八月の湿度

涼瀬いつき

八月の湿度

 帰宅時間帯の電車に揺れた乗客は、発車を予告するメロディーを背に受けて、階段へ歩みを向ける。

 市街地に面したこの駅は夕暮れの改札を抜ける影が多い。当初こそ人混みを縫うように進むのは気が引けたが、通学路として身に馴染んだいま、遠慮は初心とともに何処かへ流されてしまった。

 肩と肩のぶつかる感覚にいちいち立ち止まれば余計邪魔になる。なにより乗り換えの電車は一分後に扉を閉めてしまうのだ。少し離れた位置にある三番線乗り場までは、早歩きでも滑り込みだった。


 どうしてこのタイミングだけ時間に余裕がないのか。これを逃せば四十分の待ち時間。独り言ちは帰路を急ぐ雑踏に踏み消される。


「ねぇ、放送流れてない」


 都会の厳しさを浴びている私に、その声は遠慮なく袖をつかんだ。

 ちらりと振り返れば、先輩はのんきに「ほら」と宙を指差す。


 ――只今、〇〇駅と□□駅の間で発生しました人身事故の影響により、三番線到着の列車に遅れが生じております。お急ぎのところ大変恐れ入りますが……


 意識を向ければ、確かに乗車予定の電車が遅れているとアナウンスが繰り返された。焦り損だと肩を落とし、ほどけかけたスニーカーの靴紐を結びなおす。控えめな笑い声が仕方ないなと側に寄った。


「靴紐くらいちゃんとしな、電車は逃げないんだから。踏んでこけたら馬鹿みたいだよ」

「逃げますよ。私が遅れを許しても、電車は遅れた私を置いてけぼりにしますから」

「車掌さんに手を振ってさ、待って! って駆け出せば」

「それこそ馬鹿でしょう」


 今度は緩まないようにときつく締め、一度ホームを覗き込む。スーツや制服姿の帰り人が各々に時間をつぶしている様子に、どうしたものかと鞄を漁る。生憎、読書やゲームといった娯楽品は持ち合わせていない。

 先輩はと視線を上げると、近くの壁際で電話をかけているようだった。短く通話を切り上げ、仕切り直しの手を打つ。


「さてと。どうする、お喋りに花咲かせる?」


 南口に出ればファミレスやゲームセンターなど学生向けの施設も充実しているが、電車がいつ来るかわからない状況で、外へ出るのも悩ましい。

 だからといって、ただ突っ立て話し込むのをつまらないと感じるのも本心だ。

 「上手な遅延待ちの過ごし方」と脳へ検索をかけるのも束の間、面白いものをみつけたと先輩の足は行先を定めたらしい。


「いつもアイスのワゴンショップ出てるよね」


 改札を抜けた先で店舗を構える、パステルカラーのアイス販売店。よく女子高生が列になっているから、人気なのだろう。実際に買った試しはないが。

 ふと、咽喉に刺さる違和感。けれど次の時にはするりと抜けて。


「曜日変わりなんです。月曜はパン屋、火曜はアイス。水曜を飛んで木曜日にケーキ」


 曜日ごとに出店の変わる一角は見慣れたものだが、バイトの日しか駅に降りない先輩からすれば、アイスが「いつも」になるのも納得だ。

 アイスよりも金曜日の大判焼きに腹の虫は素直だった。ようやく落ち着いてきた高校生活、一週間の疲れを甘味で癒すのが近頃のブームになっていることはここだけの秘密。


「そう。なら折角だし食べちゃおうか。どうせこんな機会しか行かないし」


 誘い言葉のわりに拒否権を用意されていないのか、すでにICカードを準備した先輩は私の答えを待たないまま足取りを軽くする。この人のマイペースぶりに振り回されるのはいまだ慣れない。


 先客が会計を終えると、色とりどりの鮮やかなアイスバーが目に飛び込んできた。

 贅沢に使用した果実の食感が売りらしく、ワゴンにもいたるところに果物イメージの装飾が施されている。学生服の男子二人が立ち寄るには、こそばゆい。


 アイスといえば抹茶か小豆の二択だけど、イチゴやメロンと王道が並ぶなかに目当てのフレーバーは仲間入りしていない。グレープを注文する傍らで、オレンジに決めた先輩が財布を開いた。


