女をフォローし、ややあってから彼女がフォローバックをくれたあの日、私の世界は初めて輝いていた。私があの好きな場所に行ける世界を夢見て、なんども同じ設定で書いたSFを、彩夏さんは飽きずに読んでくれた。感想までくれた。「前と同じ設定なのに違う感情が呼び起こされてすごいです」。彩夏さんがくれたそんな感想のスクリーンショットは、未だに大切な宝物だ。

 それでも私たちは、会うことができない。

 この世界は残酷だ。好きな場所に行くことができなければ、好きな人に会うこともできない。小説しか面白いものが身の回りにはなかったから気がつかなかったけれど、好きな場所に行くことができるなら、好きな場所で物語を作ることができる。あの世界では、役者という仕事の人たちを集めて一つの場所で「映画」を作ることもできるんだ。それから、芝居。スポーツ。考えたこともなかった。一つの場所に大勢が集うことができるなんて。そんな世界、きっと驚くほど楽しい。楽しすぎてきっと、笑いながら死んでしまう。私はあの小説の作者を、神様だと思った。映画、芝居、スポーツ、電車、車、紙の本、思い出の場所という概念。知らない世界なのにどこか懐かしいにおいがするそれらは、私の神様だった。だから、あの小説の世界の話ができる彩夏さんは私の天使だった。

「彩夏さんに、会いたいな……」

 そう呟いたとき、ピロン、とまたスマートフォンが鳴った。ため息をつきながらロックを解除すると、そこにはまた、彩夏さんの可愛いアイコンがあった。


『響乃さん。会う方法を、考えませんか』


 吹き出してしまった、思わず。

 そんなことは無理だ。この世界は、あの小説の世界とは全然違う。歩けば時間を超えてしまう代わりに、私たちはどこにも行くことができないんだから。むせ込みながら、文字列を打ち込んでいく。

『そんなこと出来るわけないじゃないですか』

 だって、私たちは、囚われている。

『Tout ce qu'un homme est capable d'imaginer, d'autres hommes seront capables……人間が想像できることは、人間が必ず実現できるって、ジュール・ヴェルヌも言ったよ』

『そんな名言、アロット・ド・ラ・フュイ夫人の捏造じゃないですか』

『じゃあ、If you can dream it, you can do it. これはウォルト・ディズニーの実際の言葉でしょ』

『でもそんな』

 そんなこと、無理だって、ずっと思ってきたのに。

 彩夏さんは簡単に、私を縛っている物すべてを壊していってしまう。

『できるよ』

 彩夏さんの言葉は、自信に満ち溢れていた。

 SFは、いつかフィクションではなくなる。実現不可能だと言われていたインターネットが普及して、私たちの世界でも格段に便利になった。小説は全部インターネットで読むことができるし、小説を書くことだってできるし、同じ土地にいなくても誰かと会話することができる。

 だからきっと、私たちも出会えるというの?

『今、座標計はある?』

 私はスマートフォンを手放して、ポケットの中にある座標計を取り出した。

『北緯38°24'-41°59'、西経80°31'-84°49'です。』

『時間は?』

 彩夏さんのタイピングの速度がどんどん上がっている。私もそれに答えるように打ち返す。

『今は2020年1月23日にいます』

 しばらく考えこむように彩夏さんからの返信が途絶える。私の胸は高鳴っている。夢は見れば叶うのか? でもきっと、生きている間には出会えないはずの、そんな世界で?

『時間を移動すれば、座標はどうなるか、調べたことってある?』

『ない、ですけど……』

 彩夏さんはそこでインターネットのサイトを、ぽん、と送り付けてきた。読んで、とでも言うように。私はそれをクリックして、開く。

〈アインシュタイン博士によると、時間を移動し続けると、座標に小さなずれが生じるという研究結果が出ている〉

 つまり時間を超えて歩き続ければ、いつか座標がずれ続けて私たちは出会えるということ? 私はもう抑えきれなくなって、彩夏さんに電話をかけた。

「彩夏さん!」

 ふふ、何、とあの美しい声が聞こえる。

「私たちなら、出来そうじゃない? だからさ、歩こうよ、一緒に」

 彩夏さんとなら歩いてもいい。彩夏さんに出会えるためなら、いつまでだって歩いてみせる。

 私たちは小ぶりのバックパックに食糧と水、座標計とスマートフォン、スマートフォンの電池を入れて、歩き始めた。私たちは何度も何度も電話をかけた。時間を超えるたびに座標を確認する。

「北緯42°-49°、西経111°-117°」

「ちょっと近づいてない?」

 気のせいかもしれない。それでもいい。私たちは歩き続ける。歩いて、歩いて、いつか出会えるなら。出会えなくても、こうやって彩夏さんと歩けることが、嬉しいから。

「北緯51°16'7"、西経179°8'55"」

「北に行き過ぎたかもね」

 時々は機械を使って遥か人類が生まれるころに向かったり、遠い未来に行ったりもした。すると、座標は確かに大きく動いた。気のせいじゃない。確かに私たちは、どこかへ向かっている。

「北緯13°28'、東経144°47'」

「北緯35°76'、東経139°80'」

 もう私たちは何も言わなかった。二人の場所を確かめ合い、ただ歩き続けた。飛んだ時代が暴風雨に巻き込まれても、歩き続けた。


 そしてある日。

「「北緯34°47'、東経135°28'」」

 私たちの声が、重なる。


 私はそっと耳からスマートフォンを離す。上を見上げると、どこまでも青い空が広がっている。鳥が、時間を超えて飛んでいって、消えたり現れたりするのが見える。

 私たちは、立ち止まる。


「響乃さん」


 振り返れば、あの人が、そこにいる。






〈Travelers 了〉

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