短録.綿津見の原に往く



「失ってから気付くものだとは思ってもいなかった……」

 真向かいに座る妙齢みょうれいの女は手にしたカップへ視線を落とし、独り言のようにポツリと呟く。


 未だ雪の降り積もる年の始め、便りもなく突然訪ねて来たのは古い友人。深緑色の長髪と、濃紺の瞳が特徴的な彼女の名はナーシサス。私は親しみを込めてナンシィと呼び、彼女は私をマリーと呼ぶ。そして彼女も私と同じように造られた人ならざるものであり、禁域とされた森で一人小さな古宿を営んでいると耳にしていた。

「……そうだね、大事なものほど失ってから気付くものさ」

「その口ぶり……貴女も失ったの?」

 視線を上げた彼女の顔には未だ深い悲しみの色が見て取れるが、その中にも私を気遣う優しさが残っていた。

「……最愛の人を、亡くしたよ」

 言葉と共に脳裏を過るのは、ソレイユと過ごした木漏れ日の様に優しく暖かな日々。それは二度と帰ってくることの無い愛しい日々の記憶。あの時間が、心の底から楽しいと笑えていた時間だった。

 それに気づいたのは、彼女を失ってから暫く経ってからだ。

「ご……ごめんね、マリー。思い出させてしまったかな……?」

「いや、大丈夫だよナンシィ」

 手にしたカップに口をつけ、少しだけ飲んで喉を潤す。ふと視線を移した先にあった窓ガラス。そこに映った自分の顔は心なしか窶れていたけど、大分マシな顔つきになったものだと思う。ソレイユを失った当時の私は、今とは比べ物にならないくらい──本当に酷い風貌ふうぼうだったのだから。

「……大丈夫だよ。だからナンシィ、君が何を失ったのか話してくれないか。君は、それを誰かに話したくて……私のところに来たんだろう?」


 彼女の顔に見えたのは戸惑いの色。その唇が微かに震えるも、言葉にはならず諦めたように閉ざされてしまう。

「ナンシィ……いや、──ナーシサス。

 悲しみを忘れろとは言わない、何事もどう向き合うかが大切なんだ」

 嫌なら逃げれば良い、逃げ切れるその日まで逃げ続けるだけだ。けれど逃げれば逃げるだけ立ち向かうのが恐ろしくなる。

 向き合いたくない、それがいつの間にか向き合えないに変わってしまう。そうなってしまえば逃げるしかない、いつか追い付かれてしまうその日まで。

「悲しみに向き合うというのなら、私は受け止めよう。

 君の悲しみを、共に飲み干してあげる」

「マリー……」

「君が飲み干せるまで共に居る。

 古い友人として、約束するよ」

 戸惑う彼女の目を真っ直ぐに見詰め、言葉を告げる。

「なら、お願いマリーナ。

 私の悲しみを、共に飲んで欲しい……」

 ──彼女は震える声で、そう応えた。







 ────ナーシサス。

 それは古い守護者に与えられた名前。

 ある施設を守る為に造られた過拡張人種エクステンダーズ。それは人として在りながら、竜の似姿にすがたを取れる人竜の乙女だった。

 その鱗は規格外とも言える堅さでありながら、宝石と見間違う程の美しさを持ち合わせていた。されどその四肢は巨木のように逞しく、その四肢に生える爪は如何なる獣よりも美しく凶悪なもの。しかし竜の中では比較的小柄であり、どこか女性的な雰囲気を感じられたと証言する者もいたと言う。

 ……事実、くだんの竜は小柄な部類であり、全長は八メートル前後しかなかった。深い海を連想させる濃紺の体躯は、木々の生い茂る森に眠る一つの宝石と言っても良い程に美しさであった。

