自死の唄

全力で消費者

自死の唄

 解離していく感覚があった。もうずっとだ。

 例えば青が見えるようになった。カーテンから覗く青、清潔なコインランドリーの青や、LEDに照らされ影となった青。澄んだ空気の青。色褪せた時間の青、部屋を満たす青。それはそれは綺麗な青だ。気が付いていないようだけど、ここはずっと穏やかな青色に溢れている。

 日常に懐かしさが割り込む。浸水していくように今が息を止め、私は食べ残されたままでいる。なかなか悪くない気分だ。緩くなった曜日は聖母のようににっこりと僕に笑いかける。恐ろしいことなど何もなかった。

 晴れやかな日。健やかな日。

 ユニットバスにキッチンが付いた七畳と少しの棺桶の中で、今日も細やかに手元を動かす。寂しさで出来た薄い花びらのような布が膝に触る。衣装を作ろうと思った。僕は星空が好きだから、それになぞらえたキラキラの服。オリオン座を浮かべたい。星は本当に五つの角を持った金色の姿をしているんだ。クリスマスツリーが正しいってこと、何故かあまり知られていない。

 糸と針は繊細に、それでも確実に深い紺色を貫く。いち、に、さん。明るい色だ。きっと私によく似合う。小人が居たことを思い出せて良かった。玉止めをするには俺の手はいささか大きすぎる。完成した夜に袖を通す。淡水魚が嬉しそうに裾を泳いだ。確か空と海は兄弟だったね。

 ふと、高い声でオーブンが話しかけてくる。棚の奥にずっと仕舞いっぱなしだった種が、ようやく焼きあがったようだった。私の鼻は本来の機能を取り戻す。あのかぐわしい香りは焼き立てのパンにしか出せない。そういう意味でこの子たちは唯一無二の存在だ。熱が逆流して部屋は温水で満たされる。なんて愛らしい。愛おしい。

 泣いてしまったロールパンを僕は宥める。可哀想だけど僕にしてやれることはない。暗い八十年の重さに赤ん坊が泣いたって、誰もあやしてあげられないのだ。孤独。独り。それに指先から膨らんだ赤血球はまだ青くなっていないから、触れることは許されない。大好きな人肌の柔らかさは、やはり私をちょっと暗い気持ちにさせる。潰されたクッションが僕の痕を恨んでいる。

 俺は何も、投げやりになったわけではない。むしろずっと全部を大事にしていると思うのだ。何もかもを愛したままでいる。皆大事な私の一部だった。だから私はどんどんどんどん大きくなるばかりで、ついに地球ごと飲み込んでしまう。環境破壊も致し方ない気がしたけれど、居場所さえも奪ってしまったのだ、茨に怒られるのはもっともだろう。

 床に吞まれそうになっていた椅子を助けてやる。宙に浮かんで慌てふためくティーカップには、そっとウィスキーを注ぎ入れた。忘れてしまえばいいものを、小さな罪ばかり覚えている。何も捨てられなかった。何も蔑ろに出来なかった。なんと誇らしいことだろう。いじらしいと、そうは思わないだろうか。捨てることは消失と似ているようで違う。何も無くならない。無くなってなどくれない。日常の暗い鱗片に僕はゆっくり殺される。全部を抱えたまま、私はそっと泡になる。

 産声を間違いとする訳ではない。僕は僕のことを愛している。誰よりも愛している。一握りの正しさだった。自尊心、アイデンティティ。どんな形でもずっと美しい、貴ばれる存在だ。貶すことなんかない。前を向こう。口を縫われたって歌は歌えるから。俺は何も奪われやしない。

 少し自慢になってしまうかもしれないけれど、三日間の断食で背中に翼を得たんだ。そっと肩の辺りを見やると、斜めに曲がってしまった灰色の羽が、そっと風を受けて揺れていた。上手くいかなかったのか、なぜか少しだけ歪になってしまったけれど。それでもきちんと僕の翼だ。ここに天使はいないから、自分で何とかしなきゃいけない。けど大丈夫、心配しないで。私たちは林檎の子ども。きっと上手に出来るから。

 目先で遊ぶ羽毛を撫でてやる。嬉しそうに体を燻らせて、無邪気な心は私を愛した。騙されてしまった哀れな命をごめんなさいと抱きしめる。悲しいのは勘違いに近かった。しこりは滞り、きちんと実体化した後にまた俺の一部になる。食べて収まらない空虚感と満たされないことへの安堵は、混同することでより一層妖艶な絶望を秘めた。記憶から抜け落ちて、僕自身も浮遊感に包まれる。綺麗だね、と微笑んでくれる相手はもういないけど、だからこそ俺は凪の中、ずっと舞っていられる。

 二十四時間三百六十五日、ずっとイヤホンに塞がれたままだった耳は退化してしまい、今はもう旋律しか拾わない。自慢の飾りだ。半音ずれた水音に引かれ、短い廊下を泳いで浴槽へ揺蕩う。白熱灯の陽だまりとまっさらで清潔な幕。歯ブラシに巻きついたアイビーは、まだ眠っているようだった。湿り気のある暖かさに小鳥が喜んだ。

 取り返しのつかないことは往々にしてある。コーヒーに一グラムの麻薬、弁当には筋弛緩剤、睡眠薬入りのホットミルク。毎日少しずつ着実にとろとろに溶け出して、我に返った時にはもう何もかも間に合わなくなっている。気が付かない。分からない。割れた瓶を認識した途端、皆慎重になるけれど、俺から言わせればそれはただ怖がっているだけだ。勿論、怖がるのは悪いことじゃない。けれどそれは尊いものや愛したもののためじゃない。

