ユキの首輪①

 東京都H市小倉町。


 照りつける日差しのもと、マンションから徒歩十五分の位置にある事務所までひたすらアスファルトを踏みつける。職場までの距離が近いのは便利だと、来日してからの数か月で実感していたが、真夏の太陽を前にすれば感想は裏返る。


 信号待ちをするサラリーマン風の男性もこれから出勤だろうか。エアコンの効いた車内は快適だろうなと、質量のある空気にむせこんだ。

 日が昇る頃の時間帯はまだ活動しやすいが、通勤時間帯は外に立っているだけで頬に汗が伝う。すれ違う小学生は首から水筒を下げたり帽子をかぶるなど、親の熱中症対策がうかがえた。


 日本の夏は蒸し暑い。フランスでも気温が三十度前後まで上がる日はあるが、湿度が低いため基本的に過ごしやすい。それに比べて高温多湿の国は夏場の着替えが欠かせない。仕事柄日中外で活動することが多く、タオルを忘れた日にはこのまま帰りたいとやる気も溶けた。


 今年は例年に比べて特に気温が高いそうだ。天気予報が表示する数値は熱を帯びた体温と変わらず。ベランダに干からびた虫の死骸が転がっていた。


 ジルは不思議だった。自分がこれだけ暑さに文句をつけるというのに、隣を歩く同居人は何故スーツを着こなせるのだろうか。サマースーツとはいえ、長袖のジャケットなどありえない。

 依頼内容によりTPOをわきまえた服装へ変えることはある。けれど通勤や事務所仕事では特に規定がないため、シャツにジーンズという普段着でも指摘を受けない。雇い主は着物を好む人間だ。わざわざ一日中スーツでいる必要はないのだが。


「今日も暑いですね。早く夏終わらないかな」


 そしてこの発言だ。なら脱げよと反射的に口が出る。


「お前見てるだけで、こっちは余計暑いわ」

「理不尽に怒られる、これも地球温暖化の結果だと潔く受け止めましょう。人類の環境破壊は時に人を短気にさせますが、仕方ないですね。罪には罰が必要だと偉い人は言いました」


 べらべらとよく回る口はマイボトルで塞がれる。粉を溶かしたスポーツ飲料は分量の見極めが難しい。パッケージの記載に従うと地味に濃い。


 首筋に熱がこもるのか、腰まで伸びたロングストレートが持ち上げる。毛先をまとめただけの髪形も、どうせなら高い位置で結えばいいが、テール状は動くときに鬱陶しいのだと以前ぼやいていた。


 交差点を左に曲がり二つ先の信号を渡れば、アイボリーの建物が姿を現す。

 一階の出窓では薄いレースカーテンが窓辺に飾るアンティーク調の小物を独り占めする。外階段から続く二階の扉を開けば、八代探偵事務所の執務室へ繋がった。


 いつものように階段を昇ろうとした時、不思議なお客が二人を出迎えた。ごろりと寝そべる黒猫は人影に顔をあげるが、逃げることもせず我が物顔で再び瞼を閉じた。

 見覚えのない猫はまだ幼く、ふてぶてしさが一周まわって愛らしい。野良猫が日陰に避難したのだろう。飼い主を特定する首輪がついていない。


「猫、お客さんですか?」


 一段飛ばしの大股が横切るそばで、彩芽はしゃがんで話しかける。


「猫が何依頼すんだよ」

「迷子の子猫さんが家を探してるとか」

「うちじゃ飼えないからな。もといた場所にかえしてこい」

「無慈悲」


 茶番はそのままリズムよく足音をたてる。二人の背中が視界から消えたところで、黒猫は大きなあくびを零した。



 赤く泣き腫らした目元を少女のハンカチがおさえた。

 事の経緯を冷静に説明しようと、伝えることはすべてノートに書き込み何度も練習したが、実際声に出して状況を振り返るうちに感情は昂ぶり。少女が落ち着くまで、応接室は銀色の沈黙に包まれる。