 ナーシサスは大人しい竜だったが、危害を加えてくる存在には容赦しなかった。口から吐かれる吐息は鋼鉄を溶かし、鋼よりも硬く鋭い爪と牙は容易く命を刈り取る。

 しかし、その命まで奪う事は滅多になかった。相手からの降伏は受け入れ、降伏の意志が無い場合のみその身を引き裂いたのだ。

 竜として敵を下し、人として送り返す。その為に彼女は一件の古宿を作り、自らをスイと名乗って亜人と関わりを保ち続けていた。

 彼女が亜人種の敵としてありながら亜人種との交友を保つ奇妙な生活を続けること数十年、彼女は一人の幼い少年と出会った。


 出会いは森の中腹、彼女が古宿を営んいる場所の近く。

 一人行き倒れている彼を見つけた彼女は宿へ連れ帰り、その目覚めを待っていた。

「う、……ん」

「お目覚めかい、少年」

 連れ帰ってから二日、ようやく少年が目を覚ました。しかし極度の疲労からか、少年の動きは酷く緩慢である。

「お姉さん、だれ……?」

「私はスイ、この宿の主人だ。

 少年、君の名を聞いても?」

「……ぼくは、アルテ。

 お姉さん、ここは何処なの……?」

「禁域の森だよ」

 その言葉を聞いた途端、少年は上体を起こしベッドから降りようとした。私はそれを慌てて押し留め、ベッドへと戻してやる。少年の目は少し呆けており、風邪のような症状が見て取れた。

「おいおいおい、そんな体で何処へ行くつもりだ?

 ……ほら、少し診せなさい」

 無理やり咥えさせた体温計が示した数値は38.6度、紅潮した頬に垂れる鼻水と……どう見ても風邪だった。

「今から薬と氷嚢を持ってくるけど、逃げたりしたら駄目だからね?」

「……」

「返事は?」

「……はい」

 わざと声を張ってやると、少年は観念したように小さく答えた。どうせ言いつけなど守らないだろう、私は扉の前に小さな仕掛けを残してから地下の貯蔵庫へと向かった。夏場ならひんやりとして心地好いのだが、今は春先なのでまだまだ寒い。どうしても指先が悴んでしまうのは仕方の無いこと。だから氷を何度か取り落としたのも仕方ない筈だ。


 薬と氷嚢を手に部屋へ戻ると想像通り仕掛けが発動しており、青銅で造られた小さな竜の玩具が少年のケツに噛みついていた。

「やっぱり逃げようとしてたね」

「痛い、痛いよお姉さん!

 大人しくするから、これとってよ!」

 少年が尻に噛みつく玩具を必死に叩くも意味はなく、ブリキのドラゴンはしっかりと噛みついたまま離さない。

「本当かぁ?」

「本当だって、お願いお姉さん!」

「仕方ないなぁ、ほれ」

 ブリキドラゴンの尻尾を引っ張ると、今までの食い付きが嘘のように呆気なく外れた。解放された少年は尻を擦りながら私をキッと睨んでいるが姿勢も姿勢だし、涙目なのも相まって非常に滑稽だった。

「酷いや、お姉さん」

「大人しくしない君が悪いのだよ、少年。

 さぁ、ベッドへ戻ってくれ」

 渋々ベッドへ戻った少年に薬を飲ませると、数分後にはうつらうつらと船をこぎ始めていた。それから間も無く少年は夢の世界へと落ちていったので、その頭に氷嚢を乗せてやるとすぅすぅと穏やかな寝息が聞こえてきた。