「……お先にどうぞ」


 鞄のファスナーが噛んだのか、財布を引っ張り出せず二人分の気配に羞恥心が擽られる。先輩に順番を譲り、脇で弄りまわすこと一分足らず。挟んでいた資料を整理して気を改めたのと同時に、頭上から冷気の気配。

 反射的に押さえた手のひらには紫色のアイスバー。


「恥ずかしい子。ほらお姉さんに笑われちゃうよ」


 生温かい店先の空気が非常に居心地悪い。後輩のドジを先輩がスマートに助ける図は、客観的立場からすると微笑ましい光景のようで。

 否定はしないが、自分がその対象になるのは話が別だ。背中を押し退散を促すことでその場を誤魔化した。


 茜色の滲むプラットホームで氷菓子の砕ける音がふたつ。果汁の染み込んだ欠片を舌先に広げながら、もう一口と歯を立てる。

 「たまには先輩面をしてみようかな」と代金は受け取ってもらえない。お言葉に甘えた礼を述べて電車の復旧を待つ間、隣でしきりに振動する携帯電話は、やがてうんざりとした息遣いとともに鞄へしまいこまれた。


「バイト、大丈夫ですか」

「平気へいき」


 家に帰るだけの私とは違い、この人はひと仕事残っているから、溶けかけたアイスをこうして咀嚼する。

 掛け持ちをしていると聞いたことがある。他の日は学校の最寄り駅で逆方向に別れるのに、火曜日だけ下り電車の車窓を眺めるから、どこで働いているのか疑問が芽吹くのも自然なことだ。


「内緒」


 しなやかに伸びた人差し指を唇に添えて、口元に静かな弧を描く。斜陽の影が表情の真意を覆い、三度目の正直は花開かず。

 一歩近づき一歩下がる。不可侵領域に踏み込むお許しはまだ出ないようで、じっとりと視線を送っても、わざとらしく首を傾げられてこの話題は終わり。


 太陽がゆったりと夜に落ちる。

 西の空に羽ばたくカラスは次第にシルエットを増やした。


 ***


 喜怒哀楽の「喜楽」だけをくりぬいたように、大抵の場合微笑を浮かべているのが印象的だった。


 眠気を誘う陽だまりのぬくもりや、太陽の下ではじける炭酸水の爽快と似つかず、下卑た嫌味を与えるでもない。

 優しく結んだ唇をわずかに動かし、端正な顔立ちに映える黄金色の瞳が鈍い光を放つ。まるで銀座のウィンドウにならぶ無機質なマネキンを連想させた。


 隙のない立ち振る舞いは同年代の中でひとり異質な雰囲気をまとう。何食わぬ顔で集団に溶け込んでも、ワントーン低い彩度が際立ち、どことなく近寄りがたさを感じた。

 そんな他者評価に反して友人関係に苦労しないのは、案外お喋り好きで面倒見がよく、何事も要領よくこなす様が人を魅了するからだろう。

 広く浅い人付き合い。すれ違いに名前を呼ばれることは多いけど、親しい仲間内には属さない。一定の距離感を保ち、特別な関係をのらりくらりとかわす。

 一年の時から部活動を共にする部長ですら、微笑に伏せた奥底へ触れられないという。


 だから、あの火曜日。夕焼けの射し込む三番線電車でその正体を垣間見えたことは、私にとって幸運な出逢いだった。

 傾く夕陽を反射したガラス玉は哀愁を帯びて、拭いきれない焦燥感に呼吸を奪われたかのように、息苦しく生き苦しい閉鎖的な世界の片隅で佇んでいる。


 初めて見た人間らしい一面を、ただただ美しいと思った。


 さらけ出し不用意に傷つくことを恐れた感情は、繭にくるんで内側に隠し続ける。

 残りの綺麗な部分だけで作られた人形を操り器用な芸当で周囲に馴染む傀儡子は、糸が擦り切れ重力に従い崩れ落ちるそのときまで、彼自身の描くシナリオでステップを踏むのだろう。