「すみません、いきなりこんな……」

「どうかお気になさらず。辛いときは皆同じですから。今お飲み物のおかわりをお持ちしますね」


 鼻声混じりの礼を述べる少女と話を進めるには、もう暫し時間がかかりそうだ。

 冷茶を運ぶ彩芽から湯呑みを受け取り、世利は待ち時間で現時点の情報を整理する。


 依頼人、山本由香。隣町の中学校に通う十四歳。目を離した隙に飼い猫が外へ飛び出した。以来家に帰ってこないと捜索を続けている。

 近所を駆け回っても効果はなく、警察や保健所に連絡を取るも手掛かりなし。張り紙とネットの情報網を頼りながら枕を濡らすこと三日。


 多忙な両親は、それでも娘を学校へ行くように説得した。学生はこの時期テストを控えている。むやみに授業を欠席すべきではないと、日中はプロの手を借りることにした。そして知人から紹介を受けたのが、隣町の探偵事務所だった。


 写真の中で、柔らかな白い毛並みをもつ猫が少女に抱きかかえられている。首には赤いリボンをつけているが、それは現在机の上だ。

 連絡先が記載されており、これが猫と一緒ならば困ることはなかったが。

 首輪を洗濯している隙に外へ飛び出したのだから、運が悪いとしか言いようがない。あるいは窮屈な檻から解放されたい、野生の本能だろうか。


「でも本当にいいんですか。猫探しだなんて依頼でも」


 申し訳なさそうに由香の視線は机上を彷徨う。


 知人はスーカー被害の相談で探偵を雇った。対応が丁寧で依頼料も相場より安いと勧められたが、ストーカーと猫探しでは規模の違いを感じる。果たして本当に引き受けてもらえるのか、門前払いは覚悟のうえだった。


 そんな依頼人の心中も世利にとっては手のひらの上だ。

 人好きのする柔和な笑みは「ご安心ください」と続けながら、心の隙間に入り込む。


「専門的な依頼のみを扱うところもありますが、私共は基本的にどのような案件にも対応しております。それに家族の行方不明は『なんて』の話じゃないですよ」


 猫は腹が減れば帰ってくる、首輪を外した飼い主が悪い、簡単に外へ出られる環境が問題だ。インターネットに投稿すれば見知らぬ誰かの誹謗中傷は当たり前。自分が悪いと自覚はあるものの、追い打ちに傷心は擦り減る。


 親身に寄り添い欲しい言葉で甘く包み込む。ある種、ゆるやかな毒だ。



「というわけで、この件は君に任せたよ」


 猫探しに任命された彩芽は二つ目の返事で引き受けた。一度言葉を止めたのは、仕事内容に不満を抱いたからではない。


 護身術を売りとする彩芽には、腕っぷしを求める案件が主に振り分けられる。

 だが、探し物や些細なトラブルなど比較的容易に解決できると世利が判断すれば、担当につくことは何度かあった。世利の後、事務所を継ぐのは従兄妹である彩芽だから。


 微かな気掛かりは即決だった点だ。断りの余地は別として、毎回必ず本人の意思を確認するのに。

 今回は違った。依頼人の話を聞いたとき、あるいはそれ以前からの決定事項だと言わんばかりに口をはさむ隙も無い。


 自分は絶対にやらない。強い意志はキーボードを鋭く弾いた。


 捜索対象の写真と失踪場所近辺の地図を眺めながら、早速調査範囲の絞り込みに取り掛かる。

 猫の行動範囲はおおよそ半径二百メートルと言われており、今回は自宅から脱走したため、大体の居場所は推測できる。


 テリトリーに厳しい外の世界で、室内飼いの猫が活動できる場所は自宅付近が一番多い。見つからないのはどこかでじっと身を潜めているから。夜行型の生物と考えれば昼間は寝ている可能性が高い。


「猫は隙間が好きですから、塀の間に挟まっている可能性も」


 指先が軽やかにペンを回す。


「隣の家にデッキがあるそうですね……まあ、いませんけど」


 でなければ金を払って人を雇う必要はない。

 机上の思考も大切だが、現場に赴き自らの足で情報収集をすることは探偵の基本だ。地図とにらめっこをして時間が経過するだけなら、区切りをつけて外へ出るべき。


 仕事道具を一式鞄に詰め込み、気合を胸に立ち上がる。


「……アヤ、君そのまま行く気か」


 出鼻をくじく横やりに踏み出した一歩がつんのめる。


 書類を片手に目を細める質問者は、それ以上言葉を紡がずに答えを待った。

 試されている。そう確信を得るものの、質問の意図は切れ端もつかめず。持ち物も下準備もいつもどおり、問題はないはずだ。今日は猛暑日だから帽子を被れということか。


 見つめあうことたっぷり二十秒、時計の針がやけに大きく聞こえる部屋で、仕方ないと短い溜め息が沈黙を終わらせる。


「平日の真昼間からスーツを着た人間が住宅地で怪しい行動をしてみろ。私なら不審に思うけどね」


 守秘義務がある以上、むやみやたらに素性をばらすことは避けたい。怪しまれることなく、ただの一般人としてその場に溶け込むことは、探偵の必須スキルだと教わってきた。今回の立ち位置は「親戚の猫がいなくなり探すのを手伝っている大学生(全休)」だ。


