第3話 傘越しに見る雨。 05章
春の空は変わりやすい。けれど今日は朝からずっと雨だ。
喫茶「風ノ唄」。いつもはおとぎ話の世界に出てくるみたいな外見のここも、こんな日には殺人事件が起こりそうな、そんな雰囲気をかもし出している。窓ガラスは時々吹く強風にバンバンと鳴り、雨ドイから流れ落ちる水はまるで滝のようだ。
道を一本行くとすぐに商店街があり、夕飯の買い物客が色とりどりの傘を咲かせている。けれど可愛い響きのドアベルがついた扉の前には、今は人っ子一人いない。
窓からの明かりがいつもより少ない為か、店内の空気もどんよりとしている。客席に座るのも3人だけ。今日の空と同じ色のスーツを着た三十路手前の男と、頬を涙で濡らす虚ろな目をした少女。そしてその様子をただ見つめるしかない私だ。
黒崎が先程まで唱えていた言葉を止めた。そして相変わらず焦点の合っていない目で真正面を見つめる池田さんに、ゆっくりと語りかける。
「アナタの名前は?」
『 ・・・・・・ワカラナイ。 覚エテイナイ。 』
その声は彼女の優しい声とは違っていた。女の人の声に違いはないのだが、どこか穴の中から響いてくるような、心を不安にさせる声。
「覚えている記憶はありますか?」
『 ・・・・・・友達ト。 友達ト海ニイタ。 気ガツイタ時ニハ1人ダッタ。 暗イ海ノ中ニ引キズリ込マレル。 体ガ重イ・・・・・・。 』
「なるほど。 海ですか。」
自分のツバを飲み込む音と、心臓の鼓動が響いてくる。さっきまで池田さんが座っていた場所に別の誰かが座っている様な感覚だ。
『 海ヲ漂ッテイタ。 何日モ何日モ何日モ何日モ何日モモモモモモモモモモモモモモモモモモモモモモ・・・・・・ 』
壊れたラジカセの様に同じ言葉を途切れなく繰り返す。思わず立ち上がりそうになるも、それより先に黒崎が飲みかけのコーヒーカップをスプーンで叩いた。
その音で池田さんは口を開けたままの状態で静止した。
「それで? 貴女はどうなったのですか?」
『 ・・・・・・。気ガ付イタラ海辺ニイタ。 周リニハ何モ無イ。 タダ帰リタカッタ。 ダカラ歩イタノ。 知ラナイ町。 知ラナイ山。 見タコトモ無イ川。 田ンボ。 ビル。 イエ。 』
「周りには貴女だけでしたか?」
『 色ンナ人ガイたワ。 オジイサン。 小さイ女の子。 鎧ヲ着た人。 皆同ジ方向に歩いテ行クの。 』
池田さんだった人の声は時々ノイズが入ったようになる。
「他に何か見ましたか?」
『 何も。 覚エていないの! ダケド。 ホタル。 蛍ガ導いてクレた。 綺麗ナ川にイたの。 』
「綺麗な川ですか?」
『 ソウヨ。 水が綺麗デ、辛い事ヲ忘れさセてクレタ。 』
外が一瞬明るくなって、しばらくするとゴロゴロと音が聞こえる。雨の音がより一層強くなった。
私は目の前で起きている異様な光景に瞬きをするのを忘れる。1時間前には何が起きても落ち着いて対処しようと覚悟を決めていた。けれど人は想像も出来ない事態に遭遇すると、脳の処理が止まってしまうということ。ただ現状を把握するだけで精一杯になってしまうことを実感した。
『 コーヒーを貰ったの。 』
最初の頃と比べて生き生きとしたテンポでその声は語る。
『誰か分からない。 だけど後から来たこの娘がそれを持って行ってしまったの。 』
「・・・・・・。」
『 悲シイ・・・・・・。 悲しイ・・・・・・。 悲しい。 憎い。 ニクイ。 ニククククククククククククククククククククククククククククククククククククククククククククククククククククククククククククククククククククククククククククククク–––––––––––– 』
大きな声が響く。その声に反応して目の前の男が声の主を押さえる。そして入り口の方に片手を突き出し、突如聞こえて来た声に反応して、こちらに近寄ろよろうとしていた店員さんを静止させる。
その間何も出来なかった。池田さんの悲鳴にも似た声に反応して耳を塞ぐので精一杯だった。
「もうよろしいですかね。 良く分かりました。」
誰に問いかける訳でもなく黒崎が言い放つ。
そして目の前に置かれた2枚重ねになった紙の上だけを小さく折り重ね、上着のポケットにしまう。
