忌録. Humpty Dumpty .
──この身勝手さをどうか、許さずに居てくれ。
手垢にインク、よくわからないシミや水気に当てられ
──そこに綴られたのは謝罪にも似た一行のメッセージ。
「……長年連れ添った私に、貴方はたったこれだけの言葉しか貴方は残してくれないのですね」
紺地の給仕服に身を包んだ妙齢の女性はその一文を愛しそうに撫で、手帳をそっと閉じました。
──手記が置かれていたのは、御主人の書斎にある唯一の机の上。
彼の使う机は普段、書類や骨格標本に始まり飲みかけのコーヒーカップなどが乱雑に置かれています。最早机としての機能を喪失したそれは綺麗に片付けられ、ホコリ一つない天板にポツリと手記が置かれていました。そして革張りの椅子には、自らの頭蓋を撃ち抜いた御主人様が眠っていたのです。
派手にぶち撒けられた血肉と脳漿は、彼の確固たる意思が生み出した結果。脳さえ無事であれば記憶を引き継ぎ、蘇る事が出来るようになった現代において完全な死を叶えるには脳を破壊するしかない。
──私は、始めての喪失感に暫し動くことが出来ませんでした。
どうしようもないくらいに彼は死んでいた。
助ける術もなく唐突に失われた大切な人。
誰かに殺されたのならば、仇討ちの為に動くことも出来る。
しかしこれは自殺である。
──彼が自らの意志で、自らを殺してみせた結果だった。
この書斎に入るには、脳のグリア細胞質に刻まれたコードが必要となる。それは彼と彼女にしか刻まれていない秘密の暗号。
たとえ脳を取り出したとしても、絶対に複製の効かない究極のカギ。
そんな秘密の場所で彼は誰にも別れを告げず、永遠に旅立つ事を選んだ。他人の事を拒絶する癖に、人肌の温もりが恋しいと独り泣き言を漏らした男は一人旅立ったのである。
「──貴方が願うのなら、私は共に命を絶ったというのに。
盲目的に貴方だけを信じ、貴方の望む愛を与える理想のパートナーとして造られた私です。老いることもなく、子を孕むことも出来ない歪な生命です。貴方に与えられたものだけを甘受し、貴方の望むように動く貴方だけの傀儡が私なのです。
だから私は私という存在全てを使い、貴方に尽くしてきたと思っておりました」
……それは誰に聴かせるでもない独白。震える声と共に零れ落ちた涙は彼の手帳に新たなシミを作ることでしょう。
「一体なぜ、貴方は一人で発つことを選んでしまったのですか」
勿論彼女は答えが返ってこない事を理解している。それでも胸中に渦巻く疑問が口をつくのを止められなかった。
「──馬鹿みたいですね、本当に」
乾いた声で彼女は自嘲し、事切れた彼の手をとった。
当然それは熱を失っており、重ねた手を握り返してはくれない。死後硬直により冷え固まった肉体はまるで人形のよう。これではどちらが被造物なのかわからないではありませんかと、口をつきかけたが言葉になることはなかった。
「……私は今、砕け飛散ってしまった欠片を集め縫い繕えば息を吹き返すのではないかと馬鹿な夢を見ています。
そんな事をしたって無駄だとわかりきっているのに、その手を止められずにいるのです。
地面に転がる大きな脳の欠片は、昔貴方がくれた羊羹の手触りに非常によく似ていますね。溢れ落ちるこれは、なんでしょうか。貴方を構成する物質には変わりないのでしょうが、何なのかはわかりません」
冷めた欠片を拾い集めるその手は微かに震えています。それは欠片を一つ摘む度に、彼の死を再認識させられているからでしょうか?
「……愚かな女だと、お笑いになりますか?」
欠片を抱えたまま、彼女が手にしたのは自殺に使われた道具。
時代遅れも甚だしいそれは、回転式拳銃と呼ばれた銃器の一つ。装弾数5発の骨董品は彼の血肉に彩られ、疎らに赤黒く染まっていたのです。
彼女は銃口にそっと指を滑らせ、拭ったモノで紅をひきました。そこにどんな意味が含まれているのか、それは誰にもわかりません。けれどほんの少し、彼女の表情が和らいだのは揺るぎない事実でした。
「撃鉄を起こし、その冷たい銃口を自らの側頭部へ当てて引き金を引けば……私は貴方の元へと逝けるでしょうか?」
──カチン。
──カチン。
──カチン。
──カチン。
彼女は4度引き金を引いた。しかし、そのどれもが不発だったのです。
「なぜ……なぜ、ですか!
