瞳に映る愛情の対象(8/8)
短い沈黙の後でワカタがポツリと切り出し、復唱する倫子に応じてから「目のかたちがとても特徴的だ」と小さく繰り返した。
何を言っているのか……三角形の目は、わたしではなくあなたの方だ――そう思った瞬間、倫子のカラダに電気が走った。
1メートルも離れていない、親密な位置にあるワカタの顔を恐る恐る見直す。
覚えがある。たしかな面影がある。
散らばっていた記憶の点が線になり、線が平面をかたちづくり、引き出しの奥で眠っていた映像がおぼろげな輪郭を描いていく。
ワカタという名前はペンネームです……
相手の顔色に気づいたワカタがゆっくり告げ、その先の言葉を閉ざした。飲み物に口をつけず、倫子の反応が当然といった眼差しで黙っている。
それぞれの瞳にお互いの表情が鮮やかに映り、倫子の胸の内側をたくさんの足を持つ虫が這っていく。
何かの作動を始めたモーター音がキッチンから漏れ、止まる気配のない、その低い音は、台本で定められた演出さながらに時間の経過に馴染んでいった。
それから、ワカタと倫子はぎこちない空気を愛想笑いでごまかしながら仕事の話を伝え合い、何事もなかったそぶりで席を立った。
まとめての支払いを申し出たワカタに、「小銭がたくさんあるから」と倫子が断り、別々に会計する。
らせん状の階段を二人は距離を保ったまま降り、やがて、建物の出口に着くと、ワカタがジャケットの胸ポケットからハガキサイズの封筒を倫子に手渡した。意を決した行動というよりも、あらかじめ約束していた行為のように。
店でお見せするつもりでしたが……これ……差し上げます。
言葉の途中で視線を外したワカタは、その場しのぎのお辞儀で踵を返し、残された倫子は大きく息を吸ってから、受け取ったものに向き合った。
汚れのない白い封筒には、薄く変色した紙が折りたたまれている。スタジオで倫子が受け取ったメッセージと同じ折り方だ。
おにいちゃん の かお
茶色のクレヨンで描かれた男の子の似顔絵のそばに、覚えたてのひらがなでそう書かれている。力を込めたのか、「お」と「ち」と「か」の三つの文字が斜めに傾いていた。
カワタりんこ
画用紙の右下には、名前もしっかり刻まれていた。
それは、忘れていた苗字だった。母の「羽山」に上書きされた苗字だった。「河田倫子」は小学校に入学するまでの名前だ。「かわた」というひらがなよりもカタカナの方が書きやすかったのだろう。6つの文字は大きさをさほど違えることなく並び、繰り返し繰り返し練習したふうに整っている。
倫子はバッグに絵をしまって、駅へ向かった。
膝が震える。体にまともに吹きつけてくる風に向かい、早鐘打つ胸をごまかすつもりで歩調を強める。
帰宅のラッシュを終えた「ゆりかもめ」は空いていた。
早足にしたせいか、車内の暖房のせいか、倫子の脇と額にじっとりした汗が浮き出てくる。
ほどなくして、電車がスムーズな加速でレインボーブリッジを渡ると、乗客の目に宝石箱をひっくり返した景色が飛び込んできた。低気圧の風を受けた東京湾を囲んで、無数に連なる極小の灯がさまざまに輝いている。雲間の月は光を落とさず、進行方向に添って居場所を変えていった。
前触れもなく、抑えていたものが倫子の胸にこみ上げてきた。焼きごてがたくさんの足を持つ虫を圧したような熱さと重さをにわかに感じた。
真夏の太陽に似たまばゆさとむせかえるほどの熱気――スタジオの喧騒はレールの角度が生む新しい夜景へと融けていく。
おにいちゃん の かお
折からの蛇行運転でおでこがガラス窓にぶつかると、倫子の瞳の中で次の停車駅の明かりが仄かに揺れた。
おわり
⬛単作短篇「瞳に映る愛情の対象」by TohruKOTAKIBASHI
短篇小説「瞳に映る愛情の対象」 トオルKOTAK @KOTAK
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