 齢十七の少年が秘める薄暗い感情はどんな色を灯しているのか、その心理を暴き観察したいと探究心が刺激される。


 人目から遠ざけ神秘のベールに熟成された果実の蜜へ、私という人間はどうしようもなく引き寄せられてしまうのだ。


 ***


 期末テストが終わり目前に控えた夏休みを心待ちにする校舎は、部活動に励む運動部の活動がどこからともなく響き渡る。


 午前授業の日程が生徒の帰宅を促せば、ひとり居座る教室の広さに集中力はじわりと頬をつたい削げてゆく。

 剣道部の開始時刻まで二時間、一度帰宅してから戻って来るには微妙で。


 暇を持て余していたところ、情報処理の教師がお中元を用意してくれた。

 一学期の成績表に残した散々な跡を憐れむ瞳が脳裏に焼き付く。夏休みの補習で嫌という程たたき込まれるというのに。

 普通科の進学校で選択科目とはいえ専門的な授業を行うのは珍しいと、祖母に半ば強制されるまま選んだが、肌のあわなさを実感する数ヶ月だった。


 こんなことなら意地でも別科目を選べばと、後悔しても遅い。

 図書室は蔵書整理のため利用禁止。教室の冷房は管理室で一括制御されているが、心もとない弱風でもないよりマシだと虚しさに向き合う。

 プリント内容は漠然と脳を通り抜け、手渡されたときの状態から変わらない。ペットボトルの中身はとうに空で、小銭を数えれば一枚足りず。


 合唱を奏でる蝉時雨、ペンはついに机を転がる。冷房か水分か課題の有識者。どれかひとつでも助けが来ないかと腕枕に突っ伏す。今朝の星座占いは山羊座が最下位に違いない。


「ここ開いて……わあ、真夏の死体現場かな」


 死体現場に遭遇したならもう少し驚くなり反応しろ。

 相変わらず小綺麗な表情を崩さない先輩は勝手に前の席を占領し、ぐりぐりとつむじを押して死者蘇生を試みた。

 鬱陶しいと払う手をひらりとかわし、憮然とした私の前で進捗の悪い紙を目でなぞる。誰が相手でも私の置かれた状況を把握するのは簡単だろう。


「懐かしいなぁ。やったやった」

「情報選択ですか」

「まあね」


 そう言われれば、ノートパソコンを立ち上げてタイピングする姿は絵になっている気がした。他学年の教室に乗り込んで作業する意図は不明。

 疑問は解決しないと気が済まない性分だが、どうしても苦手科目にだけは発揮されないと自嘲する。


「PC室鍵閉められてさ。他の空き教室さがしてた」

「残念ですけど、そっちほど快適じゃないですよ」


 ぷかぷか浮かぶ不平不満のシャボン玉がぱちんと弾けた。

 勢いの強くなる風圧がうなじにたまる水滴を冷やし、はりついていた不愉快なシャツの隙間に冷気が流れこむ。

 生徒が温度設定を変えられない仕様のはずだが、先輩の指先ひとつで魔法にかかる教室は、次第に活力の湧き出る環境に変化した。


「来てごらん。ここのボタンを同時におすと設定が解除されるから、干からびて野垂れ死ぬ前にやってみな」

「怒られますよ」

「怒られるのが怖くて、夏の学校に通えないって」


 あっけらんと言い放つ正しくない意見を指摘できないのは、先輩のもたらす恩恵を手放す程優等生ではいられないから。

 誰かと行う勉強は自然と捗るもので、かといって一問に時間をかける様子が気になるのか、何度目かのうめき声にタイプ音が呆れ混じりのせせら笑いへと変わる。

 受容する側の発言ではないが、本当にこの人は与えるのが上手だ。


「勉強が苦手とは思わなかった」


 意外だと言外に滲ませながらパソコンを閉じて椅子ごと振り返り、行儀悪く頬杖をつきながら左手が問題文を追った。シャボン玉がまたひとつ、あっさりと弾けてしまう。


 何かを学ぶこと自体はむしろ好きな方だ。知識を習得して糧にすることは世界を広げることに繋がり、その先を想像すれば胸も躍る。

 国語や歴史が得意で、科学や情報処理など理系は少し遠ざける傾向にある、典型的な文系脳。


「これから世界はITの時代に移り変わるんだから、ここで躓いてるようじゃダメだよ」


