閑話 マゼンテの誕生日
その日もマゼンテはずっと、研究室に籠っていた。
人類の希望のために。
(ああもう、これじゃあ全然駄目……液体金属をこうやって噴出するとして、流体動力学的に……。違う駄目、絶望的に計算が合わない)
外は暗く、他研究室の明かりもまばらに点いているのみ。時刻は既に23時50分、マゼンテ・ネーヴェは今日も研究室に泊まり込むつもりでいる。かつての雪のように白い右手で目蓋とその下のくぼみをぐりぐりと指で揉みほぐしながら、同じ白さの左手でいつもの艶を失ったブルネットの毛を梳く。肩から毛布をすっぽりと被るようにかけていても、寒さは指先から少しずつ忍び上がってくる。
(すっかり慣れてしまったけれど、最後の微調整の時期に入るといつも疲れるわね。早く暖かいお風呂に入りたいな、あとはチョコレートが食べたい)
目の前には計算や図表がびっしりと書きこまれた大量の紙と使い込まれたペン、いつ雪崩のようになってもおかしくない程の文献や資料。こんな風に研究者然としている彼女だが、その実態はまだ10代の少女だ。
マゼンテがちら、と時計を見る。もう間もなく日付を跨ごうとしていて、短針と長針はほんの少しずれているだけ。僅かに残っていた人気もほとんどゼロに近くなっている。しばらく続いた降り積もるような静寂の後、彼女は再び動き始める。
(ここの微分だけ終わらせて仮眠を取ろう……)
カリカリ、というペン先が計算を、計算を超えた〈対氷惨兵器〉を、〈対氷惨兵器〉のさらに先の、「人類の希望」を、生み出し続ける。その間も、秒針はもう二度と戻らない時を刻み続ける。
カチ、カチ、カチ。
「おいマゼンテ」
その瞬間、後ろで声がする。マゼンテは机に触れそうなほど近づけていた額を勢いよくあげてそのまま振り返る。
「ネモ!? ねえ、どうして」
同じくノーチラス隊員の女性、ネモ・ピルグリム。同室の仲の彼女だが、戦闘員であるがゆえにこの研究棟にはほとんど近づいたことすらなかった筈だ。
「まさかあんた忘れてんの……?」
ネモは腕を後ろにやって、呆れたように笑っている。忘れている? いったい何のことだろう。嘘だろ、とあっけらかんとした笑いを響かせながらネモはマゼンテに近づいてくる。そして腕を突き出して
「誕生日おめでと、マゼンテ・ネーヴェ」
そう、長く続いた研究室に泊まり込む生活のせいで、カレンダーを見るのもすっかり忘れていたのだ。そんなことか、というようにマゼンテは力なく椅子に腰かけ直す。
「ありがと、ネモ」
久しぶりだね、とネモは笑いながら手に持っていた袋をデスクに置く。
「ケーキ、食べよ」
「でも私、あともうちょっとだけ……」
そういって椅子をデスクに向け直そうとするマゼンテの頬を、ぴしり、という音を立ててネモが両手で挟み込む。マゼンテは疲れて半分閉じかけていたような目を、大きく見開いてネモを見つめる。
「いっつも頑張ってるだろ、マゼンテは。誰よりも賢い頭を振り絞って、誰よりも長く、誰よりも重い責任を負って」
「でもそれは、それが
頬を挟まれたまま器用に話すマゼンテに、ネモは俯いて、大きくため息を一つ。
「その通りだよ。その通りだけど、あたしはあんたの、年に一度の誕生日を祝いたい。こんな世界でやっと出会えたあんたに、おめでとうが言いたい」
な、だから。今日くらい手を休めたらどうだ?
マゼンテはネモが優しすぎると思う。まだ彼女が「
(そしてマゼンテ・ネーヴェ、貴女はその優しさに甘えてしまうのよ)
自嘲。すこし寂しそうな、自嘲。
それからマゼンテはその微笑みをネモに向ける。
「仕方ないわね。一緒に食べましょ?」
静かに夜は更けていく。凍えるような寒さも、二人でいればほんの少し、和らいでいく気がした。チョコレートケーキが、口の中でほどけるように甘さを放つ。
(ありがと、ネモ)
マゼンテはその言葉を言うのが恥ずかしくて、丁寧に淹れた紅茶で流し込んだ。
〈閑話 マゼンテの誕生日 了〉
紅彩のマゼンテ〈氷海のヴェルヌ 外伝〉 Yukari Kousaka @YKousaka
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