第2話 日々



千早の右手の中指には指輪が嵌っている。細くて黒い指輪は、千早の白い肌に映える。


千早の細い指には、見た目からは想像できないほどの力があることを、青葉は知っている。


青葉の手では開けられなかったはちみつの瓶の蓋を、千早は軽々と開ける。


青葉が持つと一歩も歩けなくなるほど重たい袋も、千早は平然と持ち上げる。


袋の中から白い氷の塊を取り出し、まな板の上に置くと、千早はハンマーでそれを叩き壊した。何度も叩いて、一口サイズにしてしまう。ガラス皿に盛り、仕上げに黄金色のはちみつをたっぷりかける。


テーブルについている青葉の前に皿を置くと、千早は斜め向かいの席に腰を下ろした。


「どうぞ」


千早に促され、青葉は手づかみで氷を食べ始める。はちみつが指についてべたべたしても気にしない。ただ、儀式のような真剣さで氷をむさぼる。


氷眼病にははちみつが良いというネットの記事を見つけたのは青葉だった。はちみつに含まれる豊富な栄養素が、氷になった目を硬く保ち、割れにくくするのだと、記事には書いてあった。


千早も青葉に勧められ、同じ記事を読んだ。記事を読み終わった千早は、しばらく沈黙し、静かな目で青葉を見つめ、ただ穏やかに「じゃあ、いくつか種類を買って、試してみよう」と言った。


氷を食べるのは、枯れ木似の医者に勧められた。診断を下されてから、1か月に1度は、あの医者の元へ二人で行く。


外側からだけでなく、内側からも冷やすのが良いのだと医者は言った。彼は二人のほうを向かず、またカルテに向かって話しかけていた。


二人の日常は必要に応じて変化していったが、滑らかに進んだのは、千早がいつも冷静で、青葉を第一に考えてくれたからだと、他でもない青葉が最も理解していた。


千早は、大学を辞めて家に閉じこもるしかなかった青葉のために、自分も仕事を全てテレワークに切り替えた。


服が肌に触れる感触があまり好きではない千早は、前までは、下着もつけないで、ワンピースのようなだぼついた服を1枚被っているだけだった。けれど今は、クーラーの寒気を避けるために、何枚も重ね着し、帽子まで被っている。


「いいパートナーがいてよかったね」


壱度だけ、どうしても千早が会社に行かなければならなくて、青葉が一人で病院に行ったとき、枯れ木似の医者がそう言った。その時はじめて、医者はカルテではなく青葉の方を見て言葉を発した。


それを聞いたとたん、青葉は思わず泣いてしまった。医者に、目が溶けるから止めなさいと言われたが、水滴はなかなか収まらなかった。


千早のことを誰かに認められると、青葉は嬉しくて堪らなくなる。青葉は千早と出会うまで、千早のような人間がいることを知らなかった。


千早は、ただ純粋に人に優しくできるのに、その優しさを理解されずに生きて来た人だった。


青葉は氷のはちみつがけを奥歯でガリガリ砕きながら、右手中指の黒い指輪に触れている千早を眺める。




アセクシャルなんだ。




そう告白してくれた時も、千早は同じように指輪を触っていた。2年前、初めて二人だけで喫茶店に行って、コーヒーを飲んだ時だった。


右手中指の黒い指輪がアセクシャルの象徴であることを、その時の青葉は知らなかった。


私は性行為ができない。病気とかじゃない。ただ……したくないんだよ。恋も知らない。恋愛というのがよくわからない。だから、君を一人の”まともな”大人として愛することはできない。


人として、”冷たい”、”欠陥品”だから。




その時の千早は珍しく口数が多かった。まるで言葉で青葉の前に壁を築こうとしているようだった。


青葉は千早が黙るまで、黙っていた。


恋愛映画も好きじゃない。感情としては理解できるけど、自分とは無関係な感じがして、居心地が悪くなる。




”冷たい”人間だろう。多分、”精神が子供のまま”なんだ。”本当の大人になり切れてない”。私はそういう人間なんだ。だから、パートナーには”不向き”な生き物なんだ。人として”不完全”で、”優しさがない”。


私と一緒にいても、君はそのうち、”本当に愛されているとは思えなくなる”。私といても”幸せじゃない”と思うようになる。




千早がついに積み重ねる言葉を失った時、青葉は手を伸ばして、千早の右手に触れた。指輪を撫でて、言った。




誰に言われたの?




千早は目を閉じて、しばらく何も言わなかった。表情に変化はなく、いつもと同じ、静かで、植物を思わせるかんばせだった。けれど、閉じた瞼から漏れ出した雫は、やがて大きな粒になって、コーヒーの中に落ちた。いくつも、いくつも。




それから、二人でいろいろなことを話した。


好きな食べ物の話。


今、興味がある習い事の話。


これからどんなことがしたいか。


そんなことをたくさん話して、最後に、青葉は、千早と一緒にいたいと改めて伝えた。




千早は冷めたコーヒーの入ったカップを両手で包んでいた。伏せた目は真っ赤になっていたが、もう涙は溢れていなかった。


千早は青葉に視線を向けると、吐息を漏らすような声で言った。




私は、幸せになりたい。大切な人と一緒にいて、その人に幸せであってほしい。私といて、苦しくない人が、この世界に一人でもいるんだってことで、幸せだなあって思いたい。




青葉は一つ頷いた。それから、千早の右手を、その中指に嵌った指輪ごと包み込んだ。


千早はその時初めて、青葉に微笑んだ。それは密やかな湖にかすかな波紋が広がるような、


曖昧な美しさを孕んだ笑みだった。


そして千早は、はじめてあの口癖を青葉に捧げてくれた。




私を幸せにしてくれ。




「もう十分かい?」




千早が皿を軽く叩く音に、青葉は顔を上げた。たっぷりあった氷のはちみつがけは、すっかり無くなっていた。


青葉がごちそうさまと手を合わせると、千早は氷の入ったアイスコーヒーを淹れようと言って、皿を手に立ちあがる。


二人ともホットコーヒーが好きだったのに、今は青葉に合わせて、千早も飲まなくなった。


千早は優しい。


青葉は今に至るまで、セックスをする相手もいたし、恋愛と言えるようなものの経験もある。


けれどその時のどの相手にも、千早が劣るとは思わない。


青葉は自分の冷たい瞳にそっと触れた。


この瞳があとどのくらい形を保っているかはわからない。


けれど最後の瞬間まで、千早を見ていたいと思うし、その時の青葉が、幸せでいてくれればいいと思う。



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氷眼病 sato @sato1212

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