「これは……?」

 少年の首もとに見えたのは小さな首飾り。そのチャームには小さな押しボタンがつけられており、開閉可能なデザインらしい。

 それを何故開こうと思ったのか、私にはわからなかった。気が付いたら手を伸ばしていて、開けるのが当たり前のような感覚でボタンを押していた。

 小さな金属音と共に開かれたチャーム、その内側に納められていたのは仲睦まじい三人の親子。これは恐らく、少年の家族写真なのだろう。


 それは微笑ましい、幸せの形──


 なのに、何故か私は悲しい気持ちだった。

 きゅうと胸を締め付けられるような喪失感に、訳もなく涙が溢れ落ちそうになったのを覚えている。

 私はそっとペンダントを閉じてから、可能な限り音をたてぬようにそっと優しく少年の胸元へ滑り込ませた。


 翌朝、薬が効いたのか少年の熱はすっかりと引いていた。他に宿泊客もいないので、私は朝食を少年の部屋で共に済ませる事にした。

「さぁどうぞ、遠慮なく食べなさい!」

 用意した朝食を前に少年は固まっていた。もしかして苦手な物でも見つけたのだろうか?

「……多くない?」

 やや呆れ気味な声と共に私へ視線を向けてくる。目の前に並んだ食事の量はいたって普通、今まで通りの量で作っているのだからそんな事はない筈だった。

「多くない多くない。少年は育ち盛りなんだし、このくらい食えるでしょ?」

「いや一応病み上がり……」

「とか言って、本当は嫌いなものでも見つけたんでしょ?

 好き嫌いはよくないぞー、少年」

 渋る少年の意見を無視して朝食を切り分け、少年の皿へと乗せていく。鳥の丸焼きに山豚の角煮、山菜の煮浸しに根菜の甘辛煮。白身魚の塩焼きとふっくらと炊き上がった玄米、なめ茸の味噌汁を手早く並べてやった。

「やっぱり多いって!」

「ほえ?」

 並べられた朝食を前に少年が吠えた。元気なのは良いことだが、食事中に立ち上がるのはよくない。

「どういう神経してるんだよお姉さん!?

 これどう見たって十人前はあるよ!!」

「またまた大袈裟な。

 これでも少ない方なんだよ?」

 病み上がりの彼を気遣って減らしたというのに、これでもまだ多いというのか。些か残念ではあるが仕方ない。

「食いきれるかこんなん!!」

「わかったよ、それなら食べられるだけ取れば良いじゃないか」


 その結果、少年の皿に残ったのは最初の半分以下。

「……それだけぇ?」

「これでも多いくらいだってのに……」

「だーからそんな細っこいんだ」

「んなっ……細くねーよ!」

 ムキになって吠えるが、私からすれば愛玩動物の子供が吠えるようなものだ。微笑ましいとは思いこそすれ、怖いとは微塵も感じない。

「ほーそーいーでーすー」

「お、俺は細くねぇ!

 姉ちゃんが太っ……──ぁ」

「だーれが太いってぇ……?」

「いだっ……いだだだだだだだ!?」

 アイアンクローをかましてやると、少年は涙目になって抵抗してくる。本当に面白い、心の底から楽しいと笑えたのは何時ぶりだったろうか。

 そうして体の怪我も癒えた頃、私は少年を麓の村まで送り届けた。最後まで小憎たらしい態度ではあったが、元気な証拠だと思いそれも微笑ましく思えて……別れがほんの少し辛かったのを覚えている。






 ──そんな日々を懐かしく思うようになった頃、私は再び彼と出会った。初めて出会った時とは違い、すっかりと大人の男になった彼が少年だと気付くのに少し時間がかかってしまった。

