第6話 帰宅と、これから

 ――これが竜の翼?


 左右から赤い柔らかな弾力のある質感の大きな膜のようなものが私たちを包んでくる。

 跨った、足の下のざらりとした鱗とは違う感触だ。

 そんなことを考えている間に、髪が風で舞い上がり、眼下に天窓のガラスに穴が空いた玉座の間と、私たちを見上げる人が小さく見えた。それはあっという間に点のようになってしまう。

 

 残った二枚の翼で赤い竜はゆったりと羽ばたきながら、空中を滑空した。

 向かう先には私たちの屋敷が見える。


 わぁ、とさっきまで泣いていた弟が感嘆の声を上げた。

 先頭にいたジェイクがその声に振り返り、ホッとしたように口元を少し緩ませた。


 私は心臓がどきりと鳴った気がした。


 いつもどおりの、小うるさいジェイクだ。


 だけど。


 じっと自分の手を見る。


 さっき、何て言っていた?


 何か前世が勇者ルーカスで、私が聖女だとかなんとか?


 私のことを彼が『マリーネ』と知らない名前で呼んだ時、私はそれが自分の名前だと思った。一瞬、見たことのない景色を思い出した気がした。


 けれど――、もう一度思い出そうとすると、あの景色は浮かんでこなかった。


 ただ、『ルーカス』という名前を、とても身近な――、例えば弟のディランの名前のように、自分のすぐ近くにいる家族のように親し気に感じた。


 それがかつての勇者の名前だと物語で読んだことはあって知ってはいたけれど。

 それとは全く違う感覚として。


 ――私は、ジェイクをずっと知っている?


