今日もぼくらは敬語とメガネ。

三好ハルユキ

第1話




 「せんぱーい、カンキリ知りませんかー?」

 開口一番。

 寝室からリビングに出るなりそんなことを訊かれた。

 声の主は台所に屈みこんで、流しの下の戸棚に頭を半分突っ込んでいる。むしろ探しにくくないのかなそれ、とは思うけど、黙っておく。彼女のやり方に口出しするのはいつだって得策ではないのだ。なにせ言うことを聞かないから。

 コップに注いだ水道水を飲みながら、しばし元気に上下する尻を眺めていた。スウェットの生地が貼り付いて、形の良さがよく見て取れる。

 うーん、色気が、あるんだかないんだか。

 ああ、ないと言えば、そう。

 「うちに缶切りなんてあったっけ」

 「ほへっ」

 ぼくの返事を聞いて、彼女はこっちを向いた。大きな目が一際大きく見開く。

 ついでに出た間抜けな声も含めて、相変わらず可愛いなぁ、とか思うんだろうか、こういう時に、普通のカップルは。

 「あ、おはようございます」

 「うん、おはよう」

 だけどぼくらは普通のカップルではないらしいので、ときめかない。

 「ほっぺたに痕ついてますよ、せんぱい」

 「パンツくらい穿きなよ、志麻」

 じゃあただの同居人なんじゃないかと、思わないこともなくもないけど。

 それを否定するだけの何かが、彼女の中にあるのだろうか。

 ぼくの中には、あるかな。

 「えぇ、なんで家の中でまで穿かなきゃいけないんですか、ぱんつ」

 「……」

 どう、かなぁ。




 真夏日、なんて言葉があるものの。

 真夏だろうが真冬だろうが、太陽光は人間の味方じゃないと思う。

 まあ、今、春だけど。

 眼鏡のレンズを貫いて両目に突き刺さるような空の光が頭痛と眩暈を誘う。

 日光の熱はそれほどでもないはずなのに、額はやけに熱を帯びて意識を散漫にさせていく。ような気がして。

 「缶くらいハサミでも開けられるんじゃないかな」

 家から三歩出たところで、弱音混じりにぼやく。

 「ふっふっふ、せんぱい」

 振り返った志麻は、なぜか得意げに腕を組んでみせた。

 「缶切りは、缶詰を開けるためにあるんですよ」

 「……」

 ふふーん、と鼻を鳴らして、志麻はアパートの階段をカンカンとリズムよく降りていく。

 「何を論破されたんだ、今、ぼくは……」

 後ろに縛った長い髪の毛を元気に揺らす彼女に、ぼくの声は届かない。

 ぼくの一歩は彼女の三歩、から二歩半。距離が伸びれば伸びるほど、その差は増えていく。

 同じ店で働いていた頃から思ってたけど、彼女は体力オバケだ。ぼくはぼくで今となっては滅多に家から出ないモヤシ野郎だから、二人の体力には天と地ほどの差がある。だがしかしながら地面からであっても望遠鏡なり人工衛星なりで天体の様子くらい確認出来る時代なのだから、考えようによっては天と地の差なんて昔のそれほど大したものではないのだ。

 「いやもう、だからどうしたってんだ」

 「誰にキレてるんですか、せんぱい」

 「強いて言うなら自分自身」

 近所の踏み切りを越えて少し行ったところの公園で、花壇の縁に腰を下ろす。

 家を出てから、まだ五分と経っていない。

 「あたまいたいし吐きそう」

 「もー、今日で何徹目なんですか」

 「さっき仮眠取ったから実質ゼロかな」

 「机の上で気絶することを仮眠とは呼ばないんですよ、普通」

 「うわぁ、志麻に普通を説かれる日が来るとは」

 「青白い顔で喧嘩売らないでください、買いますよ私は」

 志麻はシュッシュッ、と口で鳴らしながらシャドーボクシングしてみせる。顔面に迫ってくる拳からは口で言うまでもなく風を切る音がしていた。っていうかちょっと眼鏡かすった。こわい。

 「今のせんぱいならワンパンで倒せそうな気がします」

 「倒れるどころか死ぬ自信がある」

 実際、仕事が立て込んでいたせいで二本足で歩くことさえ久し振りな気がする。志麻のおかげで食事だけはまともなものをとっていたけど、運動と睡眠は最低限のラインを大幅に下回っていた自覚があった。