「どうした、あんまりにも良い男だから見とれたか」

自惚うぬぼれるのも大概にしな、この私がお前程度の男に見惚れる訳無いだろう?」

「ちっ、相変わらずだな……」

「ははは、それはお互い様だろうに。

 それでアルテ、お前は一体なんの用でこんなところに来たんだ?」

「……ちょっとした探しものだ」

 彼は私の問いに対し、ほんの少し間を置いてから答えた。なにか後ろめたいモノでも探していると言うのだろうか。

「──こんなところまで来る時点でちょっとしたモノじゃないだろ、何を探してるのか言ってごらんよ」

「多分、スイ姐さんじゃわからねぇ」

「なんだい、そんなに珍しいものなのか?」

「いや、そうじゃなくて……

 この森の奥に一匹の竜がいるのは、姐さんも知ってるよな」

 彼の言葉に一瞬心臓が跳ね上がる。それを悟られないように必死で押さえつけながら彼の様子を見るが、勘づかれた様子はない。

 彼は自分がどこまで話して良いのか迷っている雰囲気である。

「──まぁ、知ってるよ。

 悪いけど、そこへ行こうと言うのなら全力で止める。

 はっきり言うけど、お前程度じゃ何も出来ずに死ぬだろうからね」

「そんな事は解ってる。

 だから目的は竜じゃない、俺達が探しているのは竜が守っている遺跡なんだ」


 ──何故彼がそれを知っている?

 竜の存在が知られているのはまぁわかる。他ならぬ私自身がその竜であり、可能な限り亜人種達を意図的に殺さず帰しているのだから。

「……誰から施設いせきの話を聞いた、アルテ」

「村に来たヴラグって言う天使様だよ。

 禁域の森にいる竜が守る遺跡、そこに魔物の秘密が眠ると言われて……」

 ──一体どんな目的があって天使はそんな事を。

 私が守るように言われた遺跡しせつは確かに秘密を抱えているが、それは魔物についての秘密ではなかった筈だ。天使の目的も私達の目的も同じ、もしも何かしらの意図があるのなら連絡の一つはあって然るべきだろう。けれど、私の元にそう言った連絡の形跡は何一つなかった。

