第5話 不信
アラーム音で目覚めた後、自宅ではない部屋の様子に違和感を覚えた。思わず、周囲を見回し、いつも隣で寝てるはずの娘の姿を探してしまう。
「・・・あ、そうだった。」
出張していてホテルに滞在していたことを思いだした。
昨夜の事が瞬時に思いだされ、金髪の少年の事が頭に浮かんだ。
不思議な子だった。
ちょっと強引なのに、引き際は素っ気ない。そんな少年だ。
でも、もう会う事も無いだろう。
そして、目覚めてすぐに思いだす異性として適当ではないと気付く。夫の尚寿ではなく、昨日の少年だったことに、軽い罪悪感を覚えたけれど。
アラームを消したスマホを操作するが、相変わらず夫からの着信はない。ラインもメールも届いていない。
すれ違い夫婦などと言うレベルを超える、冷えた関係ではないか。
直接言葉を交わしたのは、いつの事だったか。
一週間前には、直接顔を会わせた。今回の出張について伝えたのだ。
すると尚寿は俄かに表情を曇らせ、神経質そうな細い唇を歪めた。
『は?たかがパートが出張?ありえない。なんで家とか平気で空けられるの?』
『どうしても手が足りないからって拝み倒されちゃって。三日だけ、行ってくるから。出張手当も出してくれるって言うし。』
実莉は食い下がる。上司に頭を下げられたのだ、引き下がるわけにいかなかった。
『董子はどうすんだよ。董子は毎日治療が必要なんだぞ、わかってるだろ。』
『お母さんにお願いするけど、尚寿さんだって一日くらいお休みをとって董子のお世話してくれてもいいでしょ?結婚してからずっと私が世話してきたのよ。董子だってパパと過ごしたいって思ってるわ。』
『俺が忙しいのはわかってたことだろ。二人で董子を育てるって決めたじゃないか。協力してくれるって約束だった。』
『協力はしてるじゃない。二人で育てるんでしょ。この頃の尚寿さん私に任せっきりじゃない。二人じゃなくてワンオペよ。董子可哀想だわ。』
『うるさいな。董子のためにも俺は稼いでるんだ。扶養を出ない程度にしか収入がないお前が指図するな。』
『おかしいじゃない。結婚する前はこんなに忙しくなかったでしょ?それでも十分にやって行けてたわけでしょ?どうして?』
『俺の仕事に口を挟むなんて生意気。』
週末だって、ろくろく家にいない。名目は仕事だが、こんなに休みなく仕事があるわけがなかった。
夫が家にいない原因には、心当たりがある。
以前、実莉がパートを終えて家に帰宅後、董子の腹膜透析を終えて一息ついていた時に、電話がかかってきたことが有ったのだ。
その日はたまたま実母が来てくれていた。多忙な尚寿が余りに家にいないことを心配し、時々様子を見に来てくれていたのだ。元看護師である母親が来てくれることは、医療に置いて素人である実莉にとってありがたい事だった。
寝付いた董子を起こさぬよう、素早く電話をとった。
”もしもし”
小声で出ると、相手も妙にくぐもった声だった。
”・・・尚寿さんは”
夫の名を出した相手の声は、聞き取りにくいが、女性だという事がわかる。
”は?主人が何か?どちら様ですか”
聞き返すと、電話は切られてしまった。
家の電話なので、相手の番号が非通知であることにも頓着せず電話に出てしまった。不審に思いつつも、母にそれを告げると。
「お母さんも、この間ここで留守番してるときに、変な電話を取った気がするわ。人の家の電話を取るのは気が引けたんだけど、董子を起こすのは可哀想でね、つい出ちゃったのよ。なんか、奥様ですか、とかなんとか言われて、違うって言ったら切れちゃった。セールスかなんかかなと思って、今の今まで忘れてたわ。」
などと言うではないか。
その時、なんだか怖くなったのを覚えている。
異様な電話があったことを夫の尚寿に話すと、途端に逆上したかのように怒り出した。
『ただの悪戯だ。気にするな。』
少々神経質で気難しいところのある夫だったが、あんなにも急に怒り出したのはあれが初めてであった。
あの時から、実莉は夫の事を信用できなくなっていた。
結婚してから一年も経つと、尚寿はだんだんと忙しいと言って家に寄り付かなくなった。
まるで、実莉と結婚したのは、董子の面倒を見させるためだけだったと、そう言われているようで。
勿論、董子の世話をするのが嫌なわけではない。結婚した以上、彼女は実の娘同然だし、そのつもりで一緒になって暮らしている。
だからと言って、父親である尚寿が娘の世話をしなくていいという事にはならない。実莉のお陰で董子の世話が少しでも楽になったのなら、その分、董子にも実莉にも愛情を注いで然るべきだ、と考えるのはおかしいだろうか。
夫への不信を拭えないまま、実莉はベッドから起き上がり洗面所へ行く。
時計を見れば、8時を回る所だった。董子もそろそろ起きるだろう。電話してやれば声が聞けるかもしれない。
洗面所で見る鏡に映った自分は、疲れ切った顔をしていた。
短大いた頃は、保育士になる夢を抱いていた。疲れていても、希望に燃えていたから辛くなかった。短期大学は在学年数が短いから学科が詰まっているし実習もあって大変だったけれど、楽しかったのだ。
そうだ。昨日の少年は、あの頃の自分と同じくらいの年だった。
あの頃とは随分と遠い所へ来てしまった自分と、彼とは随分な差がある。
だからあんなにも気になってしまったのかもしれない。
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