短録.リブラリア
始まりは一冊の本。
あの日、僕は初めて本を借りた。町の外れにある小さな図書館、そこにいる受付のお姉さんから説明を受けて初めて作った一枚の図書券は、僕にとっての宝物であり──終わりのない夢への片道切符。
僕は本を読むのが好きだった。勿論友達と体を動かして遊ぶ事も好きだけど、一人で本を読む時間には劣る。本は何時だって僕を知らない世界へ誘い、様々な知識を与えてくれるから好きなのだ。
けど残念なことに、僕の家には本を置く場所もお金もなかった。だから、僕に本を読む楽しさを教えてくれたお祖父ちゃんに相談してみたのだ。そうしたらお祖父ちゃんは、町の外れにある小さな図書館を教えてくれた。
そこは家から少し遠いけど、一人でいけない距離じゃあない。後日僕は試しにと、たった一人でそこへ向かってみたのだ。
──それが、小学校三年生の夏だった。
ひぐらしの声が夕暮れを告げる頃、訪れた図書館はちょっぴり怖かったのを覚えている。古い煉瓦作りの建物は、壁一面に蔦が生い茂り図書館というよりは幽霊屋敷のような雰囲気に包まれていた。
ドアにはオープンの吊り看板がかけられているし、誰かが出入りしているのは確実だ。それに、此処を教えてくれたのは大好きなお祖父ちゃんである。きっと大丈夫だと、自分に強く言い聞かせて──ゆっくりとドアを三度叩いてみた。
すると──ややあってからキィ、というドアノブを捻る音と共に扉が開かれた。中から現れたのは、見慣れぬ黒衣に身を包み薄手のレースを肩にかけた長身の女性。白い肌と絹糸のような銀髪が印象的だった。まるでファンタジー小説の登場人物の様だと、幼心に興奮したのを覚えている。
「──可愛らしいお客様ですね。どうぞ、中へ」
あの日、 彼女が僕に向けた微笑みを一生忘れないと思う。そしてきっと、僕はあの瞬間から彼女を好いていたんだ。
そうして彼女に促されるまま入った図書館は、僕が今まで訪れた部屋の中で一番豪華だった。天井は体育館並に高く、巨大な環状の燭台が吊り下がっている。唯一の光源がその燭台のみなので、全体的に薄暗くはあるものの……それがかえって非日常感を強めており、僕は一瞬にして虜になった。
不思議な図書館に僕は心を奪われ、その雰囲気に酔っていると──背後から司書のお姉さんに声をかけられた。
「本日は図書館“
私は司書のリブラ、と申します。以後お見知りおきを……早速で申し訳有りませんが一つお尋ね致します。貴方は誰から本館について教わりましたか?」
「僕のお祖父ちゃんです」
「そうですか。もしよろしければお爺様のお名前をお願い致します」
「“祖父の名前”」
「ありがとうございます」
そう言うと司書さんは手にしていた一冊の手帳を開き、ペラペラと捲り続け──あるページで止めるとそれを此方に手渡してきた。それを受け取りページへ視線を移すと、一つの名前を指を差された。指し示されていたのは、とても綺麗な字で綴られた祖父の名前である。
「こちらでお間違いはありませんね?」
「……はい、たしかにお祖父ちゃんの名前です」
僕が手帳を閉じて司書さんに返すと、司書さんはそれを受け取り腰のポーチへと仕舞い込んだ。
「ではこちらへ。どうぞお掛けください」
促されるままに指定された椅子へ腰かける。見るからに高級そうな椅子で、見た目に違わずとても良い柔らかさで僕の体を支えてくれたのを覚えている。
「此方の紙に、漢字でご自身のお名前をお願い致します」
手渡された紙とペンを受け取り、氏名と書かれた欄に名前を書き込んでいく。書き終えた物を彼女へ手渡すと、彼女はそれを先程の手帳へと書き込んでいく。
「汐田 渚というのですね」
「はい」
「では、図書券をお渡しいたします。本館の書物を利用する際には必ず私にご提示下さい」
彼女から手渡されたのは、薄くも硬い一枚のカード。黒地の表面には金色の印が捺されており、裏には彼女の字で僕の名前が記されていた。
「──それとこちら、どうぞお使いください。
先程お渡しした図書券を収納するのに、丁度良くなる様お作りいたしましたので」
彼女が手渡してきたのは皮革で作られた折り畳み式のパスケースだった。焦げ茶色のそれを受け取り、早速図書券を収納してみる。それは彼女の言うとおり、ぴったりと図書券をしまうことが出来た。
「それでは渚様、最後に本館の説明に移らせていただきます。
──まず本館の利用時間は朝の5時から夜の10時までとなります。そして一階の書物は閲覧、貸し出し共に自由となりますが地下の書物についてはその限りではありません。また地下へ立ち入る際には必ず私へ一言お掛けください。
本の貸し出しは原則一週間、延長を希望される場合は私へ直接お申し付け下さい。
そしてもしも本を汚してしまったりした場合は速やかにご報告を。決して御自身での修繕は行わないよう願います。
以上となりますが渚様、なにかご不明点などありますか?」
「いえ、特にありません」