 身分が証明できないなら、それを問われなければよい。

 世利の言葉はいつだって正論だ。少なくとも彩芽はそう信じていた。

 正しいことを言う人間が正しいとは限らない。

 以前、そう言い切って笑ったのもこの男だ。だからこそ、信頼を寄せられる。


「それもそうですね。ちゃちゃっと着替えてきます」


 事務所には予備の服が用意してある。動きやすいスポーツウェアからフォーマルな服装までより取り見取りだ。


 夏らしく薄水色のワンピースを翻し、今度こそ行ってきますと元気よく飛び出していく。簡単にスーツを脱ぎ捨てる姿を前に、ジルの頭には『北風と太陽』の情景が思い描かれた。


 ***

 しんしんと降り積もる雪の日に出会ったからユキ。

 寂しげに語る少女の言葉を反復して、南の空から照らす太陽の下、街にその名を呼びかけた。人影ひとつないアスファルトが空しい音を吸い込む。


 写真を手掛かりに路地裏や溝などを徹底的につぶしていくが、猫は姿形を現わさない。その間も炎天下はじりじりと焼き付け、地上に近づくほど熱は高くなる。

 犬や猫は、毛皮こそあるが体感温度は人間よりも厳しいものだろう。犬の散歩は、夏の場合早朝や日没以降の涼しい時間を選べと、テレビで聞いたことがある。


 今朝事務所の階段で寝ていた黒猫は居心地の良い場所を見つけただろうか。

 出発するとき、黒猫はすでに立ち去っていた。こうも厳しい気温では安否を心配するのも無理はない。

 この夏を乗り切るにはこまめな水分補給が命、せめて冷たい水を確保してくれと願うことしかできない。ジルと生活するマンションはペット禁止なのだから。


 途中休憩を挟みながら猫探しを続けること数時間。すっかり夢中になった頃には、西の空が橙色に染まりつつあった。

 想定していた場所はひととおり調べおえた。収穫は白毛が一本、これでは難事件をいくつも解決した英国の探偵だって頭を悩ませるだろう。

 自分の脳みそだけでは発想に限界がある。時に、他人の思考回路を借りる柔軟性がなければ。プライドは持つべきだが、それに飲み込まれてはいけない。


 さて、どうしたものか。

 土地勘に明るければ有力な情報を仕入れることもできたが、生憎周辺は馴染みのない空気だ。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるか。


 山本家から徒歩数分の距離に児童公園がある。塗装のはがれたベンチと風がこぐだけのブランコは、人々から忘れ去られた寂寥感。

 近隣の都市開発が進み、新たに子どもたちの遊び場が設立してからはすっかり人足が遠のいたという。


 昼間に公園の前を横切ったときは自然なままのブランコだったが、次にのぞいたとき、原動力は幼子たちの無邪気な笑い声に変わっていた。ベンチには母親と思われる女性が井戸端会議に花を咲かせている。

 買い物帰りだろうか、スーパーのビニール袋は足元へ。子どもが母親を呼び、親は手を振って応える。


 ふと、目の前の景色がフィルムの世界に変わる。邂逅の映写機が映し出すのは在りし日の面影。見知らぬ親子は自分と母親にすり替わる。

 平凡な日常の「中」を歩むとき、それを形作る幸せに気がつくことは難しい。穏やかな日々の果て、境界線を越えて振り返ったとき、ああ自分は幸福だったと実感する。その時押し寄せる感情の色は、生の数だけ存在した。