「姐さん……?」

 逡巡する私を引き戻したのは彼の声。彼は心配そうな面持ちで私を見ていた。

「……ごめん、遺跡の事を思い出していたんだ」

「なんだ、それなら──」

「──関わるな。

 それに天使様は秘密があるとだけ言ったんだろう。それともなんだ、天使様は君らに遺跡を調べろと言ったのか?!」

 目前の彼は戸惑いと恐れの入り雑じった表情を見せている。

 ……それは当たり前か。私は彼の言葉を断ち切るように言葉を被せ、声を荒げてしまったのだ。

「ど、どうしたんだよ姐さん……その遺跡はそんなにヤバいのか?」

「そう……だな、近寄らない方がいい。

 ここから何人か見送ったことがあるけど、誰一人として帰らなかった」

「……マジかよ、それ」

「本当だ。大物喰ジャイアントキリングのブラッドも帰ってこなかった」

 その言葉を聞いた彼の顔には明らかな落胆の色が見えた。

 私としてはこのまま遺跡の事を諦めてくれる事を願うが、恐らくは諦めないだろう。亜人種達は魔物を倒し、造物主たる人類を再び地球へ迎える為に戦っているのだから。


「──だから諦めろ、アルテ」

「で、でも……」

 ──なら、好きにしろ。

 何時もの私ならそう言っていた筈なのに、私の口からその言葉が出ることはなかった。何故あんな言葉が出たのか、あの時の自分にはわからなかった。

「生き急ぐことはないんだ、アルテ。

 あの遺跡を調べるのは君じゃない、お前はお前にしか出来ないことをやればいいんだよ」

「姐さん……」

「……今日はもう遅いから泊まっていきな。

 どこでも好きな部屋を使え、どうせ誰も来ないから」

 私は一方的に会話を断ち切ると、彼を置いて一旦自室へと向かった。テーブルに置かれた燭台に火を灯し、部屋を出て屋内の柱に取り付けた燭台の幾つかへと火を移していく。

 普段灯している場所の全てに火を点け終えエントランスへと戻ると、彼がそこに一人立ち尽くしていた。

「アルテ、そこは部屋じゃないぞ」

 少し離れた場所から声をかけると彼は、はっとしたように此方へ振り向いた。

「部屋は何処も空いているし、鍵も空いているから好きなところを使え。今夜は冷えるからな」

「……なら、姐さんの部屋にいってもいいか」

 そう手の要求かと思ったが、表情から察するに違うのだろう。あれは何かしら悩みを打ち明けたい奴の顔つきだった。

「……いいよ、ついてきな」

「ありがとな、姐さん」




 自室に入ってからずっと、彼はなにか言いたそうにしていた。けれど言葉が見つけられないのか、私へとちらちら視線を送ってくるばかり。

「──なにが聞きたいんだ、アルテ」

 仕方なく助け船を出してやる。それでも何も言わないようならもう聞かないつもりだった。

「……天使様について、聞きたいんだ」

「天使様について……?」

 帰ってきたのは予想外の質問。

 長い間生きていたが、亜人種が天使を知ろうとする事なんてなかった。亜人種の大半は天使が人類からの遣いであり、強大な魔物から護ってくれる頼もしい存在だと信じきっている。

 だから彼らはそれ以上の事を知らないし、知ろうともしない。

 ──それが普通だった。

「その、天使様にも感情ってあるのかなって」

「感情……?」

「うん。天使様達も嬉しいとか、寂しいとか……そう言った感情を持つことはあるのかなって……」

「……どうだろう。

 天使様は一般的に感情を持たないと言われているが」

 天使が感情を持つかどうかは知らないが、あれらは絶対に感情を露にしない。感情的になると余計な被害を生むと知っている造物主じんるいが仕掛けた安全装置セーフティーネットであり、実際それは良く働いてくれた。

 それについて造物主達に思うところはあるが、結果として助けられた場面も多い。

「なら、あれは俺の思い違いなのかな……

 ヴラグって名乗った天使様が、一瞬だけ凄い嫌な顔をしたんだよ。心の底から怨んでいるような、底冷えする威圧感があった」

「……きっと、見間違いだ」

「そうだよな、姐さんの言う通りだよな……あんなの、見間違いだよな」

 消え入るような声でつぶやくと、彼は項垂れ黙ってしまう。静まり返った室内に聞こえるのは、鎧戸を叩く雨粒の音。それは次第に強さを増していき、終いにはバケツをひっくり返したかのような大雨に変わっていた。

 どちらから誘うわけでもなく、私達は一つしか無いベッドへと移り背中合わせにして眠りについていた。






「……まだ、降っていたのか」

 ──翌朝になっても雨はまだ降り続いていた。

 時折雷鳴の鳴り響く中、私は眠り続ける彼を起こさぬようにそっと部屋を出る。一階と二階にある鎧戸に異常はなく、雨漏りの気配も確認できなかった。私はその足で浴場へ向かい、汗を軽く流してから朝食の準備に取りかかる。

 そうして粗方出来上がったところで、爆発したかのような寝癖の彼が食堂に現れた。

「随分遅い起床だな、アルテ」

「……姐さんが早いんすよ」

「とりあえず顔を洗ってこい、酷い面だ」

 欠伸あくびの混じった声で答える彼にフェイスタオルを投げ、洗面台の方へと促す。すっきりとした彼が戻ってくる頃には丁度朝食の準備が終わっていた。

「あれ……普通の量だ」

 着席し、料理を目にした彼がポツリと呟く。

「この量なら食べられるだろう?」

「あぁ、これなら丁度良い量だ」

「では──」

「「頂きます」」

 手を合わせお決まりの台詞を口にしてから食べ始める。

 真向かいに座る彼は、全ての料理を旨い旨いと言いながら次々口へ放り込んでいた。

「……んぐっ?!」

「おいおい、焦りすぎだ」

 そして案の定、詰まらせたらしい。彼は片手に茶碗を持ったまま胸を叩き始めたので、私は水差しからコップに水を注ぎそれを手渡す。彼はそれをひったくるようにして掴むと、中身を一気に飲み込んだ。