 それに第一、不安がる必要はないのだ。言わば恐怖とは影なのだ。本体はずっとずっと小さい。もしかしたら兎のようにふわふわとした優しいものかもしれない。それに、いつでも私たちは歩んでいる。帰り道が消えてしまうのは誰だって怖いけれど、振り返ってごらん。ほら、美しく儚い花々が一面を彩っている。迷い子と誤解されるかもしれないが、ちゃんと貴方はそこに立っているだろう。大丈夫。誰も君を否定しない。後ろ向きと揶揄される方向が、本来時間の流れとして自然なごく当たり前のことなのだ。

 200リットルの湖に片足を漬ける。青は僕を受け入れる。ここまでの静けさは何十年ぶりだろう。内で飼っているウジ虫が本当にうるさくて、近年はよく眠れなかったのだ。けれどそのおかげか、苦しみや辛さ、そういう美味しくないお菓子は全部ベットに住み着いた。それからは永遠に眠っている。

 いつだってどうしようもなく一人だった。誰もがそうだ。寂しいね。本当に。マスクが馴染んじゃったけど、皆上手だからスマートフォン一つで何でも隠せてしまうんだ。崖はずっと守ってくれていた。だけど僕は高いところが怖かった。可笑しいね。

 ゆわん、と鼓膜が水に揺れる。アルコールは胃に沈み、次第に身体を犯していく。清めていく。夜が青に呑まれる。この穏やかで小さな泡が私を蝕んでくれればいいと願う。化粧のやり方は教わらなかったから、翼とお揃いで器も少し歪かもしれない。けれど大丈夫。俺は気に入っている。そもそもは要らない物だけれど、やっぱり大切にしておきたい。

 鏡の奥では嘘っぽい楽園がこちらを見下ろしていた。全部がまるで玩具みたいにささやかだった。永遠に遊んでいたかった。叶わなかった涙。敵わなかった痛み。抗うごとに削げ落ちた夢を、この湖の底からもう一度救い上げる。きらら、きらら。宝石の取っ手は黙ったままだ。

 何も不自然に半透明の色で、奇麗な装飾をしようと思っている訳ではない。沢山の人が生きることを真に理解していないように、私もまた死を死と理解しないままに死んでいく。決して美しくなどなかった。溶け切ることは出来なかった。しかし恐怖だけが依然としてそこに立ちふさがるから、俺はそれをちゃんと乗り越えなければいけない。ちぐはぐな矛盾ばかりで今にもぼろぼろと崩れてしまいそうだけれど、今はバスタブが僕を保ってくれている。

 寝そべってみれば、大事に育てられたまんまる頭が欠陥だらけで少し恥ずかしくなる。思考は手枷、感情は足枷、そして心は首輪に似ている。一生動けないことは私にとって幸福だった。ただ締め付けには耐えられなかった。それでも手放せないままの壊れた首輪に、愚かな自分に、こんな場所で泣いてしまう。数多のゾンビに引っ張られないよう、壁の小さな注意書きに目を移す。説明を聞いたって、欲しいことは何も教えてくれなかった。それとも飲み込めなかったのかな。

 花丸を貰えたわけじゃない。なのにあろうことか賞状に憧れていた。やっぱり寂しかった。優柔不断な鉛筆はいつだって曖昧なまま、沢山の線を生み出した。消しゴムなんて持っていない。これでいいの?合ってるの?そう叫びながら、戻れたことなんて一度もないだろう。終わりなんて訪れないことを、ずいぶん昔から俺たちは知っている。

 温かな青で世界が歪む。僕だけがここで息をしていた。そして泡が爆ぜる瞬間を、私以外の誰も知らない。怖いなぁ。寂しいなぁ。独りぼっちは治らない。かつては呼吸だって立派な音楽だったのに。鋭い刃も青に染まり、すっかり春になっていた。

 だけど僕は思うんだ。諦めたことやほっぽり出したこと、縋ったことも沢山あるけれど、その全部が尊いものだったと。どれだけ嫌いでも惨めでも汚くても、そのひとつひとつがちゃんと俺が俺であった証で、決して否定されることのない、それはそれは崇高な魂であったのだと。それらを守り切れなかったという事実さえ、私が私であるということを示してくれている。

 悪者なんていないということを、きっと君は分かっているんだろう。やり尽くした自責も擦り切れた後悔も、血肉になったまま。消毒はもう間に合わないけれど、だからこそ決して僕らは悲しまないでおこう。尊い貴方のことをずっとずっと覚えておこう。優しい優しい貴方のことを、美しい貴方のことを。ずっと忘れないでおこう。

 明るいはずがない。けれど暗いこともない。先端がくすぐったいのか、心臓が身を捩る。大丈夫。とても大切なことを傷つけないために、俺は違う場所で呼吸を始めるのだ。寂しいね、寂しいね。この夜のようにいつまでも深く、暖かければいい。もう何も傷つけないように、絶対に誰にも壊されないように、何もかもを抱きしめていよう。今だけ全ては僕らの味方だった。あまりにも優しい。

 波紋が月になって私を見ていた。今こそ翼を動かして。

 さぁ、切っ先を鎮めよう。

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