死者の香り

涼瀬いつき

第1話

 コントラストの強い街並みに天は紅茶の茶葉を振りまく。雨にとけ、街路樹に染み込み、街から色素を奪う。真夏の喧騒を包み込む空気は街中を駆け抜けて、人々に静寂の訪れを知らせる役割を担った。

 秋風の運ぶあまい香りが肺を満たす。それは体内をめぐり心の奥底を掠めると、気まぐれに霧散してまた何処へ。


 呼び起こされた過去の思い出の懐かしさに胸を焦がすのは、歳を重ねた証拠だろうか。ノスタルジックなんて洒落た言葉は自分に似合わない。

 香りが記憶を呼び起こす、この現象に名前はあるのか。ふと浮かび上がった疑問を彼は呼吸の合間に答えた。


「プルースト効果。……フランス作家、マルセル・プルーストが由来だったかな」


 聞き馴染みのない著者名に首を傾げる。お世辞にも読書家といえない性格は、海外作品の題名を並べられても閃く自信がない。

 『失われた時を求めて』主人公が焼き菓子を紅茶に浸した香りから、幼少期の記憶を取り戻す。その描写が元になったのだと、彼はコーヒーを片手に続けた。

 先程通りかかったワゴンショップで購入したものは未だ程良い温度に下がらない。きっとこの人は猫舌と無縁なのだろう。「読みなよ、結構面白いから」彼の勧めは丁重に受け流す。嘆息も慣れたものだ。


 仕事を共にして一年と少し、彼が知識に貪欲な人間だということは嫌でも身に刻まれた。刑事に求められる知識は勿論のこと、幅広い分野に手を伸ばし吸収していく様は、勉強が趣味なのだと容易に察せる。特に情報分野の造詣が深く、技術を活かした独自の捜査が彼の地位を押し上げた。

 就職先を間違えていると揶揄される度、口元を薄く伸ばし静かに微笑む。彼は大抵の場合笑みを絶やさない。喜怒哀楽の「喜楽」だけをくり抜いたような、お喋り好きが玉にきずの……けれど尊敬できる先輩だ。


 十月下旬。ショーウィンドウディスプレイが西洋風の小物で賑わうのを横目に、もうすぐハロウィンかと微かに胸が躍った。社会人になってからのハロウィンはトラブル騒動に翻弄される日と認識を改めたが、期間限定のお菓子や可愛らしい雑貨を楽しむくらいはゆるされたい。

 子どもの頃、母親から聞いた怖い話がある。

 ――仮装した子供の集団に一人知らない顔が混ざっていたら、その子は寂しがり屋の幽霊。一緒にあの世で遊んでくれる友達を探しに来たの。だから絶対について行ってはだめよ。

 いまにして思えば「不審者に気をつけなさい」という母の忠告だ。しかし、なによりもお化けが怖かった当時の私は、家から出ないと駄々をこねて引きこもった。


「まるでもう信じてない、って口振りだね。この間寮の近くに幽霊が出た! ……なんて騒いでたのは誰だったか」


 空になった紙コップを弄び、意地悪く口角をつり上げる。正論にぐうの音も出ない。

 これ以上滑らせまいと口を固く結び、ついでにじろりと見上げれば、喉の奥を震わせる失礼な姿。

 どうせオカルトに弱い小心者ですよ。堪えきれないと吹き出す気配が、声に出ていたと気づかせる。


「可愛い後輩が幽霊に怯えるのは不憫だから、ひとつ良い問題をあげよう」


 細く伸びた人差し指が宙をなでた。視線の先には変わらない日常風景が広がっている。魔女のキャンディを頬張る少女がこちらに手を振り、父親と思わしき男性が軽く頭を下げる。


「死を迎えた生物は自発的に行動出来ない」


 一際冷たい風にコートの裾がはためく。手のひらを温めていたコーヒーが舌先に広がり、シロップを足せばよかったと後悔。彼を真似るには早すぎた。


「未練を残すことも、寂しいと感じることもない。誰かを愛し憎むことすら不可能だ。存在が無くなるからね」


 持論を展開するとき彼の足取りは軽くなる。喋り続けながら遠くへ消えていく。その背中を追いつこうと、私も歩みをはやめる。


「死はすべての終わり。感情や思考という概念は生きているものだけの権利だよ」


 淡々と吐き出しながらも、彼は街の観察をやめない。徒歩の見回りは小さな綻びを発見しやすいと、以前指導を受けたことがある。


「だけど幽霊は確かに実在する。キミも視たんでしょう? 存在が消えたにも関わらず実在する矛盾、とは」


 さあ考えて。思考を愛する彼の謎々に最適解を叩き出せたことはない。けれど、自力で結論を導いた点に評価をくれるので、つい頭を悩ませてしまう。


 存在が無くなるとは対象Xの消滅であり、Xが実在した事実の否定とは等号の関係にあらず。Xは自ら意思を持たない。ならばXの行動原理を定義するものとは。

 彼は大抵の場合笑みを絶やさない。それ故真意を読み解くことは難しいが、今回はきっと模範解答だ。彼の声色は機嫌がよさそうだから。


「Xと繋がりをもつ人や場所、そこに残された記憶から死者はこの世に蘇る。情緒のある表現をするなら……他物の思い出に生きる、なんてどう」


 シンプルな着信音がコートの中でくぐもる。用件のみの手短な通話は、次の現場の指令だろう。


「要するに、幽霊の有無はキミの気持ち次第ってこと」


 ――人の勝手な印象で生き続けるだなんて、ボクなら耐えられないけど。


 彼の言葉は風に流され、隣を歩く耳にすら届かない。


「ねえ」


 取り零すのが惜しくなり聞き返そうと口を開けば、またいつもの謎々だ。


「ボクが死んでも、キミはボクを殺さないでね」





 コーヒー豆の苦い香りがもたらすのは、在りし日の面影。

 プルースト効果、彼と紐付く匂いがブラックコーヒーだというのは納得できる。彼はこの店の味を特に好んでいたから、私の中に眠る記憶が瞼を開いたのだろう。

 たまには彼を真似てブラックを嗜む。……ああやっぱり、シロップが恋しい。


 あの日一方的に押しつけられた彼の願いを私は守れているのだろうか。時折不安に駆られて答えを探し、正解を知る人はどこにもないと実感する。

 死んでも殺すな。問題を出し逃げして。


 彼はこの春、他人を庇いホームに転落、轢死した。


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