 これでも健康診断で引っ掛かったことは一度もないのだから、健康って分からない。

 「もーしもーしかーめよーかーめさーんよー」

 「そっちが立ち止まったら絶対に勝てないじゃないか……」

 志麻はそれほど心配そうにするわけでもなく、かといってぼくを置いていくわけでもなく、花壇の花を指で揺らしたりして遊んでいる。

 「せんぱい」

 「なに」

 「彼女からのチューと自販機の飲み物だったら、どっちの方が元気になります?」

 「どっちも勿体無いからそこの水飲み場の水でいいかな」

 「ちゅー」

 「ぎゃー」

 無理やりキスされた。いきなり力任せに顔を固定されたのでつい、口の端から妙な悲鳴が漏れてしまう。

 付き合い始めてから何度目かのキスは、歯磨き粉のフレーバーがした。

 何秒か数えるのも億劫なくらい唇同士をくっつけて、鼻息のくすぐったさから逃げるようにすっと離れる。

 「これで元気百倍せんぱいマンですね」

 「ほっぺた真っ赤なのはそっちの方なんだけど」

 耳まで真っ赤な志麻は「うねうねー」と口に出しながら体をうねうねさせる。動きが妙に滑らかで気持ち悪い。

 そしてよくもキス一つでそこまで照れるものだと、関心する。いや、ぼくがすれているとかではなく。キスどころではないこともしている仲だし、なんならさっき着替えてる最中に全裸を見られても平然としていたのに。

 「せんぱいももうちょい顔の血行よくしていいんですよ」

 「君の先輩はそこまで器用じゃないぞ、っと」

 勢いをつけて重たい腰を持ち上げる。

 元気になったかどうかは分からないが、目は覚めた。

 「せんぱいの唇は水の味がしますね」

 「それはもう無味だと思う」

 「これからは水を飲むたびにせんぱいのことを思い出しますから」

 「生活に支障が出るからやめなさい」

 「せんぱいはどんなときに私のこと思い出しますか?」

 「さぁ。忘れたことなんか一度もないし」

 一つ屋根の下に居る人間のことをどう忘れろと仰るんだ。

 遠距離恋愛の経験が無いから優劣の話は出来ないけど、物理的な距離が近い分だけ一人と一人との関係が持つ力は大きくなる。特に家族や同居人ともなれば、生活するってこと自体が相手のことを考える時間に繋がるから。

 だからきっと今は離れた家族より近くに居る彼女の方が、ぼくの人生を強く大きく動かせるんだと思う。

 今だってそうだ。たまには実家に帰ってこいという地元の兄妹からの再三の連絡にぼくを動かす力は微塵もないが、目の前の彼女の言葉一つがあれば寝不足の身体を引き摺ってでもこうして近所のスーパーに缶切りを買いに出かけてしまう。

 手間と情状をいっしょくたにするような人間限定の考え方かも、知れないけど。

 「せんぱいのひきょうもの」

 「いづぁ」

 まったりと歩き始めた途端に後ろから肩を殴られた。

 「え、なに」

 「この卑怯者。彼氏。いきなりだんご。すっとこよっこいしょ」

 罵倒なのかどうかも怪しいが、志麻は言葉の区切りの度にべっしべっしと肩を平手でド突いてくる。やめろ。折れる。割と本当に骨に響く。

 見れば、志麻の顔はさっきよりも更に桜色が増していた。辛いモノでも拾い食いしたんだろうか。水飲み場なら、まだすぐそこにあるのに。

 「次はスーパーのど真ん中でチューしてやりますからね」

 「他のお客様のご迷惑になるからご遠慮してくれ」

 「カップルのスキンシップは赤子が泣くのと同じ話なのでセーフと見なします」

 「見なすな」

 うらみがましそうな顔のまま、志麻が絡みつくように腕に抱き着いてくる。張り手をやめてくれたのはいいけど代わりに右腕が痺れそうなほど締め上げられ、歩くスピードの差のせいでぐんぐん前に引っ張られて、感触を楽しむ余裕もない。

 「っていうかカップルなのか、ぼくらって」

 歩幅も歩調もまるで合わせる気のない横顔に問いかける。

 「眼鏡してるときのせんぱい、あんまりタイプじゃないですけどね」

 「ぼくももう少し控えめな子の方が好みかも知れない」

 「あっはっはっはっは」

 「いだだだ痛い痛い腕いたい腕が痛い」

 的確に肘を逆方向に曲げようとするな。

 「もー、ほんと、ときめかねーんですけどね」

 ぼくの腕を抱いたまま、志麻は呆れたように、ミント味の唇を尖らせてぼやく。

 スーパーに着くまで、彼女がこっちを見ることはなかった。

 ただ。

 「いいじゃないですか。恋じゃなくても、愛があれば」

 躍起になって正面を向くその顔は、耳まで真っ赤で。

 なるほど。

 確かに、愛おしいのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

今日もぼくらは敬語とメガネ。 三好ハルユキ @iamyoshi913

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る