Midnight blue

涼瀬いつき

相葉青年

 所詮は世間に見捨てられたドブネズミの寄せ集めだ。灰色で覆われたスラム街の路地裏に、雲の切れ間から射し込む光は届かない。

 欠陥品は世界の隅に追いやる。壊れたブリキの瞳は額縁の名画を夢見て、理想に眠ることしかできない。


 この世に生まれ落ちた灯火を恨みながら、死ぬことも出来ない愚かな人生を綴った。泥水を美酒と称して己を誤魔化す日々はなんと滑稽なことか。


 神の気紛れは軽率に人生をひっくり返す。


 色を知らない淀んだ瞳のどこを気に入ったのか、物好きな東洋人はゴミ山から一匹のネズミを連れ帰った。海を渡り、初めて吸い込んだ異国の空気がこれまでの自分を殺したが、未練はなかった。


 生まれ変わる、とはこのこと。


 ネズミは薄暗い路地裏の秩序しか知らないため、人間の生活には戸惑うことが多い。

 まず始めに東洋人はネズミに教育を施した。齢十二の子どもは母国語すらまともに読み書きできなかったが、根気強い東洋人の教えにより、自身が暮らす国の知識を身につける。


 季節が巡り、夜桜の下で人生二度目の花見を興じる頃、ネズミは楠木寅と人間を名乗り、東洋人を親父と呼び慕った。


 寅を拾った東洋人も日陰の世界の住民だ。百人単位の構成員を纏めあげるカリスマ性は界隈でも有名で、向かうところに敵は無い。寅が高校を卒業した晩、生涯この身を恩人に捧げると、誓いを背中に刻んだ。


 その後の軌跡はいつ振り返っても波瀾万丈といえる。


 対抗組織との抗争で何度命を落としかけたか。新入りの教育でどれだけ度肝を冷やされたか。六本木のディスコで踊り明かし、重ねた香りの数は覚えていない。恩人が銃弾に貫かれた日、冬の雨が心身を凍てつかせる程に冷たいものだと初めて知った。


 幸と不幸の波にのまれる人の心情をよそに、時間は平等に流れていく。


 あの頃のドブネズミは立派な白虎に成長した。恩人の残した組を守るべく、部下を束ねて周囲をけん制する。「楠木の四神」という冠に恥じぬ働きで組に貢献する後ろ姿を、若い連中は尊敬と憧れの瞳で追いかけた。


 しかし、形あるものは等しく崩れることが運命だ。抗争の最中怪我を負った左腕は後遺症が残り、以前のように力が入らなくなった。壊れた腕で前線に立てば単なるお荷物だ。第一線を退くのも愛すべき組の為。華々しい未来を願う苦渋の決断後、後生の育成に注力する道を選んだ。


 組系列の金融会社を立ち上げて部下と金計算に勤しむ毎日は、やがて獰猛な牙を抜く。寅もまた己の弱体化に夜な夜な嘆いた。


 寅の決意を聞いた部下は二つの意見にわかれる。今後も変わらずサポートに徹するか、そばを離れて更なる上を目指すか。来るもの拒まず去るもの追わず、彼らの背中が示したのはたった一言。


 寅が特別目をかけていた構成員は、前線で戦う貴方を守ることができないならと、これをきっかけに堅気の生活へ戻っていった。端から組に忠誠を誓ったのではなく、寅個人を敬愛した若者だ。ケジメをつけて組の門を後にしたのは昨年のこと。



「部下に見限られた情けねえ男の話だが、ちっとはネタの足しになるだろ」


 深く息を吐きだし吸い殻を灰皿に押し付ける。寅の昔話を必死にノートへ書き留めた青年は、手の側面を黒に汚しながらも丸い瞳に嬉々をうかべた。ヤクザの昔話、それもかつての武勇伝だけならまだしも、転落人生のオチつきだ。面白い場面などあるだろうか。


 寅が話を振り返る間に青年はメモをまとめる。小説のネタ集めとして、ヤクザの幹部から話を伺う無謀な試みは想像以上の収穫らしい。背負う籠は新鮮なネタでずっしりと重みを増し、創作意欲が刺激されてたまらない。今すぐにでも原稿用紙の上で調理をしたいと、熱い衝動にかられているようだった。


