ユキの首輪③
***
翌日、出社時に当然のように手渡された住所のメモを握りしめて、彩芽はM市方面の電車に乗り込んだ。まずは下見、ユキが本当にこの家で暮らしているのかを調べてから交渉に移る。
一晩悩んだ情報の入手経路を尋ねても、世利は笑ってはぐらかすだけだった。こういう場合、正当な手段を取ったとは限らないのが雇い主だ。
移ろう車窓の景色をぼんやりと眺める。目的地まで乗り換えなしでいけるのは楽だから、一本電車を遅らせた。朝のラッシュが落ち着いた時間帯、車内は特別混雑することもなく悠々と過ごせる。
やがて駅名は耳に慣れない響きへ変わっていく。降車駅を聞き逃さないように、低音メロディを止めた。乗り換えアプリを数度確かめて、次の停車駅で自動改札を通り抜ける。家のある住所は市街地から離れた郊外を示しており、駅から出発する市営バスに座れば数分待たずに扉が閉じた。
長閑な田舎町に蝉しぐれが合唱する。上り坂の果てに晴れ渡る青空、コントラストの効いた入道雲の眩しさに瞬きを繰り返す。
夏風に揺れる風鈴の音色が心地よい。日差しから逃れるようにうつむきがちだった視線をあげれば、木造の古い駄菓子屋が前方に現れる。かき氷の旗が音色と共になびいた。
田んぼ道を抜けて大きなひまわり畑を右に曲がる。時折見かけた通学路の標識も気づけばなくなっていた。このまま道なりに進めば山道へ踏み入るだろう。山本家に比べて随分自然豊かな場所に連れてこられたものだ。
「おっと、ここですね」
軽快な操作音が目的地周辺だと告げた。地図アプリでは青の進路と赤の現在位置がぴったりと重なり合っている。辺りを見渡しても、瑞々しい家庭菜園で目を引く民家が一軒あるだけだ。
人の気配を感じない敷地内へそっとお邪魔する。車は停まっていないが、縁側に面した窓は爽やかな風を室内へ取り込んでいた。
家主がいるなら不法侵入だと騒がれる前に挨拶をすませたいが、ここにユキがいないならその必要性はない。
仮にユキがこの家にいるとして、窓が開いたままでは再び外へ逃げてしまうのではないか。一度敷地から出て作戦会議をする頭の端に、そんな疑問符が浮かび上がる。
いっそ外を冒険中のユキを確保できれば、しれっと連れて帰るのもやぶさかでない。
「簡単に見つかれば苦労しない、かあ」
この家が外れなら、折角掴んだ手掛かりは苦労の象徴と共に指の隙間からこぼれてしまう。あちらこちらを転々とまわる途方のなさを想像して、真夏日にも関わらず背筋に冷たいものが走った。
みゃう、と可愛らしいミルク色の鳴き声が心にかかる灰色の靄を晴らした。やはり猫は愛らしい。どこから現れたのか足元にすり寄る白い頭をめごめごと撫でくりまわす。
一番好きな動物はキリン、首の動きが見ていて飽きないから。二番手、ペットとしてメジャーなところから選ぶなら犬が良い。それも大型犬ならなおさらだ。
三番手はオオカミだろうか。ランキング形式で考えると猫は上位に組み込まないが、それはそれとして、猫は存在しているだけで正義だと思う。
「……あれ」
もっと撫でろと言わんばかりに頭を押しつけてくる白猫をよく観察する。毛の色、尻尾の形、ごろんとひっくり返せば、お腹には特徴的な薄灰色のハートマーク。妙に人慣れした様子で甘えてくるのを片手で制して、空いた手で鞄から器用に写真を引っ張る。
彩芽の手で戯れているのは、紛れもなく山本家のユキだった。
「いた!」
「ユキちゃーん、おうちに帰りなさい」
感極まった彩芽へのしかかるように、威勢の良い女性の声が塀の奥から飛んでくる。ユキちゃん、と名を呼ばれた白猫は耳をピンと立てると、軽やかに塀を飛び越えて庭へ帰ってしまった。
去り際、首元に巻き付く青色が光った。小ぶりのリボンで装飾された首輪が、新しい家族の一員だと証明しているようだった。
しかし、ここで逃すなどありえない。現在の飼い主と穏便に話し合いを済ませて、このまま解決まで一本道を進もう。