まだ逝くなと、そういうことなのですか……!?」
絞り出すような慟哭と共に彼女の手から滑り落ちた回転式拳銃。
彼女はそれを拾い上げる事もせず、ただ立ち尽くしていたのです。声を押し殺し、静かに頬を濡らすその姿は捨て置かれた恋人のようでした。
「──死ぬなというのなら、指示を遺して下さい! あんな言葉を遺されても、私は……私は、困ります……」
そうして彼女は初めて声を上げて泣いた。
他人の心音と温もりは命の熱であり、それは最も心安らぐものだと教えてくれた彼の胸で。
「──初めてお借りした胸がこれでは、あまりに悲しいではありませんか…………!」
拍動もなく、温もりもない。
彼女の胸に去来したのは、触れるものから熱を奪い凍て付かせる哀しさだけ。言葉にならない想いは喉に詰り、嗚咽と共に溢れた涙は頬を伝い彼の胸を濡らしていく。
「どうせ泣くのなら、嬉し泣きが良かった……貴方と共に笑い、ささやかな幸せを噛み締めてみたかったんです。遠くに出られなくても、貴方が話してくれたような豪勢な食事が作れなくても、子供を授かれないとしても、手に出来る幸せはあったはずなのです。
なのに……どうして、私を遺して逝かれたのですか? 私は貴方に愛されたかったというのに、どうして──!」
──カチリ。
突如聞こえたのは鍵の外れる音。反射的に振り向いた先にあったのは、引き出しがほんの少しだけ飛び出したサイドチェスト。それは先ほどまでは確かに閉じられていたはずだと、恐る恐る彼女は手をのばします。
「これは、手紙……?」
引出しに遺されていたのは小振りな便箋。宛名もなにも記載のないそれは金色の蠟で封がされていました。しかし溶かした蝋が多すぎたのか、封蝋のはみ出しが多くやや不格好にも見えます。そんな便箋の中に入っていたのは数枚の手紙であり、慣れ親しんだ少し癖のある筆記体で綴られておりました。
──シオへ。
この手紙を見つけたということはそういうことで、私はもう死んでいるのだろう。
色々と想うことがあるだろうけど、君ならば理解してくれると信じてこの手紙を残す。
まず始めに伝えておくが、今まで君が感じていた愛する気持ちは歪んだものだ。君が与えるだけの一方的なものでしかない、付従う行為の延長にあるものだと言っていい。
だがこの手紙を読んでいるということは、君は愛されたいと願いそれを口にしたということだ。だからどうかその気持ちは大切にして欲しい。それを忘れなければ君は本当の意味で他人を愛する事が出来るからね。
とはいえ、君がどこまでそれを理解しているのかはわからない。しかし君はその入口に立っている。
……それはとても喜ばしいことだが、許されないものだ。
君は被造物でありながら、造物主の与える愛を理解したということになる。であれば、君は真に造物主へと至る可能性を秘めた存在であるとも言えよう。君をそのように育てられたことを誇りに思うが、これは超えてはいけないラインを超えてしまった事の証左でもある。
昔から言うだろう? 人が神に至るなどあってはならないと。
だから私は私を殺す事にした。君という存在を創り出した以上、その罪科に向き合う必要がある。
君と共に死ぬことも考えたがそれは止めだ。経緯はどうあれ、産まれた命に罪はない。
……君にはこれから先の人生を、自由に生きろ。
それを叶えるだけの肉体と知識は与えた。
安心して、君は君の人生を歩んでくれ。
──カリストゥム・ヴェラドンナより。
「……本当に、身勝手な御方です」
彼女は手紙を強く握り締めながら泣いていた。言葉にならない想いは涙となって流れ、声にならない想いは嗚咽となって吐き出されていく。
「──カリストゥム様。私が超えてしまった一線は、それほどまでに罪深いものなのですか?
貴方が産み落とした命の犯した罪をなぜ貴方が背負うのでしょう。私にはわかりません、わかりたくもないのです。貴方の言う愛を真に知れたのに、愛したい相手が居ないのなら識った意味がないではありませんか。愛を識る代わりに、
……自由に生きろと言われても困りますよ、カリストゥム様」
ソレを識ってしまったのならもう戻れない。
知らなかったと嘆く事は許されない。
彼女はここまで成長してまった。
伽藍堂の心に芽生えた愛は。
彼女が被造物へ戻ることを許しはしない。
──彼女はもう、戻れない所へ至ってしまったから。
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