断話.海神の情
最近になって、マリーナの家に私の兄が出入りするようになった。始めこそ驚いていたけれど、彼女は兄であるヴィゴの事もすんなりと受け入れてくれた。
「ナンシィ、君はお兄さんが嫌いなの?」
兄の居ない昼下がり、何時かのように二人で茶を楽しんでいると唐突にマリーが尋ねてきた。
「……どうして、そう思うの?」
「ずっとお兄さんの事を避けているからね。食事のタイミングは合わせない、彼が会話に混ざろうとしても居ないものとして扱う。
……正直、見ていてあまり気持ちの良いものではないよ、ナンシィ」
カップを手にしたマリーは困ったような、それでいて静かな侮蔑を感じさせる声で呟いた。パッと見で表情に変化はないけれど、彼女は明らかに怒っている。マリーは怒っても強い言葉は用いない、罵るような事もしないのだ。本当に昔から変わらない。
「──どうしても、相成れないんだ。
アイツの考え方っていうか、あの軽さが理解できなくて」
「軽い……って、どういうこと?」
カップに注がれた珈琲を一口だけ飲んだ彼女が聞いてきた。相変わらず怒ってはいるけれど、先程よりは幾らかはマシな雰囲気だ。
「アイツが昔、気にかけていた子が居たのは知っているよね」
「フルーフの事?」
「そうだよ。
……私達よりも後に生まれた、よりヒトに近しく造られたあの子の事だ」
──フルーフは人工的手法によって造られた。ヒトの胚に私達から採取した遺伝子情報を混ぜて産み出された、生産方法の確立された最初の亜人種である。
私達の用に一か八かで産まれるモノじゃなくて、1つの命のとしてほぼ確実に造れる新しいヒトのカタチ。人類よりも成熟は早くて、産まれてから十年もあれば生殖すら可能になる。それに知能の生育はもっと早く、生後五年もすれば旧人類における義務教育レベルの知性を得るのだ。
その生育速度には驚きを隠せなかったけれど、私は他の仲間達のように喜ぶことは出来なかった──
「フルーフは、とても賢い子だった。
世話役だった双子の姉妹が教えられる事も尽き始めた頃、アイツがフルーフに構うようになったのも知っているよね」
「……うん、確かにそうだったね。
君のお兄さん、あの子は物覚えが早い、特に文学的なモノについては期待出来るって嬉しそうにしていたな。
結局何を教えていたのかは良くわからなかったけれど」
嬉しそうに、昔を懐かしむような表情を見せるマリーが少し羨ましい。フルーフにまつわる記憶には必ず私の兄が居たから、どうしても良い気持ちには向かないのが悔しかった。
「アイツが教えていたのは日本語、それも漢字だよ……マリー」
──そう。アイツはフルーフに日本語を教えていた。
現存していた言語の中でも、特に習得が難しいとされた日本語を熱心に教えていたんだ。あの子の寿命が短い事を誰よりも理解した上で、アイツはあの子に色々なモノを教えていた。それだけじゃない、アイツはフルーフに請われれば何だって教えていたんだ。
「……どうして、そんな顔をするんだい……ナンシィ」
「アイツが、ヴィゴ兄さんが許せないんだ……」
ふと、視線を下ろした先にあったのは飲みかけのカップ。冷めきったそれに写る自分の顔は、やるせなさと苦痛の入り交じったもの。
こんな顔をしていれば、マリーが心配そうな表情を見せるのも納得だ。
「ナンシィはヴィゴの何を許せないんだい?」
「マリー、私は……アルテを亡くしてから思ったんだ。
フルーフが亡くなってから、アイツはすぐに他の奴を気にかけ始めただろう?
それはフルーフを失った悲しみを紛らわす為……ううん、折り合いをつけるまでの逃避行だと思っていたんだ」
──本当に、心の底からそう思っていた。真新しい傷口との折り合いをつける為に行っていた、一時的な逃避行に過ぎないのだと──
「けど、アイツはそうじゃなかった!
アイツは──ヴィゴは、フルーフの代わりを求めた訳じゃなかった……!
ヴィゴ兄さんは、フルーフからもう次の子へ移っていたんだ……フルーフが死んだ、その日の晩にはもう……次へ、進んでいたんだよ」
──私達でフルーフの葬儀を済ませてから数時間後にはもう、アイツの中にいた彼女は終わった存在になっていた。もう関わりのない、死んでしまった過去の存在として認識していたんだ。
「ナンシィ……」
「それに──アイツは……アイツが好きなのは命の輝きで、個人の命そのものじゃなかったんだ!
生まれ落ちてから死に逝くまでに見せる、その輝きを愛でているに過ぎないんだよ。だから、アイツがフルーフを愛したのも偶然でしかない。私は……ヴィゴ兄さんの、そう言うところが嫌いなの……許せないのよ……!」
──気付けば、私は泣いていた。
堰を切って溢れだした感情に身体が引っ張られているのだろう。泣いていると自覚した頃にはもう、涙を止めることなど出来なくなっていた。拭っても拭っても追い付かない、止めようとすればするほど涙は溢れ流れ出す。嗚咽も止まらない、自分の涙に溺れそうな気さえする。
溢れる感情に思考も視界もぐちゃぐちゃになり始めた瞬間、私はマリーナに抱き寄せられていた。伝わってくる柔らかな感触、そこにある命の温もりと鼓動に失った彼らを思い出し、私は子供のように声を上げて泣くことしか出来なくなっていた。
暫し彼女の胸で泣き、なんとか纏まりを見せ始めた思考のまま私は再び口を開く。
「けどね……マリー、私も……わかって、いるんだ……。
私達の……歩む……速度、は……彼ら……とは、違う……事、くらい。
だけど……だからこそ、私は……忘れられないんだ」
──そう、私も本当はお兄ちゃんと同じ。
彼らの、ヒトの命の輝きが好きなんだ。
私たちは何処かで彼等とは違う生き物だと理解しているから、より強くその輝きに惹かれるのかもしれない。
その輝きを知りすぎてしまうのが嫌だから、私は一線を超えないようにしてきた。あくまでも彼等を見守る立場として、一定の距離を取って関わることを選んだ──
「……なら、どうして君は関わることを選んだんだい?
愛されることを知らなければ、そこまで傷付くことも無かっただろうに」
「それは──」
──自分でもわからなかった。
古宿のスイとして普段通りにしていれば良かったのに、私はアルテを受け入れてしまった。愛されることを望んでしまっていたのだから──
なんの前触れもなく彼女は私を離し、軽く押し退けてきた。
「……気紛れに愛するヴィゴを嫌悪する癖に、自分だって似たようなことをする。君の抱く憤りは同族嫌悪から来るものに見えるけど、違うのかな」
私には返すべき言葉も想いもなにもなかった。そう言われればそうかも知れないと、心の何処かで納得しているからだろうか。
「君の傷はアルテを失った哀しみからくる物かと思っていたけれど、その様子じゃ違うみたいだね」
彼女の口から告げられたのは冷たく言い放つような言葉。憐れむような、蔑むような表情で私を一瞥すると、深い溜め息と共に彼女は席を立った。
「──気紛れに愛するヴィゴも大概だけれど、君だって同じじゃないか。気紛れに愛を受け取るだけなのだから、彼よりも質が悪いよ」
彼女が去り際に残した言葉は、私から立ち上がり追いかけるだけの気力を奪うには充分過ぎるものだった。
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