第2話  天色の空。 04章

 さっきまでの静けさとはまた違う、少し寂しさのある静けさが周りに広がっている。離れた場所から時折どの教授のものかわからない声がこだまして聞こえる。そして心地の良い5月の風や、温かい陽の光で温められた机や椅子も、今は少し無機質なものへと感じられてくる。特別何か変化があった訳ではない。ただ日常と非日常との境界線を越えてしまったような、そんな感覚が広い講義室にひとり立っている俺を襲ってくる。


 俺は教室の真ん中辺りから後ろの壁を眺めている。正確には一番後ろの壁際の席に立っているその男を。


 男の人は前に見た時と比べて、位置や服装は一緒だけど、全体に黒いモヤが掛かったようにはっきりと見えなくなっている。虚ろな目は以前はっきりと目が合ったことが嘘のように、どこを見ているか分からない。


 俺はゆっくりと一段一段と近づいていく。自分でも何をしようとしているのか分からない。けれどこうしなくてはならないという思いだけで行動していた。

 男の霊まであと数メートルのところまで近づいた。相変わらず机を挟んだ向こう側で前をただぼんやりと見つめている。この大学で時々見かける清掃職員ということが、着ている作業服で分かる。年は俺より少し上で25歳前後ぐらいだろうか。黒いモヤのようなものさえなければ彼がもう死んでいて、幽霊としてここにいるなんて思わなかっただろう。


 「・・・・・・こっ・・・こっこっっこんにちはっ!・・・・・・・」


 こういう時、俺はどうしていいか分からないが、とりあえず普通に話しかけてその様子を伺うことにした。だけど、そもそも幽霊に聞こえるのか分からない。お経とか呪文とかが唱えられればいいのかも知れないけれど、全くそういう知識がない。

 

 意外にもその男の人は俺の言葉に反応したようにゆっくりとこちらに顔を向けてきた。


 【 こんにちは 】


 そうはっきりと聞こえた。


 「・・・・・・こっここで何してるんですか?」


 【 ちょっと探しものをしていてね 】


 俺は全神経を目の前にいる男の人に向けた。この後何が起こるのか分からない。決して興味本位だけで話しかけた訳ではないけど、今まで幽霊と話をしようなんて思ったこともなかったから、恐くない訳でもない。手がじんわりと汗で濡れているのが分かる。


 【 スマホをね スマホをここで無くして探しに戻って来たんだ 】


 「・・・えっとぉ・・・・・・・。」


 男の人から目を離すのを少し躊躇したが、辺りを見渡す。けれど床にはゴミひとつ落ちていない。俺は中腰になり机の下を見渡すが、見えるのは男の人の足だけだ。


 【 家に遅くなる連絡をしなくてはならないのだけど、スマホがないと電話ができない 】


 その声を聞いて俺は立ち上がり、再び男の人と向き合う。彼はさっきと違ってとても困っているように見えた。それどころか今にも泣き出しそうな顔をしている。


 「俺ので良ければ貸しましょうか~? 番号わかりますっ?」


 【 分からない 覚えていないんだ 】 


 そう言ってその場に頭を抱えてしゃがみこんでしまった。心なしか彼の周りの黒いモヤが濃くなったように見える。

 (・・・・・どうしたらいいんだっ? 緑川ならきっとなんとか出来るかもしれないけど・・・・・・・ 意味もなく幽霊と関わったことを知ったら怒られるだろうし・・・・・ けどこの人ものすごく困っているのは分かるっ! 今の俺に出来ることをしよう!! )


 「あの~? もしよかったら総務課で聞いて来ましょうかっ? もし誰か拾ってくれてたら届いているはずなんでっ・・・・・」 


 【 お願いできるかい? 】


 男の人は顔を埋めたまま答えた。俺はそこで待ってるよう伝えると勢いよく講義室を飛び出し、この建物の向かいにある総務課の窓口へと走って向かった。

 途中で人か幽霊か分からないけど何人かのすぐ横をすり抜ける。その誰もがびっくりした顔で見つめてくる。それもそうだろう。俺が逆の立場でも面食らうだろう。けれどその時の俺は周りのことなんて気にしている余裕はなかった。その時に自分自身でできる精一杯のことを、ただがむしゃらにやっていただけだ。




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