「喉に詰まらせるなんて馬鹿だな君は」

「助かったよ姐さん……あんまりにも旨いものだからついやっちまった」

「子供じゃあるまいし、そうであったとしても少しは抑えて食え。飯くらいなら何時だって作ってやるから」

「マジか、姐さん!」

「お、おう……そんなに喜ぶ程のものか?」

「あったりめぇじゃんよ!」

 底抜けに明るい笑顔は子供のそれだった。

 身形はもうすっかり大人の癖に言動がまだまだ稚拙で、どこか子供っぽい。そんな彼からの、飾らないストレートな感謝の言葉はとても嬉しいものだった。

 楽しい朝食を終え、皿洗いなどを終えてもまだ雨は降り続いていた──


 ──そうして雨の降り続く間、私は彼と共に過ごし続けた。


 決して広くはない古宿で共に過ごす内、気付いたことがある。

 彼の好みはどんな味付けなのだろうか、何を使った料理が好きなのだろうかと、献立を決める際に思うようになっていた。彼の身長に合わせるのなら、この椅子はもう少し高くして座面を広げるべきだろうかと迷うことも増えた。

 彼は彼で、私の事を良く見ているというか……丁度良いタイミングで手伝ってくれたりする。

 ──結果として半月が過ぎる頃にはもう、私の頭は彼の事で大半を占めるようになっていた。

 他愛のない話に花を咲かせ、夜は共に眠る。そんな日々の中にあって、昔読んだ小説にある夫婦のようだと笑ったその日の晩──


 ──私は身体を許し、越えるべきではない一線を越えた。

 心身共に満たされ幸せな余韻に浸りつつ眠りについた翌日、そこに彼の姿はなかった。代わりにあったのはテーブルの上の置き手紙。

 その手紙には拙い文字で「ありがとう、そしてごめん……愛している、スイ」とだけ書かれていた。

 私は手紙を読みきるのと同時に着の身着のままで古宿を飛び出し、彼が居るであろう場所へ飛んだ。



 人ではなく、竜として──



 ──遺跡しせつの番人として、空を駆け彼の前に降り立った。



 空は突き抜けるような青空だというのに、私の心には暗雲しかなかった。あれきり話題にはしなかったのに、どうして諦めてくれなかったのか。何故彼は今になって、私を抱いた翌日にこんなことをしたのかわからなかった。

「やっぱ駄目なのか……!」

 降り立った私を、青年は苦虫を噛み潰したような表情で睨んでいる。

「立チ去レ、ココハ汝ガ来ルベキ場所二非ズ」

「……どうしても駄目なのか、竜よ!」

「何故、コノ先へ進ム」

「守りたい人がいるからだ」

「──ナラバ、帰レ。ソシテソノ者ノ隣二居レバ良イ」

 それは本心からの言葉だった。守りたい人がいるのならその隣で守れば良い、亜人種一人の力なんてたかが知れているがそれくらいなら出来る筈だから。駄目なら私が頑張るから……帰ってくれ。

「それは出来ない!

 竜よ、この奥にある遺跡へ立ち入ることを許してはくれないか!?」

 私の願いとは裏腹に、彼の目に宿る決意はより一層強まっている気がした。

「ソレハ出来ヌ、アレハ何人モ見テハナラヌノダ」

 彼処あそこに眠っているモノを今、目覚めさせる訳にはいかない。あれが目覚める為にはまだ、条件が満たされていないのだから。

「──なら」

「……武力デ以テ、我二挑ムノカ?」

 自然と、声は落ちていた。警告というよりは祈るような、願うようなそれを耳にした彼は剣にかけた手を止めていた。

 迷っているのなら、諦めてそのまま引き返してくれ。あの古宿でまた美味しい料理を食べよう、君の好きなものを、やりたいことをしよう。

 ──だからどうか、その剣から手を離して帰るんだ。

 そう願う私の瞳に映ったのは、剣を構えたアルテの姿。

「……悔イハ、無イノダナ」

「──ない」




 決意の一言、それが開戦の合図だった。




 彼の武器は至って普通の両手剣であり、その程度で私は傷付かない。身体は痛くないのに、酷く心が痛んだ。

 ……何時ものように四肢のどれかを落とせば彼は止まるだろうか?