さらに別のところから同じ紙を出して、再度何か書いているようだ。ちらりと見えたその半紙には、「鬼」という字に似た文字が3つ書かれている。
そして新しく書いた紙を、はじめに池田さんが自分の名前を書いた紙の上にそっと重ねる。
「さようなら。」
そう呟いて黒崎はテーブルの上に置いてあった灰皿の上でそれに火をつけた。
一瞬で燃え上がり灰になる。その時池田さんの身体が一度大きく跳ねた。そのまま上半身を倒し崩れていく。
私は黙りこくったままの男の顔を見た。静かに一度うなずく。OKという合図だということを悟り、倒れたままの池田さんに駆け寄る。
「池田さん! 池田さんしっかりして!!」
肩を揺するが反応がない。その間黒崎は胸ポケットから黒いタバコを出して火をつけ始めた。辺りに甘ったるい香りが立ち込める。
「・・・・・・んぅ・・・あぁ・・・・・・。」
「池田さん⁉」
再び肩を揺すると、まるで先程のことが嘘のように大きく背伸びをして、大きな欠伸をしてからこちらをとぼけた顔で見つめる。
「池田さん! 大丈夫⁉」
「・・・・・・先輩・・・。 私なんでここに?」
「覚えてないの⁉ 今日ここで黒崎と、 この人と会って! なんか別の人になっちゃったみたいに話し出して、 そして、 そして・・・・・・」
そこで言葉が続かず池田さんに思わず抱きついてしまった。
「・・・・・・そうでした・・・・・。 途中から全く覚えていないです・・・・・。」
「霊は消えました。 終わりです。」
黙ったままだった黒崎が口を開く。
「あぁ・・・・・ ありがとうございます!」
「池田さん大丈夫?」
「先輩大丈夫ですよ~」
その口調は池田さん本人のものだ。何がなんだか分からなかった。けれどこうして彼女の能天気な様子を見ると心から安堵することが出来た。お互いの顔を見合わせると自然と笑顔が溢れる。
「それで、精算についてお話をさせて頂きます。」
この男は空気が読めないのか、目の前で先輩と後輩の華やかな友情が繰り広げられているのに、それに全く興味がないかのように、坦々とした口調で語りかけてくる。
黒崎はどこにそんなに仕舞ってるあるのか分からない程、スーツ内ポケットから色々と紙を出してくる。今度は何かの書類だ。
私達2人の前に置かれたのは、まるで病院のカルテのように細かく書かれた請求書だった。
「相談料や移動費、諸経費など諸々合わせて13万となります。」
「・・・・・・じゅうさんまん・・・・・・。」
思わず口に出ていた。私が1ヶ月生活するのに必要な額と同じ金額だ。ただの大学生がそれだけ用意出来ると思っているのだろうか。一般的な除霊に掛かる費用は分からない。けれどこれは流石にすぐ用意できるものではない。
そう思って池田さんの方を見ると、不安そうな顔をして自分の鞄から封筒を出してくる。あるのか、13万もの大金が。
「こちらで、お願いします。 ありがとうございました!」
面妖な髪色をしたその男は池田さんから封筒を受け取ると、中に入っている一万円札を慣れた手付きで数えていく。
「確かに。 頂戴致します。」
13人の諭吉達は再び封筒の中に入れられ、グレーのスーツの中に消えていく。
そして黒崎は先程の万年筆で半紙に「¥130,000」とだけ書いて寄越した。そのまま残っていた冷めたウィンナーコーヒーを一口飲むと立ち上がる。
「ご機嫌よう。」
「本当にありがうございました! 助かりました!」
こちらに振り向きもせず店内を少し歩き、そこにいた店員さんに何やら紙袋を渡し、立ち去る黒崎。迷惑料というやつだろうか。
その後を追ってドアの前で2人して深々と頭を下げ見送った。完全に扉が閉まると、先程まで座っていた席に早々に戻っていく池田さんを背後に、外の様子をドアの横の大きな窓から確認する。雨はまだ降っていた。けれどだいぶ小雨になっており、もうすぐ止みそうな雰囲気だ。表の通りには傘がひとつ、バス亭の方へ向かって小さくなっていく。それは深い闇を思わすビロード色の綺麗な傘だった。
「先輩! 何か甘いもの食べましょうよ~」
池田さんが私を呼ぶ声が聞こえる。それに答え、少し温かい色のペンダントライトの下を歩いていく。
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