「承知いたしました。もしもご利用中に困ったことがありましたら、遠慮なくお呼び下さい。読めない文字や、意味のわからない表現等をお聞きになられてもかまいません。
それでは、良い一時を──」
司書さんは微笑んでから軽く頭を下げると、踵を返し受付と思わしき場所に戻っていった。不思議な雰囲気の人だと思いつつ、僕は初めてみる本への好奇心を押さえきれなくなっていた。
先ず向かったのは冒険小説の札が立てられた一角。本棚には隙間なく本が並べられており、それらはジャンル毎に纏められていた。僕はその中から気になったタイトルの本を数冊取り出し、近くの読書スペースへと運んだ。
館内に響くのはページを捲る音と時計の秒針が動く音、そして耳を澄ますと微かに聞こえる僕と司書さんの息遣い。
はっきり言って、ここはとても居心地がよかった。
だから閉館を告げる鐘の音が聞こえるまで、僕はそこで本を読み耽ってしまったのである。僕は司書さんに挨拶を済ませ、急いで家に帰ったのだが当然親には叱られた。お祖父ちゃんだけは僕の味方をしてくれたけど、あまり意味がなかった。ほんの少しお小言は短くなったのかもしれないけど、その程度である。
その日の晩に僕は両親と約束を交わし、件の図書館へいくことを許された。そしてお祖父ちゃんが時間を確認できる様にと、古い懐中時計を僕にくれたのだ。
それからの僕はというと──時間を作っては毎日のように図書館へと通い続けた。勿論夏休みの宿題もやったし、友達とも目一杯遊んだ上でである。
また不可思議なことに、件の図書館には何故か僕しか利用者がいなかったのだ。けれど、僕にとっては好都合でしかなかった。内心では、綺麗な司書さんとお話しする機会が増えて嬉しい、だなんて考えていたのだから。
そして家に帰ってからは、お祖父ちゃんと読んだ本について話をするのが日課になった。
実を言うとお父さんもお母さんもあまり本を読まない人間だから、本の話をしてもつまらないのである。
そうしてそんな夢の様な毎日を過ごす内、お祖父ちゃんから一つの忠告を受けた。
“彼処はお前が読みたいものを提供してくれる、とても素敵な図書館だが……受付のお姉さんとは仲良くなりすぎるなよ”
というよく分からない忠告だ。どうしてお姉さんと仲良くしたらいけないの? と聞いても、お祖父ちゃんは困ったように唸るだけ。はっきりとした理由は終ぞ口にはしなかったのである。
けれど大好きなお祖父ちゃんからの言葉には違いない。なのでその忠告を頭の片隅に残しつつ、図書館へと足を運び続けた。最早習慣となってしまったそれは、なんと僕が高校に通うまで続いたのだ。
件の司書さんはいつも変わらず、あの時のままの姿で出迎えてくれた。絹糸のような銀髪も、シミ一つない白肌も出会った当初のまま。あの優しい笑顔で僕を迎えてくれる。
そうして何時からか、僕は彼女に強い恋心を抱いていた。
高校に入ってからはアルバイトをし、なけなしのお金を貯めた。そうして彼女へと、薄手のレース編み手袋をプレゼントしたりしていたのだから──相当な“お熱”だったに違いない。彼女の事を思うと眠れない夜だってあったし、同学年の女子にときめく事もなかったのだから。
そんな青春時代の僕を一つの不幸が襲った。
……大好きなお祖父ちゃんが、亡くなったのだ。
お父さんやお母さんは本の虫だと言って少々邪険にしていたようだが、僕はお祖父ちゃんが大好きだった。だから葬儀を終えてから、僕は三日三晩部屋からでなかった。お祖父ちゃんが遺した本を読み続けて、独り部屋に閉じ籠ったんだ。
──このまま本を読んで、死ぬまでそうしていたい。本を読んでいる間だけは、悲しみに暮れることもなかったから──
しかしそんな事が許されるわけがない。流石に四日目ともなると両親が干渉してきた。籠りっきりは良くないとのことで久しぶりに外へ出た僕は、何故か司書さんの所へ向かい、彼女へとお祖父ちゃんの訃報を伝えていた。
……その序でに、先の想いも吐露してしまったのは──もしかすると彼女が慰めてくれるかも知れない、なんていう浅はかな下心から来たものだろう。
吐露した想いに対し、返ってくるのは月並みな言葉──……ではなく、たった一つの書籍であった。
それは表題のない一冊の本────
差し出されたそれを僕は受け取り、ぼんやりとした頭のまま家に持ち帰った。ぼんやりしたまま“ただいま”と言って、用意されていたご飯を前に“いただきます”と言って、食べ終えたら”御馳走さま”と口にする。それから短めの風呂を済ませ、リビングでくつろぐ両親へ“おやすみ”と言って自室に籠った。
そうして、司書さんから受け取った本を開いてみた。表題はなく目次もない、真っ白な頁を事務的に捲り続けていくと──最後の一頁だけ文字が綴られていた。
その内容は“本を読んでいる間だけは悲しみに暮れることもなかったから、死ぬまで本を読み続けたい”という一文だけ。奇しくもそれは、私が胸に抱いていた願い──彼女へと吐露した心情そのものであった。