 けれどそんな痛みを彼に知って欲しくない、なにより傷付く彼を見たくない。

 そうして迷い、戸惑いながら私は戦うフリを続けた。当てる気の無い攻撃を繰り返しながら、諦めてくれることを願いつづけて。

 ──けれど彼は日が落ちても諦めなかった。

 全身が泥だらけになっても、両手剣の刃が使い物にならいほど欠けてしまってもその手を止めない。

「マダ、諦メヌノカ」

「……諦めが悪い方なんでな」

 不敵な笑みを浮かべてはいるものの、限界が近いのは目に見えていた。このまま疲労で倒れてくれるのならそれでいい、そうしたら古宿に連れて帰れる。

 ……けれど、彼は倒れなかった。疲れ果てた身体で剣を振るい、弾かれた反動で倒れてもまたすぐに斬りかかる。ここまで頑張ったのだから、そろそろ終わらせてしまおう。彼に手をあげるのは心が痛むが、剣を弾き飛ばしてそのまま軽く押さえつければ良い。

 そう思って、尾を振るった瞬間──


 長く続いた雨の影響か、彼が泥濘ぬかるみに足を取られ体勢を崩してしまった。

 互いにもう止まれないし、尾の軌道を反らすにしても遅すぎる。


 ──研ぎ澄まされた針のような私の尾は、彼の胸板を貫いていた。


 それはどう見ても致命傷であり、助かる見込みの無いもの。

 赤い飛沫の向こうに見えた彼の顔に浮かぶのはやってしまったという後悔、彼の瞳に映る私の顔を一生忘れないだろう。

「──ウ、そ……」

 ぬるりと滑るように尾から落ちた彼は、ピクリとも動かなかった。私は即座に人のカタチへと戻り、倒れた彼の肩を揺する。

「アルテ、アルテ!」

 泣きそうになりながら必死で呼び掛ける。

 けれど反応はない。彼の息は加速度的に弱まり、胸の傷から流れる血は止まる気配すらみせない。

 私は彼を抱え上げ、遺跡しせつへと走った。あの場所なら、あの遺跡しせつにある機械を使えばこの傷を元に戻せるかもしれないから。


 ──施設の入口を開くと、そこには通路を塞ぐようにして一体の天使が立っている。そいつの濡れ烏のような黒髪と、黒色環状発光体ブラックリングには見覚えがあった。

「やぁ、ナーシサス」

「……ヴラグ!?」

 居る筈の無い天使は屈託の無い笑顔と共に近寄ってきた。

「番人である君がここに居る理由は後で聞くとして、どうして亜人種なんて連れているの?

 見たところ死んでいるようだけど、ごみ処理かしら」

 彼女は彼を一瞥し、ゴミと言い放った。

「違う、この先にある修復装置を使いに────っ、ぁぐ!?」

 反論した瞬間、両膝を撃ち抜かれていた。

 力の入らぬ足ではバランスなど取りようもなく、私は崩れる様にして倒れた。その衝撃で私は彼を離してしまい、彼は彼女の足元にまで転がっていってしまう。

 彼女は彼を乱暴に掴み上げると私の方へ近づき、無造作に私の髪を掴んできた。そのまま無言で私を引き摺りながら彼女が向かったのは、有機転換炉と呼ばれる区画。

 投入口の前まで引き摺られて、やっと私は解放された。焼かれたように痛む膝に無理やり力を込めて立ち上がるも、柵に掴まなければ立ち続けることは難しい。

「なに……を、するつもり……?」

「なにって──ゴミ処理よ」

 彼女は此方に背を向けたまま、その手に掴んでいたものを投入口へ投げ込んだ。

「ダメ────ッ……あ、ぁ……………!」

 作動アナウンスと共に投入口が閉じ、彼を飲み込んでしまった。閉じられた鋼鉄の扉は、私が全力で殴り付けても傷ひとつ与えられない。


 それでも諦めきれずにもう一度殴ろうとした瞬間、破城槌を打ち込まれたのかと錯覚するほどの衝撃が腹を突き抜ける。腹から空気が押し出される感覚と共に覚えたのは浮遊感、蹴り上げられたのだと理解した時には地面に叩きつけられていた。

