第3話

 少女は扉を開け、恐る恐る鬼へと近づいた。

 鬼は窓や扉に鉄格子のはめられた部屋に閉じ込められていた。鉄の鎖で何重にも縛られ、足には鉄球が鎖に繋がれていた。

 死んでいるのではないかと思った。それぐらい静かで身動きひとつしなかった。


 だが、少女が近づくと、鬼はゆっくりと眼を開いた。

 それは、真夜中に輝く満月のような澄んだ瞳。これが邪悪な魔物の眼だといわれても俄かには信じがたいものだった。


「……大丈夫か?」


 それは滑稽な問いだった。鬼を傷つけたのは自分なのに、いまさらなにを言っているのか。そのことに苦い笑みを浮かべた。


「まだ、生きている」


 鬼はそう答えた。まだ高い少年の声だ。


「そうか、水を持ってきたが、飲むか?」


 鬼は警戒心を剥きだしにして咽喉の奥で唸った。


「毒などはいっておらぬぞ」


 そう言って一口水を含んだ。


「ほれ」


 少女は動けない鬼のもとに歩み寄り、ゆっくりと頭を起こすと口元に水の入った皮袋を持っていった。鋭い牙がすぐそこにある。彼がその気になれば、自分が炎を生み出す前に咽喉笛を噛み砕くことができる位置だ。だが鬼はそれをせずに一心に水を飲みだした。中身はあっという間になくなった。


「まだ、わらを喰いたいか?」


 少女がそう問うと、鬼は答えた。


「喰いたい。だが、喰わない」


「なぜだ?」


「お前は、強いから……」


 少女は苦笑した。

 この鬼は話せるだけの知性はあるくせに、その思考はひどく獣じみているようだ。自分より強い者には真っ向から戦わずに逃げる。そのことを恥じる気持ちもないのだろう。


「だが、腹が減った」


 鬼が言った。


「後で持ってこよう」


 鬼は眼を細めた。まるで手負うた獣が傷を癒すために寝入るような仕草だった。

 それは生きるための行動。


「お主は、本当に生きることに素直なのだな……」


 生まれたときから贄となることが決まっている自分にはないもの。それが眩しいほど嫉ましくて、少しだけ羨ましい。だから、生きようともがく鬼を見て、あんなにも癇にさわったのだ。


「おぬし、名はなんと言う」


 鬼は眠そうにしていたが、その言葉に少女を見上げ首をかしげた。


「どうした?」


 少女は鬼の反応に首をかしげた。


「……名とは、なんだ?」


「名を知らんのか? 名とはお前を呼ぶ言葉だ」


 鬼は頷いた。


「それならオレは、鬼と呼ばれる」


 少女は首を横に振った。


「それは種族を表す名だ。わらだったら人。お主を表す言葉ではない。父や母から名づけられ、呼ばれる名があるだろう?」


 鬼はしばらく思案するように宙を睨んでいたが、やがて口を開いた。


「ああ、あった……な」


「そうであろう。で、名となんという?」


「ああ、オレは母から、バケモノと呼ばれた」


「……は?」


 少女は鬼がまた勘違いしていると思った。

 だが、


「オレが母の腹から出たとき、母はオレをバケモノと呼び、父はオレを殺そうとした」


「なん……だと? おぬしを生んだ母が、そう呼んだのか?」


「ああ、だから、オレの名はバケモノでよいのだろう?」


 その眼はそのことになんの疑問も持っていないようだった。


「いや、それは……」


 少女は、言いよどみ、あることに思いついた。


「のう、おぬしの父と母は鬼ではないのか?」


 鬼は不思議そうに眼を細めた。


「親は人間だった」


 少女は言葉を失った。

 今まで鬼という種族がいて、その中で暮らしているとばかり思っていた。

 だが、今の話が本当だとすると、鬼は人の腹から生まれるのだ。そしてたった一人で世に投げ出される。

 少女は知らなかったのだ。

 鬼とはこの世の穢れをその一身に集めて生れ落ちる――世界の浄化作用のための生贄だということを。


「なんだ。オレの名はバケモノではないのか?」


 鬼が問う。

 平然と問いかけるその姿が哀れだった。


「違う。それはおぬしの名ではない。……そうか、おぬしは名前すら与えられなかったのだな」


 鬼はわからないというように首を振った。


「ならば、わらがお主に名をつけてやろう」


 鬼がこちらを見上げた。その満月のような瞳が少女を見ていた。それはどれだけ手をのばそうとも、届くことはない夜月の輝き。

 だが、いまは手をのばせば触れられるところにあった。少女は鬼の頬をなでる。

 鬼の視線は少女の心を奪うように光を宿しつづけている。

 これを自分のものだけにしたい――そう思った。


「――ガゲツ――」


 少女はこぼれ落とすように呟いた。


「わら――我の月と書いて、ガゲツ。どうだ?」


 鬼は眼を瞬いた。それがどこか可愛らしく少女は笑みを浮かべた。


「おぬしの名はガゲツ。これからはそう名のるといい」


「オレの……なまえ……」


 鬼――ガゲツは呟くようにその名を繰り返した。それからこちらに視線をうつす。


「……では、おまえの名はなんと言う? 姫、か?」


 それに少女は苦笑する。そういえば母が死んでから、誰も自分の名を呼ばなくなった。


「わらは迦倶夜火女。いや――カグヤと呼べ」


「……わかった」


 ガゲツは頷いたが、そのまま頭が揺れだした。傷が睡眠を欲しているのだろう。


「子守唄でも謡ってやろうか?」


「コモリウタ、とは、なんだ?」


 少女――カグヤは呆れた。


「唄も知らんのか」


「それは、生きるのに、必要な、の……か?」


 カグヤはまた唖然とした。


 名前もそうだが、この鬼には生きることに必要なものと、そうでないものしかないのだ。

 そうしているうちに、ガゲツの頭が床に落ちた。頭は大丈夫かと心配になったが、床のほうが割れ、陥没していた。


 そのことにカグヤは吐息をつくと、ガゲツの横に座った。固い石畳に横たわっている彼の頭を膝の上にのせる。

 そして眠りに落ちるガゲツのために、唄を謡いだした。

 まるで愛をあたえられることのなかった子に、それを教えるように。やさしく、心をときほぐすように、旋律に身をふるわせた。


 かわいい坊や。

 いとしい坊や。

 火の粉が風に舞うように。

 この子に恵みをくださいますよう。

 天に輝く、我らが神よ。

 この子にひとつ。

 みんなにひとつ。

 いつかは恵みをくださいますよう。

 眠れよ眠れ。

 いまは眠れ。

 かわいい坊や。

 いとしい坊や。

 いつかは恵みに出会えるよう。

 

 終わる頃には、鬼は完全に寝ていた。

 鬼でも、夢を見るのだろうか。

 せめて、それがよい夢であることを、カグヤは祈った。

 鉄格子越しに見る月はそろそろ満月になろうとしている。

 自分の命もあと二日。

 明後日の――太陽がその力を失うとき、自分は原初の火に贄として捧げられる。

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