「ありがとうございました。やっぱり寅さんの話は面白いです。次の主人公候補に寅さんも入れておきますね」

「俺の歴史でも書こうってか? つまんねえ冗談だな青二才」


 豪快な寅の笑い声につられて事務仕事中の部下も腹を抱えた。笑いの渦に取り残された青年は、同調圧力に負けてへらりと身を縮こませる。

 真夜中の青を掬い上げた髪、暗く沈んだ紫の瞳が眼鏡越しに寅を見つめた。青年の名は相葉祐樹、プロデビューを目指す駆け出しの小説家だ。


 寅と相葉が出会ったのはつい十日前のことだ。


 中華街の人混みに押されて派手に衝突したのは、横浜一帯で名を馳せる暴力団「楠木組」の幹部と、幸薄そうな眼鏡の青年。衝撃の弾みで、寅が愛用していたネクタイピンがアスファルトに落下して、運悪く相葉が踏みつけてしまった。粉々に割れたピンを涙目で拾い集める様子に、全盛期なら怒声を浴びせた。今の寅にそれだけの棘は残っていない。


 気にするなと、部下を連れて立ち去ったのは本当に気にしていないから。形あるものはいつか壊れる、それだけのことだ。


 しかし、相葉青年は一連の出来事に対して斜め上の行動にでた。ヤクザに見逃されたなら、普通はそれ以上関わろうとしないだろう。壊したネクタイピンと色形が良く似た琥珀のそれを手土産に事務所の扉を叩く相葉へ、誰もが呆れた。


「あなたがどんな人でも、壊したものは弁償……しなきゃ」


 武者震いの止め方も知らないくせに、口にする言葉だけは一人前だ。生真面目な性格は損をする。不器用な立ち回りは、かつての愛弟子によく似ていた。気が弱く愛嬌のある雰囲気は小型犬を連想させる。

 懐かしさから名を問えば「相葉祐樹」と答えるのだから、やはり神のきまぐれはあてにならない。昨年組を去った愛弟子の名も、漢字は違えど「ゆうき」の響きだった。


 相葉との関りはそれっきりのつもりだったが、奇妙な巡りあわせはその後も続いた。寅が牛耳る賭場で何故か相葉がカモにされていたのだ。素人が来る場所ではないが、人数合わせを探していた連中に断り切れなかったと、後悔の念に襲われている。


「楠木さん……」


 借金が積み重なるテーブルを前に、相葉は地獄に垂れた蜘蛛の糸をすがった。

 同情はするが助ける義理もない。周囲に流される相葉にも自業自得と切り捨てる面はある。


 だから、救いの手を差し伸べたのは神を真似たきまぐれだ。愛弟子に姿が重なったからという甘い考えは、無きにしも非ず。


 それから相葉は寅の経営する金融会社の事務所へ顔を出すようになった。アウトローの世界で生きる男達の武勇伝は、万年ネタ不足の相葉にとって貴重な情報源。あれよこれよと広げた風呂敷を寅の一喝で片づけるまでが、いつの間にかお約束となっていた。


「俺がベストセラー作家になったら一番にサインさせてください」

「そりゃお前、俺が死ぬ前に売れてもらわねえとなあ」


 大口叩きが将来どれほど化けるのか。老後の楽しみが増えたと、今宵の酒は格別美味となる。


 ***

 ある日、組長から寅へ久しぶりの指令がくだる。仕事内容は拳銃と薬の密取引。至ってシンプルな内容だが、今回の薬は海外で秘密裏に開発が進んでいた新種のものだ。従来より持続時間は短いが、依存性が高く注目が集まっていた。

 この程度の仕事は本来下っ端に任せるべきだが、熱量を持て余す若造より寅に任せた方が安心だというのが上の方針だ。


 待ち合わせ場所はすでに利用されていない小さな埠頭。月明かりに導かれるように、夜のしじまに紫煙が漂う。

 万が一に備えて数人の部下を事前に配置させた。取引相手は海の向こうの売人だ。簡単な仕事とはいえ、最低限の危機感は取引相手への礼儀替わりになる。


 深夜一時、ぽつりぽつりと並ぶ外灯に羽虫が集まる。暗闇の海面に揺れる月の影、波のさざめきも気にならない静寂に心地よい緊張感を覚える。取引場所はB2倉庫前、暗がりを懐中電灯で照らし倉庫ナンバーを確認する。時計は予定時刻を指しているが、人の気配は感じない。


「遅れてんのか」


 仕方ないと二本目の煙草に火をつける。肺を満たすチープな中毒は目新しいヤクよりよっぽど魅力的だ。


 ……人の気配を感じない、ならば待機している部下はどこに消えた。


 冷たい潮風が頬をなでる。


 瞬間、足元のコンクリートが鋭く跳ねた。破片が眼前に迫り咄嗟に右腕で払う。暗闇の中に潜む獣を見つけ出す前に、次の照準があわさる。サプレッサーにより音は抑えられているが、方角は南西からの一方のみ。反撃に銃を構えるが敵の姿が視認できない。無人の倉庫は二階建て、狙撃手が身を潜める場所はいくらでもある。

