第1話
少女は贄だった。
贄であり、巫女であり、獲物であった。
少年は鬼だった。
鬼であり、化物であり、捕食者であった。
そして少女は、少年に組み伏せられ、今まさに喰われようとしていた。
少女は眼の前の光景なんの感慨もなく見ていた。
喰われることに対してとくに恐怖を感じることもない。だって自分は贄なのだから。ここで喰われなくてもいずれは炎に喰われることを宿命づけられて生まれた身。なぜ怖がる必要があろう。
その思考の合間にも、鬼である少年は、少女の衣服に長く鋭い爪を引っ掛け、ゆっくりと引き裂いた。それは獣が獲物の毛皮を剥ぐ行為に酷似していた。
少女の薄い裸身が空気に晒された。
だが、それを見て鬼の動きがとまった。それはどこか戸惑うように少女の肌を見ている。正確には、その肌に刻まれた聖痕を見ていたのだ。
少女の処女雪のように白い肌を、痣のような紋様が刻まれていた。それは本能的に恐れを抱かせるような炎の聖痕。薄い裸身の上を火のように揺らめき蠢いていた。
それに、鬼は恐れをなすように息を呑んだ。
少女はそれを見て、薄くわらった。
「どうした? わらを喰らうのではなかったのか?」
鬼は低く唸った。
「おまえはなんだ?」
少女は驚いた。
鬼に喋れるほどの知性があると思わなかったからだ。
よく見ると、鬼はまだ年端もいかない少年のようだった。
容姿も想像していたよりもずっと人間に近い。長い白髪の間から伸びる捻じれた双角と、まるで真夜中に輝く満月のような金色の瞳。それに薄い唇から伸びる鋭い牙と、猛獣でも引き裂くことのできそうな長い爪。腰蓑だけを身につけた身体は細いが鋼を束ねたような力強さに満ちていた。
そしてなによりその生命力。どんなことがあっても生きようとする眩しいほどの意志が全身から溢れていた。
なにから何まで自分とは正反対な存在。それを愉快に、それ以上に嫉ましく思いながら少女は先ほどの問いに答えてやることにした。
「わらか? わらは、――贄だ」
「ニ、エ……?」
まるでわからない、というように鬼が鋭い眼を細めた。
「おまえはなぜ、生きようとしない。死が怖くないのか?」
少女は、その問いに再び笑みをもらした。
「わらは生きていない。生きていない者が死を恐れはしないだろう」
そう言って、少女は鬼の腹に手を押しあてた。
「だが、今お主に喰われるわけにもいかん。わらには先約が入っているのでな」
その言葉と同時に腕に走る聖痕が熱く疼いた。そしてそれは炎となって手のひらから迸った。
「がっ……ァああああああああああ――っ!」
それに鬼が苦悶の叫びをあげた。腹から焦げ臭い煙をあげながら少女の上から転がり落ちる。
その咆哮に周囲がざわめいた。人の気配が複数こちらに向かってくる。
「姫さま――っ!」
「なんてことだ、鬼だァっ! 鬼がおるぞォ……ッ!」
「者ども、討ちとれッ。姫さまをお守りしろッ!」
これまで少女に同行していた一族の者たちが続々と出てきた。みな鬼への嫌悪感と敵意を剥きだしにして、一重、二重と二人の周囲に集まってくる。ざっと見積もって二十人はいるだろう。
巫女――大切な贄を護るために。
少女はそのことに嘆息しながら起きあがり、鬼を見おろした。
鬼は唸りながら、炭化した腹を押さえ周囲に牙を剥きだしていた。
「ふん」
そのことに少女は呆れたように息をもらした。
「さっさと諦めればいいものを……」
鬼は炎の一撃に大火傷を負わされ、周囲をこれだけの戦士に囲まれても、いまだ生きる意志を失っていなかった。どこかに隙はないかと鋭い眼つきで周囲を見渡していた。
「者どもかかれ――ッ!」
周囲の者の中でも一際年をとった老爺が命じた。
その命に従い戦士たちが鬼へと群がっていく。
「グルゥァアアアアアアアアアアアアア――ッッ!」
鬼が吼えた。
剣や槍に対してその鋭利な爪と牙で反撃をしていく。だが、圧倒的に不利だ。重傷のうえに、多勢に無勢である。
鬼はどんどん傷を増やし、血に塗れていく。ついには槍に足を貫かれ、行動を封じられてた。腕を斬られ自慢の爪も振るえなくなった。
それでも、鬼は生きることを諦めてはいなかった。
「ォオオオオオオオオオオオオオオッッ!!」
精一杯に威嚇の叫びを上げ、敵を遠ざけようとしている。
その姿に少女の胸が震えた。
どうして。どうして逆らうのだ。もう死は目前にあるのに。どう足掻いても、死は避けられないのに……ッ。
足掻きつづける鬼の姿が無性に癇にさわり、少女は腕に力を込めた。それは聖痕に熱となり広がる。周囲の空気が陽炎となり揺れた。
「くらえぇぇっ!」
少女が指を鬼に突きつけると、聖痕から炎が生じ螺旋を描きながら襲いかかった。
それは鬼に到達した瞬間に弾け、縦横無尽に鬼の身体を走った。
「ァアアアア……ッ。グルゥアアアアアアアアアアアア――ッッ」
炎は瞬時に火柱へと姿を変え、その暴虐さを持って鬼を蹂躙していった。
それでも、鬼は諦めなかった。肌を焼かれながらも周囲の囲いを抜けようと、一歩、二歩と足を進め、そこでやっと力つきて倒れた。
炎が消えると、そこに戦士たちが集まった。
「……ゥ……ア……っ」
鬼が呻き声をもらした。
戦士の一人が声をあげる。
「……信じられない……、生きてるぞ!」
生きていると聞いて、少女は眼をみひらいた。
そして、自分がやった所業を見やる。
これだけの重傷を負ってなお、生きようと足掻いている姿を。
絶望を目前にして鬼の瞳に宿る光は生を諦めていなかった。
少女は胸をうたれたような気がした。
部族の長老である老爺が声を張りあげた。
「とどめを刺せ!」
「待て……っ! 殺してはならぬ」
それに少女は口を挟んだ。
「は?」
「ここは神聖なる炎の儀式を行う霊山じゃ。鬼如きの血で聖域を汚すことは許されぬ。捕縛し、遺跡の奥にでも閉じ込めておけ!」
少女はそう命じて踵を返した。
まるで、自分がしてしまったことから逃れるように。
周囲の者はどこか困惑ぎみに、それを見送ったが、結局は姫巫女の言うとおりに鬼を牢に閉じ込め鎖でつないだ。
少女の部族にとって、巫女の命は絶対であり、たとえどのような不可解な命であっても彼らは従うことしか知らなかった。
こうして鬼は捕縛され、生き長らえることができた。
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