 そんなことを考えていると、ふわりと胃が浮くような感覚になった。

 どんどん見慣れた我が家の庭が近くなる。

 あれ? 何か庭に円陣が書かれてる……。

 目を凝らしているうちに、 どん、という音とともに竜はそこに着地した。


「何事ですか!?」


 異常に気付いた使用人たちが庭に駆け出してくる。

 その中には、現在うちの執事長を務めているジェイクの父親もいた。


「ジェイクっ!?」


 彼は息子の名前を大声で叫んだ。

 私はこの白髪交じりの人の好さそうな執事の叫び声を初めて聞いた気がする。


 ジェイクはよっと掛け声をかけて竜から降りると、父親に呼び掛けた。


「父さん、お嬢様がお疲れなのでお風呂の準備をしてもらえますか。旦那様と奥様とお坊ちゃまにはお着替えを。少し洋服が汚れてしまっていると思いますので」


 それから赤竜の首を撫でて、私たちを包んだ翼を開かせた。


「も、もう降りても大丈夫か」


 お父様が青ざめた顔で言う。

 こんなお父様の反応を見るのは初めてだ。

 高いところ苦手なのかしら。


 それに対して弟は嬉しそうで、お母さまに抱えられて地面に降りると、物珍しそうに竜の足をしきりに触っていた。


「そうだ」


 ジェイクは思いついたように、何かをぼそぼそと呟いた。

 途端に芝生の上に描かれた、空から見ると円陣の中に星があるような形の線が光り出す。

 そこから光が立ち上がった。

 そして……瞬きの間にその光は消え――赤竜の大きな身体がなくなっていた。


「いなくなった!?」


 慌てて周囲を見回すと、足元で小さな鳴き声が聞こえた。

 見ると仔犬くらいの大きさの翼の生えた赤い竜が丸まっている。


「ジェイク! あんた一体何して……」


 執事長の後ろから、メイドのまとめ役をしているジェイクの母親が顔を出す。

 ジェイクはその小さな竜を両手で抱えると、彼女に押し付けるように渡した。


「母さん、クワトロは火って言えば火を吐くから。クワトロ、火」


 竜は口を開けると、自分の身体と同じ大きさの火炎を吐き出した。

 顔に熱風が吹き付ける。


「お湯を沸かすのに、使えると思う」


「え……? えぇ、ええ……」


 小さな赤い竜と息子を見比べて、メイド頭は困ったように夫の執事を見た。


「――いいから、とにかく旦那様たちのお着替えの準備と湯船の準備だ」


 使用人の鏡のような執事長は、非日常の出来事よりも仕事を優先したように周りに指示を出し始めた。


「旦那様、奥様――そしてお嬢様、お話は後ほど。私も着替えて参ります」


 ジェイクは深々と頭を下げた。


 ほかほかと白い湯気がのぼるバスタブに浸かった。

 お湯はいつもより熱すぎるくらいで、あの小さくなった竜が沸かしてくれたのかと思うと何だか微笑ましかった。


「疲れたわ……」


 湯に顎まで沈んだ。疲労感ごと自分がお湯の中に溶けていくように感じた。


 急に使えるようになった不思議な力や、ジェイクのこと、前世云々……気になることはたくさんあるけれど……、これからどうなるかわからないけれど……、


 とにかく――、


 家に戻って来れて、幸せだわ。


 私は瞳が潤むのを感じて、目尻を指で拭った。


 今こうしてゆっくりお風呂に入っていられるのも、全部、ジェイクのお陰だ。


「後で、きちんとお礼を言わないと――」


 まだありがとうとちゃんと伝えていない。


 湯から出ると、自分の部屋で侍女たちが着替えを着せてくれた。

 清潔な布地が気持ち良い。


 鏡台の前に座って髪を結ってもらおうとするところで、トントンっとノックの音がした。


「失礼します」


 姿を現したのはジェイクだった。土埃なんかで汚れた服を着替えて、いつもどおりのぱりっとした白いシャツを着ている。


 彼は、侍女たちを部屋の外へ下がらせた。


「ジェイク! ごめんなさい、こんなボサボサで」


 私はとかしかけの髪を押さえて立ち上がった。

 それから、彼に頭を下げた。


「――本当に、ありがとう。貴方のお陰で、また家に帰って来れたわ。本当に、ありがとう」


「お嬢様、そんなことは、いいんです!」


 ジェイクは慌てたようにぐいっと私の肩を持って頭を上げさせた。

 見上げるとジェイクの青い瞳が思ったより近くにあって、私はそれをじっと見つめる。

 不意にジェイクが視線をずらして顔を背けた。


「私は、お嬢様が無事でいてくれれば、それで――。私こそ、申し訳ありませんでした。数日でもお嬢様を牢に入れるような事態にしてしまいまして。お腹も減ったでしょう。今晩はお嬢様のお好きなものを多めに用意させますので」


 そう言うと、彼は私を元の鏡台の椅子に座るように促した。


「旦那様たちが客間でお揃いで――皆様とお話する前に、お嬢様とお話する時間が欲しくて――、申し訳ありませんが侍女たちを下げさせました」


 そう、と私は頷いた。

 皆――私を待っている感じなのだろうか。


「少し待ってね、今髪をまとめるから」


 鏡台から櫛をとって自分で結おうとしたところ、ジェイクの手が先にそれを取ってしまった。


「私がやりますので、そのままお座りになっていてください」


 器用に髪をとかしながら、ジェイクは長い指でそれを編み込んでいく。


「子どもじゃないんだから、自分でできるわ……」


 私は何だか恥ずかしくなって俯いた。

 小さいころはジェイクにこうやって髪を結ってもらうことがあった。

 最近はそんなことさせないけど。私だって男の人にそんなことをしてもらうのは恥ずかしいもの。

 ――本当に何でもできるわね、この人は。

 器用に編まれていく自分の髪を見ながら思う。


「――その、手を動かしていた方が落ち着きますので」


 後ろからもごもごと声がした。私はあれ、と心の中で首を傾げる。

 少し困ったような声だった。彼がこんな話し方をすることは珍しい。

 少し黙った後、彼は意を決したように口を開いた。


「――お嬢様は、何か――、思い出されたりしましたか?」


「思い出す……」


「……マリーネ様だったころの記憶を」


 私は彼がその名前を言ったとき、一瞬頭を流れた見たことがない景色のことを思い出した。


「――何か、知らない風景を見た気がしたの。でも、それは今はもう思い出せなくて」


 ジェイクの手が一瞬止まる。

 鏡に彼の落胆したような顔が映った。


「そう、ですか」


 彼は呟くと表情を戻して、また手を動かした。


「私、その『マリーネ』という人の名前が自分の名前だというふうに感じるのだけれど、その人が聖女だったの?」


「――そうですね、マリーネ様は『聖女様』と呼ばれていました」


「それで、あなたの前世が勇者ルーカスなの?」


「そうですね。私は生き残ったから勇者と呼ばれただけですが――」


 私はくるっと振り返ってジェイクを見つめた。


「私――、マリーネ?も魔王と戦ったの?」


「はい」と彼は頷く。

 