 銃弾は足元を狙う威嚇射撃だ。当てるつもりのない攻撃は些細な障害物にすぎない。注意を引きつけて仲間の行動を援護するのが目的なら、対峙すべき相手は背後の足音。


 寅の意識はここで途絶える。

 あと一歩、背後の存在に早く気がつけば、額縁に飾る絵画は異なる未来を描いたのか。



 意識が覚醒して最初に目に飛び込んできたのは、この場に不釣り合いの人間だった。


 相葉は涼やかな表情で寅の容体を確かめた。労りの手つきが後頭部を触診する。鈍痛に侵される思考で状況把握を試みたが、手足の縛られた芋虫状態では周囲を一瞥することもままならない。


 貧乏生活だと普段からヨレヨレの安物パーカーを愛用していたくせに、今夜は質の良い着物姿で登場ときたか。だが、相葉にはパーカーよりも和服がお似合いだ。微かな線香の香りが鼻孔をくすぐる。


「こんばんは、楠木様。ご気分はあまりよろしくないでしょうが、ご安心ください。すでに迎えの手配はついております。もう五分程この状態でお待ちいただけますか」


 倉庫の中は心許ない蛍光灯が唯一の照明器具。開けたままのシャッターから夜風が運ばれてくる。入口近くには寅の部下が同様に縛られた状態で転がっていた。数人混じる見覚えのない異国顔が今回の取引相手だ。


 目の前の男は間違いなく相葉だ。しかし、寅の知る小説家の青年は口が裂けても「楠木様」などと呼ばないし、笑う時はわかりやすく表情を崩す。意識的に声を色づける器用な喋り方など出来やしない。

 一杯食わされた。気づいてしまえば化け狐の立ち振る舞いに不審点はいくらでも見つけられるが、すべては後の祭りだ。警戒心の散漫をついて心に住み着く、出会い方が違えば是非とも技法を習いたかった。


 相葉に昔話を語ることはあれど、機密情報を漏らした記憶はない。今夜の取引妨害が狙いなら最初の接触ですでに仕掛けていたのだろう。

 今もなおネクタイに光る琥珀石が、寅の見当を答え合わせするようにたやすく分解される。小指の先にも満たない盗聴器は相葉の手によって回収された。


 優雅に微笑む男を小型犬と称した過去の自分に、我ながら呆れかえる。例えるなら獲物を定めた猛禽類だ。


「どこの組のもんだ」


 残り時間は五分、迎えにくるのは楠木の人間ではない。相葉を飼う組織に捕らえられる前に、騙された相手を少しでも知る必要がある。


「私達は貴方の同業者ではありません」


 複数形、狙撃手と拳の人間も相葉の仲間か。野良で活動するグループなら引き抜いてしまいたいが、凛と背筋を伸ばす佇まいに交渉の余地はない。


「今日の取引が目的なら盗聴器を仕掛けた時点で接触はすんだハズだ。わざわざ貧乏小説家に変装してまで近づいた理由は」


 相葉は口元に手を添えて数秒の間をあける。まあ、と息をついたのは、どうせすぐにわかることだから。


「家主は、隣家が庭の芝に得体の知れない薬を撒くことを危惧されました。私有地での行いとはいえ隣ですから。自宅への悪影響を心配しても無理はありません。私が受けた依頼は彼らの懸念する芽を摘み取ることです」


 一度時間がとまる。それまで絶えず浮かべた笑みを消して、相葉の声は地に近づいた。


「そしてもう一つの依頼事項ですが、楠木様はご存じありませんでしたか? 貴方の部下が扇動した集団暴行事件、被害者の男性は暫く意識不明の重体でしたが、先日逝去されました。どうにも故人と家主は深い親交関係にあったようで、犯人捜しの手伝いも頼まれましてね」


 それは寅の記憶にも新しい出来事だ。最近勢いの増してきた若い連中の一人が、外部の仲間を集めて対立グループのメンバーを半殺しにしてやったと、得意げに語っていた。多勢に無勢が調子づくなと焼きを入れたが、この程度の話は珍しいものじゃない。集団暴行事件という表現に思わず鼻で笑う。所詮は住む世界が違うのだ。


「お話を伺っていくうちに、証拠は自然と集まりましたよ」


 声の調子を戻して再び口角をあげた。入口から二つのライトが伸びる。黒いバンが複数台停車して、同種の匂いが次々と流れ込む。時間切れの合図は派手な方が好きらしい。


 車体の陰では長身の欧州人と小柄な日本人の男女がこちらを盗み見ている。女の方はどことなく相葉と面が似ていた。


 寅は最後に相葉の名前を尋ねた。「相葉祐樹」など趣味の悪い偽名に決まっている。


 相葉を名乗る男は、口に人差し指を添えるだけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る