暗澹に熔けた
ウワノソラ。
暗澹に熔けた(あんたんにとけた)
「なんで俺が怒ってるか、わかる?」
薄暗くなりつつあるリビングで、修二の顔のうえに歪んだ濃淡の影が浮かんでいた。
「帰ってくるなりなんなん。知らんわ、そんなん」
出迎えた私は、ぎりぎりのところで白を切る。緊迫した空気に心臓は壊れそうな勢いで暴れ、腋にじわっと汗が滲んでくるのを感じた。
「おまえ、今日は夜勤のはずなのになんで俺がいるんだって思ってるだろ。焦ってんだろ? おまえの顔、携帯で撮ってみせたろか。いい感じで酷い顔してるから」
「はぁ……、そんなんいいから。あんたが怖い顔やからびっくりしてるんやんか。どうせ急に休みにでもなったか、あんたが出勤勘違いでもしてたんやろ。今日ご飯いるんよね?」
どうにかして、
「今日が夜勤だなんて、そもそも嘘やから。俺は加奈子を試してただけやけど」
「はぁ? ……なによ、試すって」
「加奈子が一番よくわかってることやろ」
「ほんと、なにいってんのかよくわからんのやけど」
「なあ、俺がなんで怒ってるのか、ほんとは加奈子が一番わかってるんやろ。俺、知ってるんやから」
「ちょっと、ほんとなんなんよ……」
修二はじりじりとこちらに近寄って、私を壁へと追いやる。「ずっとしらばっくれる気?」目前に迫ってきた彼の口角はゆるやかにあがっているが、両目は私をみているようで全く何もみえていないような、淀んだ色をしている。そうか、修二にもとうとうばれてしまったのか。確信を突かれる前に、私は悟る。返せるような言葉がなく、沈黙し、夫の顔から目をそらした。
「なあ、こっちみろよ」
修二が私の前髪を掬って、そのまま上へと掻き上げ、おでこをむき出しにさせる。
「俺、なんか悪いことでもしたかな。そんなに、加奈子を寂しがらせてたん……?」
「……修二はなんも悪いことないよ」
「あ、いうてて悪いことしたんだった。だって、加奈子の携帯みたんやし。ほら、もうすぐ暁って男がくるんやろ、おまえの手料理を楽しみにしてるんやっけ。今日はどの面下げてくるか、ずっと一日ドキドキしてたんやから」
薄っぺらい声色のなかに、喜々としたものを含ませて彼はいう。
「そろそろかな、まだまだかな……。一緒に暁くんがくるのをこのまま待ってよっか」
無言のまま肩を落とす私の背を、夫はやさしくなでていた。
――日は徐々に傾き、電気を点けないのが不自然なくらいに、ほの暗くなっていた。
長らく続いた静寂を破ったのは、小気味よく響いてきた玄関の鍵が解錠される音だった。それは夫が待ち受けるこの家に、暁がまんまとやってきたことを知らせる音だった。
「合鍵まで持ってるって、暁くんをうちに呼んでけっこう長いんだろうな」
声をひそめていいながら、困ったような顔で夫は笑った。ドアの開閉するガチャンという音に、私の神経が一気に張り詰めていく。
「だめ、入っちゃだめ。修二が……、夫が、ここにいるのっ」
近所迷惑になるのも構わず、目一杯の大声で叫んでいた。なんとしても、暁と修二を鉢合わせてはならない。回避しなければならない。その一心で声を荒げた。
声はすぐ届いたようで、ドアが勢いよく放たれた乱暴な音と駆け出す足音が遠くで聞こえた。私はいま出せる精一杯の力で、夫の左足に腕や足をきつく巻き付けてうずくまる。
「もう、まったく。暁くん逃げたやんか。なんでそこまでして、浮気相手を守るかな。俺としては胸が痛いんだけど」彼に必死でしがみ付いていたから顔はみえないが、声がうわずって震えているのがわかる。
「加奈子は、俺のものじゃなかったの。加奈子の体だって、俺だけのものじゃなかったの……。ほんと、おまえは平気で酷いことするんだな」
顔をあげてみるも、暗くなりすぎて修二の顔はもうおぼろげにしか把握できない。彼は立ったままうなだれ、いまにも崩れそうになりながら私の頭をくしゃくしゃになでてきた。頭のうえに置かれた修二の手に、自分の手をそっと重ねる。
「ごめん、なさい……。ごめんなさい」
冷え切ったお互いの指先に、痛々しさが募った。夫に釣られて、私の声も同じように震えていく――淀んだ視界が段々とふやけていった。
暗澹に熔けた ウワノソラ。 @uwa_
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