 夏風が木々を奏でる。色褪せた香りは胸を満たして。


「ねぇあなた、大丈夫?」


 路上で立ちすくむ彩芽に、髪を緩く巻いた女性が話しかける。反射的に肩がはねたとき、そこにあるのはただの小さな公園だった。


「わっ、すみません」


 咄嗟に一歩あとずさり軽く頭をさげる。「驚かせてごめんね」と日本人特有の謝罪合戦を繰り広げていれば、話を中断していたもう一人も近づいた


「ぼおっとしていたから、具合でも悪いんじゃないかって。ごめんなさいね、お節介なおばさんで」

「いえいえ。……さっき通りかかったときは誰もいなかったので、子供が遊んでいて少しびっくりしてしまい」


 本当は懐かしい記憶に浸っていただけだが、自然と顔を綻ばせれば誤魔化しの穴は塞げる。後から来た女性も特に疑問を抱いた様子はなく、苦笑いを浮かべながら二度頷いた。ベリーショートの髪形に動きやすいパンツスタイルの彼女は、見た目の印象と同じく快活に言葉を紡ぐ。


「市街地の方にアスレチック広場が出来たから、大体そっちに行くんじゃないかな」

「私も先週主人に連れて行ってもらったけど、やっぱり人が多いのね。すぐに疲れて帰ってきちゃったわ」


 奥様方のお喋りは一度火がつくと鎮火は容易じゃない。危うく本来の目的を忘れそうになり、いったん流れを止めるべく挙手で存在をアピールした。

 発言者は手をあげること。学校で身につけた習慣はいまだ健在だ。


「お話し中すみません。実は……」


 肩掛け鞄からクリアファイルを引っ張り出す。中には依頼人から預かった白猫の写真が数枚収まっている。風に悪戯されないように指で押さえつつ、二人がよく見える位置にもっていく。


「猫を探しているんです。先日家から逃げてしまい、まだ帰ってこなくて」


 山本家の近所にある公園だ。買い物帰りに寄り道をするということは、この住宅街に二人の家もあるだろう。山本由香と顔見知りで、かつポスターや自慢の噂話から猫が脱走したことを知る機会はあるが、果たして。

 巻き髪の女性は口元に手を当てて注意深く写真を確認する。一方、快活な方は写真ではなく彩芽に対して目を丸くした。山本由香と知り合いか。微かに味の変化した空気を察して、続きを待った。

 案の定、女性は依頼人の名前を口にする。


「山本さんとこの猫だよね。確かユキちゃん? そういえば猫を探してるって回覧板で回ってきたけど」


 パッチリとした二重の瞳が真っすぐ彩芽を射抜く。


「由香ちゃんのお友達?」


 深い意味はないのかもしれない。同年代に比べて背が低く、顔つきも実年齢より幼く見られがちだった。中学生の年齢に間違われるのは今に始まったことじゃない。

 学生の下校時刻にはまだ早い。この時間帯にうろついていることが、女性の気になる部分だろう。飼い主の由香でさえ、学校が始まるからと渋々登校しているのに。


 嘘をつくとき、相手を騙す手法として「真実を混ぜて話す」というものがある。突拍子のない発言はすぐに見抜かれるが、事実が混ざりあえば、そういうものかと誤魔化せる。


 事実、彩芽は誕生日を迎えたばかりの十九歳。大学生を騙るには丁度良い年頃だ。


「由香の親戚なんです。大学が休みで、今日は私が代わりに」


 目線をそらさずに弧を描く。口数を抑えて余計なことは喋らない。警戒心を内に潜めてじっとりと相手の動きをさぐる。


「あらそうなの、由香ちゃんと同い年くらいかと思って」

「よく言われます」


 裏表の感じさせない笑みが疑いを晴らす。女性は写真に目を移して暫し唸ったあと、降参だと手のひらを上にあげた。実りの秋はまだ遠い。


 大人が集まって話に夢中になっていれば、好奇心旺盛な年頃の子はなんだなんだと裾を引っ張る。途端に弾ける生演奏に、これ以上邪魔をしてもしょうがないと二人から写真を回収して鞄に戻した。


「役に立たなくてごめんね。……ああ、そうだ。北野さんのお宅には伺った?」

「北野さん? そっか、あそこのお爺ちゃんいつも空き地で絵を描いてるの。老後の趣味ってやつでね。空き地には野良猫もよくいるし、この辺の猫に一番詳しいの北野さんじゃないかな」

「ねこおじちゃんだよ」

「ねこおじちゃんなの」


 二人の子どもが順番に顔をのぞかせて、笑いながら走り回る。



 太陽はゆったりと夜に帰る。

 西の橙色に羽ばたくカラスは次第にシルエットを増やした。


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