ユキの首輪②

 ねこおじちゃん、と呼称されるだけあり、白髪を整えた丸眼鏡の老人は数匹の猫に囲まれたままキャンバスに筆を走らせていた。


 最初に彩芽と目を合わせた黒猫は真夜中に映える満月を細めて、みゃうと鈴の音を転がせた。乾いた絵具で彩られた皺だらけの手が、雑に頭をなでる。


 ご主人が興味ないのならあたしも結構。


 気まぐれに体制を変えて尻尾を丸める姿に取りつく島はない。

 作業に集中しているのか、ただ気づいていないだけなのか、はたまた故意に無視を決め込んでいるのかはわからないが、数歩距離を縮めても老人は反応を示さなかった。迷いのない筆さばきが、鬱蒼とした夜の森に青白く煌く泉を生み出していく。青系統の色遣いに思わず吸い込まれる。


 声をかけなければ用事はいつまでも終わらない。頭では理解していながらも、画家の指先から生まれる世界をもう少し見届けたいと身体は停止する。夕涼みの空、ひぐらしの鳴き声。空気の質量はとうに薄れた。


「どの色を足せばいい」


 彩芽の姿を捉えずに、パレットに混ぜ合わせた紺青を指さす。すでに暗い色は塗り終えたように見えるが、彼には今ひとつ深みが足りないのだろう。小出しされた絵の具のうち、一番鮮やかな空色と答えたのは直感だった。

 彩芽の言葉でつくられた青は作品の仲間入りを果たす。森林の奥と画面の端、泉のワンポイントへ溶けて消えた。


「おじいちゃん、この辺で白猫を見かけませんでしたか」


 自然と紡がれる音をBGMに老人は次の色を弄り始める。その合間に足元で寝息を立てる子猫を指さした。確かに真っ白な雪の毛並みだが、お目当てのユキではない。


 恐る恐る写真を差し出すと、丸いレンズの先に届いたのか緩慢な動作で筆が水入れにもどる。


「一昨日も同じ質問を聞いた気がしたが……寄る歳の波にはかなわんな」

「まだまだお若いですよ」


 猫おじさんと有名なら、すでに由香が接触を図っていても不思議じゃなかった。同じ人に何度も聞くのは非効率的で相手の心象も悪いが、二回目も同じ結果とは限らない。何度も突けば発言はひっくり返る。人間とは良くも悪くもそういう生き物だ。

 老人が初めて彩芽にぶつけた顔は渋い表情を浮かべていたが、現に由香には伝えなかった隠し事があると語っている。


 粘りと根性は昔から身についていた。どれだけひっぺはがされても後を追い続けたいと思える隣人に出会えたからだ。ちぎって投げても、性懲りもなくしがみつくやり取りに、老人は深く息を吐きだした。


「人の親切を無下にするもんじゃない」

「悪い話でもいいんですよ。どこにいるのかがわかれば」


 口に出すのを渋るということは、大抵良い話ではない。事故死したか保健所に連れていかれたか。最悪とよべる事態はいくらでも想像できる。それを飼い主の少女に教えないのは確かに親切心ではあるが、彩芽にとっては「死」すら伝える義務がある。

 依頼を引き受けた以上、成果のひとつも報告できないのは信頼問題に関わる。看板を汚すわけにはいかないのだ。


 老人は自分の周りで思い思いの時間を過ごす猫たちを見やり、逆に問いを投げかける。


「この猫たちは野良だと思うかね」


 改めて猫を観察すれば、人慣れした様子で逃げることなく好きにさせる。目立った怪我もなく、極端に痩せているとも太っているともいえない普通の猫だ。正直な話飼い猫も野良猫も同じようなもの、としか思えない。それでも区別をつけるなら。