 聞きたいことは山ほどある。


 ジェイクを見据えた。 


「貴方は、いつから私がそうだと知っていたの?」


「お嬢様が、生まれた時からです」



 ◇


『――何か、知らない風景を見た気がしたの。でも、それは今はもう思い出せなくて』


 お嬢様のその答えに、私はショックを受けた。


 自分と同じように、彼女がはっきりとマリーネ様の記憶を持っていないことに。

 

 ――でも、と小さく笑う。


 それこそ、彼女らしいと思った。

 きっと彼女は、自分の最期に何の後悔もなかったのだろう。

 だからこそ、きっと、昔の記憶をはっきりと思い出さないのだろう。


「貴方は、いつから私がそうだと知っていたの?」


 お嬢様が私を見据えて聞く。

 

 ――自分は『ルーカス』としての人生に後悔ばかりだ。

 私は苦笑した。

 だからこんなにはっきりと前の人生の記憶を引きずっているのだろう。

 

「お嬢様が、生まれた時からです」


「生まれた……とき!?」


お嬢様は驚いたように瞳を大きく広げた。


「そんな前から? どうしてもっと早くに言ってくれなかったの?」


「彼女は――、マリーネ様は、癒しの力に目覚めたばかりに聖女と呼ばれ、魔王討伐に参加して命を落とすことになりました。私は――、貴女がハウゼン家のご令嬢として幸せに生きるために、その力は必要ないと思ったのです。余計なものだと」


 彼女の名前を後世に伝えなかったのは、恨みがあったからだ。

 彼女を聖女と祀り上げ、危険な魔王討伐に向かわせた民衆に。

 私は、魔王など倒さなくても――マリーネ様が傍で生きていてくれたらそれで良かったのに。


「……マリーネっていうのは貴方にとって何だったの?」


 一呼吸おいて、私ははっきりと言った。


「とても、大切な人です」


 彼女本人には最期まで伝えられなかったことだ。

 記憶がはっきりとなかったとしても構わない。

 どんな姿であっても、名前が何であろうが、彼女が彼女として幸せになってくれることが私の幸せだ。


「お嬢様はお嬢様で良いのです。そのままで、お嬢様がお嬢様として幸せになってくれれば、それで私は幸せです」


 そして、今度ははっきりと伝えたい。


「――私に、貴女を幸せにする役目を頂けないでしょうか」


 私は跪くと、お嬢様の手を取った。



 ◇


「え」


 思わず声が裏返ると共に、顔が熱くなるのがわかった。

 ジェイクは何を言っているのだろう。それじゃ、まるでプロポーズの言葉みたいじゃない。


「今回のことで――、貴女の幸せを誰かに任せることはできないと気づきました。私自身の手で貴女を幸せにしたい」


 膝をついたジェイクの青い瞳が下から真っすぐと私を見ていた。

 言葉が出てこなくて、空気を何回か飲み込む。

 ジェイクは困ったように笑った。


「お嫌でしょうか?」


 私は首を勢いよく振った。ようやく、口がまわるようになって、呟く。


「嫌――じゃないわ……」


 ジェイクは家族のような存在で――、いつも傍にいた。

 今回、もうだめだと思った時に彼が目の前に現れて、とてもほっとして安心したし、嬉しかった。

 そんな彼にそういうことを言われて、嫌な気持ちは全くしなかった。

 真っすぐ彼を見ることができない。何度か部屋の壁の模様をぐるぐる見ながら、聞く。


「それは、私のことを――、その、好きってことかしら?」


「もちろん」


 当然のこと、というようにジェイクはは単刀直入に答えた。


「今までもこれからもずっと、私は貴女を愛しています」


「――何で、そうはっきり言えるのよ……」


 私は今度は天井の模様を眺める。


「当たり前です。何度でも言えます。私は――」


「もういいってば!」


 私は跪いたまま下から私を見上げるジェイクの口を押さえた。


「お……お嬢様?」


 困惑したようなジェイクの口を思い切り手で塞いだ。


「もういいわ、わかったからっ!」


 私の手をずらすと、彼は困ったように笑った。


「……そうですか?」


 私は顔が火照るのがわかった。

 ――婚約者はいたけれど、男性に面と向かってそんなことを言われるのは初めてだ。


「……ありがとう。嬉しいわ」


 嬉しいのは本当だった。

 私は自分の顔を両手で押さえた。


 だけど。そこではっとした。

 私がマーティン様を治せたから良かったけれど、あんなに派手に登場してもし私がその聖女の生まれ変わりじゃなくて何もできなかったらどうするつもりだったのかしら。


「ねえ、貴方、私が癒しの術を思い出さなかったらどうするつもりだったの」


「――ご家族全員を連れて、国外にでも飛ぼうかと思っていました」


 何気ない様子でジェイクは言う。


 私は何を言っていいかわからず「そうならなくて良かったわ」と呟いた。

 