──翌朝。
休みだったので、司書さんへ本を返しにいくことにした。春にしては珍しい雨だと思いつつ、辿り着いた図書館の入り口にあったのは閉館の吊り看板。
普段であれば開いているはずの時間だが──どうも様子がおかしい。人の気配というものがまるで感じられないのである。司書さんに何かあったのではと思い、試しに扉を押してみると──扉はなんの抵抗もなく開いてしまった。
僕は濡れた外套を入り口ではたき、極力水分を無くしてから館内へと入る。館内は普段よりも暗く、初めて味わう不気味さを醸していた。天井の燭台が疎らに点灯している……ただそれだけの違いなのに、この非日常的空間を恐ろしいものだと感じる自分がいた。
「……もし」
「うわっ!」
突如として背後よりかけられた声に僕は驚き、その場で前のめりに転んでしまった。慌てて立ち上がると、そこにいたのは司書のリブラだ。その手には一冊の本が握られている。
「驚かせてすみません、渚様」
申し訳なさそうに謝る彼女の顔は、少しだけ紅潮しているようだった。心なしか声に元気もなく、その息遣いも乱れているように思える。
「い、いえ……あの、リブラさん。もしかして体調が優れなかったりしますか」
「……はい、お恥ずかしながら昨晩より熱を出してしまいまして」
「そうでしたか。すみません、そんな時に訪ねてしまって……また後日伺わせてもらいます」
彼女が体調を崩しているのだ、長居する理由がない。早々に立ち去ろうとしたその時、僕は彼女に呼び止められた。
「──渚様」
「……なんでしょうか 」
「その本には、なにが書かれていましたか?」
「最後の頁に“本を読んでいる間だけは悲しみに暮れることもなかったから、死ぬまで本を読み続けたい”と綴られていました。それ以外は全くの白紙です」
「──そう、でしたか」
「リブラさん!?」
リヴラは蚊のなくような声で言いきると、その場にへたり込んでしまったのである。ぐったりと壁にもたれる彼女の額にふれると、掌にかなりの熱を感じた。携帯を取り出し救急車を呼ぼうとした瞬間、僕は彼女に押し倒されていた。その手は僕の首に当てられ、徐々に絞められていくのがわかる。
「どうかこのまま、動かないでいて下さいね」
「いきなり、何を……?!」
「渚様の抵抗は無意味です、あの本を手にした時点で貴方の未来は決まっていたのですから」
「……リブ、ラ……さ──」
非力な女性に押し倒されたとはいえ、この体格差では逃げることも難しい。ろくな抵抗も叶わぬまま、僕の意識は喪失した。
──そして目覚めた時、僕は図書館の中にいた。見慣れた書架に座り慣れたふかふかの椅子、間違いなくここは図書館だ。
しかし──何時もの図書館とは異なり、無数の人影がある。然しどういうわけか皆一様に黒い頭巾を被っており、その素顔はわからない。誰も彼も言葉を発することなく、足音一つたてずに本を手に取り読み耽っていた。
異質な雰囲気に若干の恐れを抱きつつ、周囲を見渡していると──受付に座るリブラさんの姿を見付けた。
しかしどうにも彼女が此方に気付いた様子はなく、慣れた所作で本の修繕作業にあたっていた。
「リブラさん」
声を掛けるも、彼女は応えない。
「あの、リブラさん!」
余人の邪魔になることを覚悟して発した声も彼女には届かず、そして誰も僕を注意しなかった。
こうなったらもう、なんと言われようと構わない。意を決して彼女へと手を伸ばすと、今まで見たことのない俊敏さで彼女が僕の腕を掴んだのだ。
「──断りもなく手を出すのは関心いたしませんね、渚様」
「リブラさん、聞こえていたのならどうして──」
「渚様」
彼女は僕の言葉を遮るように言葉をかぶせ、一瞥もくれずに話を続ける。
「あの日、渚様は確かに願いましたよね?
“本を読んでいる間だけは悲しみに暮れることもなかったから、死ぬまで本を読み続けたい”と。ですから私はそれを叶えて差し上げました。ただそれだけに過ぎません。
それと──貴方の好意には気付いておりました。だからそのお礼として、特別に貴方の魂をこの図書館へ閉じ込めたのです。貴方の願ったように、永遠に本が読み続けられるようにと。そして本館において会話を許しているのも、貴方だけなのです」
……そんなことは、望んでいない。そんな言葉が口を突こうとしていた。
「──渚様。貴方は願いを言葉にしました。その口で、声ではっきりと私に伝えたのです。
あの日にお渡ししたのはただの本ではありません。最後の一頁には、手にした人間の本当の望みだけが記されます。あれ深層心理にある願いのみを映す鏡。故に私はソレを参考にしたに過ぎません。
…………話はこれで終わりです、渚様。
それではどうぞ、これからも心行くまで本をお読みください。本館の蔵書は常に増え続けております故、貴方が読み終えることはないでしょうから──」
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