「……首輪をしていないから……野良猫」


 老人は再びキャンバスに向かう。完成にはまだ時間がかかるのだろうか、色を置く手は止まらなそうだ。

 期待する答えではなかったのか、待てど暮らせど話題を続ける気配のない彼に、今日は本当に駄目かもしれないと帰路を考える。

 用意した当てはことごとく外れ、一日を棒に振ってしまったことへのやるせなさが情緒を揺るがす。探偵業は結果論だと、優しくも手厳しい所長の声が脳裏に響いた。


「一昨日の朝、そこに段ボールがあってな。中にその写真によく似た猫が丸まってた」


 すごすごと立ち去る背後に希望が垂れる。老人はただ絵を描き続けていた。特有のゆっくりとした間が、一言ひとことに集中しないと聞き逃しそうになる。


「あんたの言う通り首輪がなきゃ野良猫に見えるかもしれんが、飼い猫だってつけない飼い主はいくらでもいるもんさ」


 でもな、としゃがれ声はもう一声助言を与えた。


「首輪もなく段ボールで鳴いてるものがいれば、捨て猫と勘違いしても仕方ないだろう」


 ユキは脱走したその日の晩、空き地に落ちていた段ボールの中で一夜を明かした。次の日の朝、散歩で通りがかった老人がユキを発見するも特にアクションはなかった。

 午後になり老人会の集まりへ向かう途中、再度空き地前を通過したが、段ボールごと姿をなくしていたので、親切な人に拾われたのだと安心した。夕方、飼い主の少女が逃げた猫を探していると尋ねてくるまでは。


 拾われたのか、どこかへ行ったのか。確信の得ない情報で混乱させてもいけないと、由香には何も告げなかったという。

 老人の行動について是非を問うことはできない。人の善意を悪と否定するのは難しい。




「で、セリはなんて」


 テーブルの中央に置いたザルへ絶え間なく箸が伸びる。試しに買ってみたよもぎ蕎麦にすっかり夢中になり、特売の日を狙って買い込んだものが週に一度は食卓へ並んだ。

 普通の蕎麦に比べて腰があり、もっちりとした歯ごたえがお気に入りだった。氷をいれた麺つゆに浸すのも味が染みて美味しいが、そのままつるんと啜る食べ方も有りだ。


 夏場はこれひとつで乗り切れるといっても過言じゃないが、流石に夏バテを心配して野菜も用意する。味噌キュウリはお手軽に作れる代物だ。


「そうか。お疲れ様、今日は帰っていいよ……だそうです」

「物真似上手いな」


 麦茶のおかわりをポットから注ぐ。溶けかけの氷が表面に浮かんだ。


 帰宅前に事務所へ立ち寄り一日の調査報告書を書き上げてきた。老人から聞いた状況を説明して明日以降の行動を相談する気構えだったが、労いの言葉をもらっただけだ。促されるままに歩く夜の街で、どうしたものかと顎に指を添える。


 老人の推測どおり、すでに拾われて別の家族の一員となっているなら、話はややこしい方向へ進んでいく。近隣に探し猫のポスターを張り、回覧板にも挟んでいる。元の飼い主へ返すべき、と考える家庭ならすでに連絡を入れているだろう。

 一度迎え入れた猫を手放したくない気持ちも理解できる。家族を増やすということは、躾面や金銭的にも負担が大きい。


 悪意のある人間なら別だが、覚悟を持って飼い始める方が多数派だろう。勘違いからの行動でも「それなら」と簡単にはいかない。


 当然、近隣住民が拾ったとは限らない。隣町かもしれないし、他県から偶然やって来た人に……と想像だけならいくらでも広がる。極論を言えば世界中が調査範囲だ。

 由香と交わした契約では、調査期間を五日間と定めている。目星をつけなければ無駄に駆け回って時間切れ。


 傾けたグラスの中身を勢いよく飲み干して、声にならない音とともにうなだれる。無言で追加された一杯を、今度はちびちび口づける。さながら居酒屋の店主と常連サラリーマンだ。


 ゴールデンタイムのバラエティ番組では、芸人が共演者に絡みMCのツッコミが冴えわたっている。人気アイドルの彼は先日ニューシングルをリリースしたばかりで、ネタに乗じた宣伝が目立った。