 いろいろ計画していたのかと思ったけれど、

 思ったよりも勢いだったみたいだ。


 良かった……、思い出せて……。


「じゃあ、行きましょうか」


 家族が待つ場所へ、二人で向かった。



 ◇


 お父様・お母様――そして、ジェイクのお父様とお母様を前に、ジェイクは自分の前世は勇者と呼ばれたルーカスという人間で、私は一緒に魔王を討伐した聖女だったと繰り返した。


 ジェイクのお父様とお母様は、「昔から変わったところのある子だったけど」と神妙そうに頷いた。


 けれど、とジェイクは続けた。


「お嬢様はお嬢様。私はジェイク=ハワードであることに変わりません。私の将来の希望は今までと変わらず、お嬢様の近くで――、この家のために働くことです」


 ◇


 私とジェイクの存在はあの場にいた貴族の間で周知のものとなったけれど、国王様とお父様たちの間で、私が無実の罪で裁かれそうになったことへの謝罪と引き換えに、私たちの存在は他国へは秘密のものとし、今まで通り生活することを認めてもらった。


 オーウェン様とマッケラス公爵は死罪、公爵家は爵位剥奪となり、アリエッタ様は――マーティン様から助命の嘆願があり、国外追放となったと聞いた。

 マッケラス公爵家の領地はハウゼン家が管理を引き継ぐことになり、私たちの領地は国で一番大きくなった。


 かつての婚約者の行く末を聞き、私は溜息をついた。

 オーウェン様の本心は知らなかったが、幼いころから表面上は、仲の良い婚約者をやってきたのだから、やはり気持ちが沈む。


「お嬢様、どうされました? お茶でも淹れましょうか?」


 変わらず、屋敷内でテキパキと働いているジェイクが足を留めてそう聞いてくる。

 すっかり小さな状態で我が家に居ついた赤竜は彼の後をついて回るように飛んでいた。

 

「……どこか遠くへ行きたいわ」


 私は空を見上げて呟いた。

 

「ねえ、どこかに連れて行ってくれる?」


そう聞くと、ジェイクはもちろんと大きく頷いた。


「お嬢様が行きたいところがあれば、どこへでもお連れします」


「そうねえ」


 私はこの国から出たことがない。


「……マリーネが見たものを見てみたいわ」


 そうすれば、前世の記憶とやらをはっきりと思い出すかもしれないし。


「いいえ、まずはお嬢様が見たいものを見に行きましょう」


 ジェイクは首を振ってじっと私を見る。


「お嬢様は、お嬢様ですから」


 私は、私。

 

 その言葉が、嬉しかった。


 あれから――、自分に前世があるとわかってから、ちょっとだけ、自分が何なのかわからなくなっていたから。


「それじゃあ――。海が見てみたいわ」


 この国は内陸にあるので、私は海というのを見たことがない。

 どこまでも続く水平線、というのを見れたら、気持ちが晴れる様な気がした。


「もちろん、行きましょう。すぐにでも行きますか?」


 ジェイクは自分にくっつくように飛んでいる竜を抱きとめると、私の方に向けた。

 があと小さい竜は鳴き声をあげる。


「それで行くの?」


「はい。ひとっ飛びですよ」


 少し得意そうに笑うその顔に、私の中で誰かの笑顔が重なった。

 はにかむような少年の笑顔。

 顔立ちは全然違うけれど、私を見つめる青い瞳がジェイクとそっくりだった。

 

 ――ルーカス――


 その少年の名前が私ははっきりとわかった。

 他の記憶はわからなかったけれど、彼がずっと自分の近くにいた存在だということははっきりわかった。

 そう、今も昔も――貴方はずっと私の近くにいてくれたのね。


 これから先がどうなるかわからないけれど――、貴方がいれば幸せになれそうな気がするわ。


「そうね、ちょっと着替えてこようかな」


 私は笑い返した。

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前世聖女な令嬢は、王太子殺害未遂の罪を着せられました。 蜜柑 @mikan_mmm

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