携帯端末の液晶に指を滑らせる。現状報告を行いながら塀の中を覗き見れば、ユキは家主に抱きかかえられたまま、室内へ戻っていった。
ししおどしの乾いた音が、静寂な和室へ嫌に響く。出された冷茶に手をつけるタイミングは完全に見失った。皺ひとつない和服に身を包み、濡羽色の髪の毛をひとつのお団子状に纏めた姿は品と物言わさぬ重圧感を醸し出している。
不幸中の幸いと言えば、当事者であるユキが彩芽のそばでのんきに昼寝をしていることだ。
「それで、貴女は偶々外でユキを見つけたのですね」
「はい。写真と状況から判断して親戚の飼い猫に間違いないかと」
二人の間に資料の写真を並べる。目を凝らして一枚ずつ丁寧に見極めていく姿に、もしかしたら勘違いかもしれないと、一瞬不安がよぎる緊張感は居心地が悪い。
ここで弱気に出れば不信感を与えかねない。ただでさえ、「植物学を学ぶ大学一年生。フィールドワーク中に偶然親戚の家から逃げ出した猫を発見したので直談判にきた」という設定に眉をしかめられたのだ。
白猫だからユキ。同じ命名を受けたユキは、女性の子どもと父親の手によって新たな土地へ引っ越してきたという。時間的に、老人がユキを見かけてから少し経過したあとの話だ。
飼い主に連絡を取ろうにも首輪はなし。本当に野良猫なら一度温かいご飯を与えた子を無責任に野に放つことはできない。だから面倒を見ることにした。女性の言い分に粗は見つからず、誠意ある人だなと好印象だけが残った。
「山本さん……だったかしら、電話番号を伺ってもよろしいですか。直接話をしないとどうにもねえ」
「じゃあ私の方からかけますね」
他人の電話番号を本人の許可なく第三者に教えることはできない。女性の目の前で山本父の携帯番号を呼び出す。十二時五分、昼休みに入る時間だと聞いていたが、ワンコールで繋がるとは思わず肩が跳ねる。
ユキを発見したこと、現在別の人の家でお世話になっていることを簡単に説明して、電話口を女性と交換した。
疑われていると肌に鋭い視線が突き刺さる。ユキを拾ったのは遠く離れた土地だ。数日で山奥の家を当てることができるのか、疑心はごもっともだ。
山本家には裏で話をあわせているが、大学生の親戚設定までだ。植物学やフィールド調査は取ってつけたアドリブだが、山本父の臨機応変な対応を祈るしかない。
「ええ……はい、承知しました。日取りについては……」
電話越しで会釈をする姿は世利によく似ている。和服に袖を通すスタイルも、凛と伸びた背筋も、思えば雰囲気全体がそっくりだった。
なるほど、相手を世利に置き換えれば強張る筋肉も力が抜ける。冷茶を頂きながら、片手間にユキで遊ぶ余裕すら生まれた。
ふんわり柔らかなお腹を手の平で堪能する。薄桃色の肉球もまたしかり。これだけ無遠慮に触られても好きにしているのだから、飼い猫とはいえ随分人見知りしない性格だと思う。順応性が高い、どこへ行ってもやっていけそうだ。
それでも、帰る場所はひとつだけ。ユキを待っている居場所があるのだから。
黙っていなくなるのは卑怯だ、残された者の気持ちを考えてみろ。異なる種族同士、意思疎通は困難。所詮は人間のエゴかとふいに虚しくなる。
「では週末に……はい、失礼します」
当事者同士話が纏まったのだろう。期待したとおり、揉めることなく穏便な話し合いだったが、女性の寂しげな笑みが網膜にやきついて離れなかった。
約束の週末、彩芽は無事山本由香とユキを巡りあわせて、両家の仲介役を果たした。
これにて一件落着。周囲の力もあり、特に大きなトラブルに見舞われることもなく終えることが出来た。再会に喜びの涙を流す由香と別離の悲しみをこらえる少年、二人の間で内緒話が交わされる。その内容を知る権利は持ち合わせていない。
事件が解決すると背中から羽が生えた気分だ。口ずさむのはお気に入りのギター曲。初めて参戦したライブでトリに選ばれたナンバー。
お土産に買った饅頭を三人で食べようと、事務所へ帰宅する足は自然と速くなる。