 CMに流れた四人のメンバーにイメージカラーのライトがあたる。絢爛華麗な衣装を纏い、和ロック調の曲に踊る。


 アイドルファンなら推しに癒されて明日も頑張ろうとなるのに、生憎彩芽の追っかけバンドは日本で名前すら聞かない。故郷フランスで地道に活動するインディーズだ。

 日本に越してくるとき、厳選した荷物のなかにライブグッズとCDは忘れずに詰め込んだ。オーディオにつないで重量感溢れるギターのイントロをヘッドフォン越しに味わう。息詰まった現代社会のストレスを発散する貴重な時間だった。


「せめて本当に拾われたのかだけでもわかればなぁ」


 防犯カメラの管理会社に赴いて映像を確認させてもらうか。個人が突然申し出たところで「はいどうぞ」と簡単に事が運ぶとは思えないが。


 ***

 おぼつかない指先がキーボードをまさぐる。

 険しい表情で椅子にもたれかかる世利を横目に、男は優雅に缶コーヒーをすする。

 後一時間で日付の変わる頃、事務所の窓からは暗い夜道に光が落ちていた。


 愛用するデスクトップパソコンは無駄にスペックが高い。機械に然程明るくない世利は、そこそこ快適に動けば良いと電気屋で探したが、ソファにふんぞり返る知人があれやこれやと勧めてきたのが現在の仕事道具だ。

 普段使う分にはせいぜいレスポンスが速いなと感じる程度だが、いくつもの画面を立ち上げてマルチタスクを実行する際に、ようやく恩恵を実感する。


 彩芽から報告を受けた空き地には、丁度前の道を映す防犯カメラが設置されていた。

 該当日時の映像を盗み取り一連の流れを追いかける。

 猫が放置されていた段ボールに自ら入る瞬間、翌朝老人が発見するところ、そして一人の少年が段ボールごと抱えて、迎えに来た車に乗り込む場面が残されていた。暫く車が発車しないのは両親と話し合っているからか。


 そうして猫は慣れた街から遠ざかる。


 不慣れなハッキング行為は神経を尖らせる。しかし、これだけでは行先を特定できない。映像に加工処理を施してナンバープレートと車種を割り出す。ノイズ除去を繰り返すことで得た情報をもとに、陸運局のデータベースから個人情報を入手するまでがやるべき手順だった。


「子守歌にしては丁度いい音だね」


 男は暇で仕方ないと横からの口出しに精を出す。次のコマンドで足止めを食らっていた世利の代わりに、すらりと伸びた腕が手早く処理を進めた。

 あっ、と制止する間もなく画面には一件の登録情報が表示される。車の持ち主が在住するM市は事務所から電車で一時間程度の距離だ。


「勝手に触らないでください」


 結果として助けられたが、不服だと露骨に表情をしかめる。

 リリーホワイトの耳飾りが弾んだ。切れ長い瞳を愉快だと細めて、手にしたコーヒーが机をたたく。


「効率よくやろうよ。次の依頼人が寝てもいいの」

「それが人にものを頼む態度ですか」


 生意気な口の利き方も、その道を究める相手にとっては小犬のじゃれあいだ。

 ハッキング行為はスピードが重視される。もたもたと侵入先の領域で手詰まれば、相手のセキュリティに感知されるリスクも大きい。下手に閉じ込められると形勢逆転だ。


 目的のためなら手段は問わない、世の中利用できるものはすべてを踏み台にしろ。

 世利を育てた両親と祖父母は口を揃えた。

 盤上に転がした駒を意のままに操り王将の首をはねる。駒の動かし方を熟知すれば、ときに保険も惜しまない。今夜の貸し借りもこれでゼロだ。


「明日には見つかるんじゃない」


 すっかりぬるくなったコーヒーを流し込み、風味を楽しむ。


「そうですね。まあ、そこはアヤに頑張ってもらうとして」


 男の気の抜けた返事が空中に消える。これ以上は手出ししないという世利の意思表示に首を傾けた。

 付き合いが長く人となりを理解しているからこそ、何故と疑問がわいてくる。身内にあまいわりに随分と投げやりな物言いをするからだ。


「仕方ないでしょう。猫ですよ」


 向けられた言葉をぴしゃりと一刀両断する。余計な装飾は必要ない、シンプルな解答。


「猫……ああ、そうね」


 忘れていた友人の性質を思い出して、男は噴き出すことをこらえた。


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