「ナーシサス、機械は大事に扱わないと」

 息を詰まらせ、せる私の脇腹を蹴りながら彼女は続ける。

「いくらでも替えの効く亜人種ニンギョウに、アレを使う程の価値があると思っていたのですか?」

 打ち込まれる蹴りは重く、内臓に刺さるような痛みを残す。

「古宿なんか営んじゃって、腑抜けたのかしらね。

 ……半月も降り続ける雨に対して、なんの疑問も感じなかったの?」

 突き刺さるような爪先蹴トゥキックが腹に打ち込まれ、まとまりかけた思考と共にねばついた血痰が吐き出された。噎せる度に吐き出される鮮血から察するに、私はどこかしらの内臓を痛めたらしい。

「ごほっ……ヴ、ラグ……あの、雨は……貴方の、仕業──?」

「どうかしら……それじゃあさようなら、ナーシサス。

 ──貴女には失望したわ」

 見慣れたアルカイックスマイルと、顔面を蹴り抜かれた痛みが最後の記憶だった。





 ────────────……………………


「──……目が覚めたのは、古宿の前さ。

 けど、私の思い出が詰まったあの古宿は目の前で燃えていた」

 微かな熱と、パチパチと空気の弾ける音で目を覚ましたのだと言う。鈍痛の残る身体をどうにか起こすと、古宿は猛烈な勢いで燃えていたらしい。

「消火しようという気すら起きぬ程の勢いを前に、ただ呆ける事しか出来なかった。鎮火した跡に残ったのは真っ黒な灰だけで、跡形もなくなっていたんだ」

 彼女は俯き、その声は震えていた。

「どうして、こんなことになった……?

 私はこんな仕打ちを受けるような罪を犯したのか?」

 ポツリ、ポツリと言葉共に涙を流す彼女は未だ俯いたまま。

「……私が本当の姿を見せた上で付き合ってれば、こんな事は起きなかったのかな」

 絞り出すような声。

「──マリー、私は……夢を見ていたんだ。

 番人として恐れられる竜ではなくて、彼等と対等に在りたいってさ。だから人のかたちを残して、宿なんて営むようになって……色々な人のカタチを見ていた」


 彼女が手にしたカップはもう冷めきっていた。立ち上がる湯気もなく、レモンバームの香りもほとんど感じられない。

「……だからこそ、亜人種と私達は同じ速度で歩けない事を強く意識するようになった。

 いずれ私よりも先に消えていくのなら、この姿で夢を叶えようと願った。本当の姿なんて知らず、古宿のスイとして愛されたいと」

 深い溜め息を吐いてから、彼女は冷めきったそれを一息に飲み干す。私がティーケトルに手を伸ばしかけた時、彼女は静かに首を降った。お茶のおかわりは不要らしい。

「──バカだと、笑ってくれ。マリー」

 私に向けられた笑顔は、泣いていた。

「……私には笑えないよ、ナンシィ。

 私も同じような夢を見たのだから」







 ──それから私達は暫く共に過ごした。

 どちらかが言い始めたわけじゃない、この手の悲しみは独りで抱えるものではないと知ったからこその選択。


 海原うなばらだと錯覚してしまう程に広く深い悲しみを越えるには、共にく仲間が、その悲しみの味を知る者が必要だと知っていた。


 ──そう、理解していたから望んだんだ。













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