交差点を左に曲がり二つ先の信号を渡れば、アイボリーの建物が姿を現す。事務所の前に見慣れた背広姿が突っ立ていた。
用事があるなら入ればいいのに、誰かと話しているわけでもないシルエットが不審者と重なったのはここだけの秘密。
「こんにちは、けーちゃん」
駆け足で近寄り声をはれば、男はゆっくりと顔をもちあげて微笑んだ。右耳のリリーホワイトが太陽を反射する。
一人でぼけっとしているのかと思いきや、どうにも先客が階段を占領しているようで。律儀に足止めを食らう男は「どうにかしてよ」と黒猫を指さした。
黒猫はこの数日間ですっかり事務所前をテリトリーに認定した。外階段には屋根がついているから日陰が涼しいのかもしれない。
捨て猫か飼い猫か、ユキの一件から安易な決めつけは出来ないと学んだ。餌付けは近所にも迷惑だからと、原則観賞用にすると世利は渋面をうかべている。
「飛び越えちゃえばいいのに」
彩芽ですら一段飛ばし出来る高さだ。足の長い彼なら難無く関門突破できるだろう。
男が黒猫の上を跨いだ瞬間、今まで大人しかった猫が暴れ狂うように威嚇体制へ移る光景を目の当たりにしなければ、そう指摘をしていた。鋭い爪が男の足を引っ掻く。間一髪で避ける様子は随分こなれている。
豹変した黒猫を宥めながら男と距離を離す。彩芽の腕の中で落ち着いたのか、燃え盛る炎は次第におさまった。
「今のうちにどうぞ」
開かれた階段を案内して男と一緒に二階へ上がる。黒猫を定位置に置き去り率直な疑問を男にぶつけた。
「猫になにしたんですか」
あれだけ大人しい猫なのに。
「失礼言わないでよ。動物に好かれないんだよねえ、こっちだって願い下げだけど」
小憎たらしいと、愛玩動物相手に敵意を滲ませる大人げなさを遺憾なく発揮する。折角のアンニュイな雰囲気もこの一言で台無しだ。
「なるほど。余程前世で悪行を働いたんですね」
容赦ない発言は扉の開閉音で男まで届かない。
事務所内では世利が朝刊を読みながら昼のラジオ番組を流していた。視覚と聴覚、両方から最新のニュースを取り入れる姿は「出来る探偵」を醸し出すが、いまにもくっつき落ちそうな瞼が減点対象だ。
天気の良い昼下がり、窓辺の席は絶好のお昼寝スポットだ。いつもならジルを相手に世間話で眠気を飛ばすが、生憎話相手は夕方まで外出ときた。
「おかえり……と、いらっしゃい」
こらえる気のない欠伸の出迎えは不躾極まりないが、気心知れた男の前で世利は仕事用の皮を被らない。男もまた世利の対応を気にも留めず、ネクタイを緩めて我が物顔で茶菓子を要求する。
親しき仲にも礼儀あり。言葉は音に出さず胸の中へ。
お土産の饅頭は忘れないようにと給湯室へ。客人用の茶請けは苺大福に決めた。
男が持参した茶封筒には警視庁のロゴマークとマスコットキャラクターが印刷されている。数枚のメモ用紙とUSBメモリーが世利の懐に収まるのは新しい仕事の合図だ。
暴力団、一般市民、そして刑事の話に世利は耳を傾ける。それが自身の糧になるなら、いくらでも糸を手繰り寄せる。迷わない信念を強みとする生き方を、彩芽は心のどこかで理想としていた。
「良い知らせがあれば連絡します。ところで、野良猫と喧嘩したいなら他所でやってもらえませんか。ご近所づきあいは大切にしているので」
皮肉めいた口調を男のせせら笑いが受け流す。
小馬鹿にする態度へ、こめかみを引きつらせるのは世利の方だ。
「羨ましいんだ。八代先生は猫アレルギーだもんね、折角の子猫ちゃんとも満足に遊べないなんて可哀想に」
「その動物に嫌われすぎて愛らしさも理解できなくなった哀れな人は誰でしょう。ねぇ伊崎刑事」
「世利、猫アレルギーだったんですか」
皮肉の応戦からひらりと落ちた新事実に、どうりで猫探しの依頼を迷わず振ったわけだと手を鳴らして胸に落とした。
事務所の敷地で自由気ままに過ごす黒猫を追い払わない辺りに、世利のジレンマを垣間見た気がした。
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