 問題用紙に追記されていく解説は、答えを直接示すものではなく、辿り着くための手助けになるパン屑だ。散りばめられた欠片を拾い歩けば、おのずと個が形を成していく。

 教科書を読み単語や解き方を覚えるのは、基礎を鍛えて学校のテストで良い点数を取るための手段だという。

 物事の本質を理解したければ、構築するパーツを分解して内部構造から解いていく必要がある。

 それはときに途方もない量で、根性との競い合いだ。


「けど、深い知識の水底で思考を止めずに脳を働かせれば、浮かびあがる表面は価値が違う。勉強の面白さっていうのは、そういうところじゃないかな」

「……随分先輩みたいなことを言うんですね」

「キミはこういうやつが好きでしょ」


 内側を解き明かしその中身を掴みたいとする私の思惑を、この人は邪険にするどころか面白いと手を鳴らした。


 ――出来るものならご自由にどうぞ。


 挑発を支える自信がどこからくるのか。季節がひとつ過ぎても綻びのつかめない私を、小犬のじゃれつきだとばかりに軽くあしらい、今日も影をくらます日々。

 たかが数か月の付き合いで堅牢な膜を破れるつもりは端からないが、次の夏にはこうして会話を交わすこともないと、薄々感じ取っていた。


 頑なに触れさせない一面がある一方で、本人の基準範囲内ならある程度のことは話してくれる。絶対的な秘密主義者でないところがもどかしい。

 教えのとおり、先輩を構築するささやかな部品から考察を発展させるしかないのだ。


「……そのパソコン、論文の課題ですか」


 生徒が自由に持ち出せるノートパソコンがあると、聞いたことはない。三年生になれば受験勉強や就職活動で必要になるのかもしれないが、大体はPC室で作業をするしか許可を出さないと、初回の授業で説明を受けた。

 私の質問は「そんなこと」呼ばわりにあっさりと回答される。電源のついた画面には思わず喉を詰まらせる、英文法の羅列が並んでいた。


「文化祭でゲーム作ることになって、現在鋭意制作中」

「また随分と規模の大きい」

「コンピ研は技術持ちの集まりだからね」


 さらりと言ってのける様に、頬が引きつる。


「コンピ研って貴方、掛け持ちしてたんですか」


 六月の大会で三年生は引退。先日送別試合を行ったばかりの道場に、それなりの寂寥感を抱いている後輩としては、別の部活で楽しくやっている先輩など知りたくなかった。


「男の嫉妬は見苦しいよ」

「してません」


 子供じみた我儘。それが小犬だと揶揄されても、返す言葉がないのは分かっていた。


 ***


 耳につんざく蝉時雨、照りつける日差しにはしゃぎまわる夏の喧騒。

 用事ついでに立ち寄った本屋の店先で、『プログラミング初心者入門』のタイトルが目についた。紐つく記憶は、他愛ない一年前の季節。


 梅の花が開いても人形劇の裏側に立ち入ることは叶わず、門出を祝う式典のあと「解答欄を埋めたらいつでも会いにおいで。答え合わせをしようか」と手を振る姿が、いまでも一番新しい光景だ。


 喫茶店の扉がベルを鳴らす。店の迷惑も考えない激しい怒声が、賑やかな街から音を奪い取った。思わず肩が跳ね地面に落としかけた本を、間一髪で受け止める。


 懐かしい声色が鼓膜に突き刺さる。瞬時に名前が出てこないのは、なりふり構わず怒りに任せた感情的なそれを、初めて聞いたからだ。

 耳を押さえ声の方向へ首をまわす。見知らぬ大人と盛大に顔を歪めたあの人が往来の真ん中で揉めていた。


 一年がけの追いかけっこなど無意味な努力だと、糸の切れた人形が足元で嘲笑う。

 瞬きの間に夏風が幻覚をさらい、目を見開いた傀儡子は固く結んだ唇を緩めなかった。





 そして、その日。

 炎天下にむせかえるアスファルトで、

 私達は八月の湿度を共有した。


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