漫ろ雨と隙間風


 あの後、気を利かせたイリヤが私を医療室から連れ出してくれた。


「……ねえ、イリヤ」

「はい、なんでしょうか」


 部屋に戻るまでの廊下は、静かだった。ただただ、車椅子の軋む音が響くだけ。

 いつもはもっと、使用人の声やお父様お母様のお仕事を嫌がる声、それに、開け放たれた窓から鳥の囀りも聞こえるのに。

 今は、何一つ聞こえない。後ろにいるイリヤの足音さえも。


 私は何者なの?

 自分がわからないのが、こんなに怖いなんて知らなかった。怖いなんてものじゃないわ。どこか暗くて途方もない場所にでも閉じ込められたような気分だわ。そう、例えば、ベルと会話をするあの空間に1人で居るような、そんな気分。


「イリヤは、アレンがグロスター家で働いていた理由を知ってる? 私、侯爵家を継ぐための修行か何かかと思ったのだけれど」

「……それは」

「知っているなら、正直に答えて」


 私は、そんな気分を払拭させるため、イリヤと会話を続ける。

 なんでも良いから、話していたかったの。別に、こんな会話じゃなくても良いのだけれど。夕飯は何? とか、お庭のクロッカスは元気? とかそんなんでも良かった。

 でも、なぜかその話題をチョイスしてしまったの。


 私は、本当に馬鹿ね。

 自分でも嫌になる。どうして、お庭の話にしなかったのでしょう。そうよ、シエラ卿の具合を聞くべきだったわ。これから彼はどうなるのかとか。


「……アレンは、皇帝陛下に伝令をもらい調査しておりました」

「調査……?」

「はい。仕事をロクにせず、領民を虐げているという噂を確かめるために潜入捜査をしていたのです」


 潜入捜査……。


 その言葉以降、ぽっかりと記憶が抜け落ちたように何も覚えていない。

 気づいたら、部屋に戻っていたの。


 やっぱり、アレンは私たちを見張っていたのね。思えば、陛下の訪問があった直後に彼が来たもの。どうして気づかなかったのかしら?

 私ったら、必要以上に頼ってしまった記憶しかない。きっと、アレンはそれが鬱陶しかったと思うわ。だから、先ほどのあの表情を見せてきたのね。

 これで、色々繋がった。……繋がったわ。


 先ほどまで静かだったのに、今度は私の啜り泣きがとてもよく響く。それに、イリヤの「ごめんなさい」という声も。

 イリヤは悪くない。私が「正直に答えて」と言ったのに従っただけですものね。悪いのは私よ。アリスだって嘘をついているかもしれない、私が悪い。


 なのに、彼女はどこまでも優しいの。


「私、怖い。先ほどはアリスじゃなかったらどうしようって思ったけど、今はアリスだったらどうしようって思ってるの……。アリスはどうして嫌われているの? どうしてみんな嫌うの? 私は、誰に謝れば良い?」

「お嬢様は、誰にも謝らなくて良いのですよ。イリヤは、お嬢様が真っ直ぐで他人に対して一生懸命なところを知っていますから。誰よりも近くで見ていますから」


 視線を同じにしながらそう言って、イリヤは頭を撫でてくれる。

 心地良い。瞼が落ちそうなほど、視線も温かい手も心地良いわ。それはまるで、窓から差し込んでくる太陽の光のよう。


 私は、こんな子どもみたいな人だったのかしら。ずっと泣いてるだけで、嫌になるわ。こんなんじゃ、イリヤにも嫌われちゃうじゃないの。

 どうしてイリヤは、そんな私の言葉を聞いてくれるの? わからない。


「……イリヤは、私の話が嘘だって思わないの?」

「全くもって思っておりません。貴女様は、嘘がつけるほど器用なお方ではありませんよ」

「そんなのわからないじゃないの」

「わかります。演技か素かどうかなんて、ぱっと見でわかりますよ」

「でも……」

「お嬢様。イリヤは、お嬢様の剣であり盾でもあります。ベルお嬢様でないと打ち明けてくださったあの日、そう決めたのです。だから、悲しい言葉でイリヤを遠ざけないでください」


 その言葉で、初めて自分から彼女を遠ざけていることに気づいた。1人を怖がっているくせに、私はイリヤとの間に壁を作ろうとしていたのね。

 違うわ。そんなことは、望んでいない。


 私が望んでいるのは、1つ。


「イリヤは、私を嫌わない?」

「はい。お嬢様は、フォンテーヌ家をお仕事で支えてくださっております。僕の話を聞いても嫌な顔ひとつせず受け入れ、シエラのこともお救いくださいました。旦那様や奥様、アインスもザンギフも、アランにフォーリー、バーバリー、他の使用人も全員、お嬢様の味方ですよ。みんな、お嬢様の頑張りを知っています。それじゃ、足りないですか?」

「……多すぎるわ。私には、もったいないくらい」


 私が望んでいるのは、その温かさなのかもしれない。

 建前じゃない、本当の温かさ。


「……アレンのことは、もう少し落ち着いたらお話しますね。付随するものが多すぎますから」

「……?」

「なんでもないです。今はゆっくり眠って、起きたらお夕飯を召し上がりましょう」

「ええ……」


 イリヤは、私が泣き疲れるまでそばに居てくれた。

 それに、車椅子の上でそのまま眠ってしまった私を、ベッドまで運んでくれたみたい。いつの間にか、雲のようなふかふかのお布団に包まれていたのよ。




***



 顔色を真っ青にしたベル嬢は、イリヤに連れられて退出してしまった。

 あんな顔色、初めて見たぞ。あれは、人間がして良い色じゃなかった。大丈夫なのだろうか。


 2人が出て行ってから20分。

 その間、俺はシエラの状態や今後の治療についての話をアインスに聞いていた。それに、ベル嬢のことも。


「ベル嬢は、元々身体が弱いのですか?」

「いいえ、1年前まではとても健やかなお方でした」

「……それが、毒で」

「ああ、そうでした。あれからまた状況が変わりまして、もしよろしければお調べしていただきたいことがあるのですが……」

「なんでもします。シエラを助けてくださったのですから、それくらいはさせてください。……えっと」

「ここでは、アインスとお呼びください。私は、5年前に冤罪で爵位剥奪されているので、昔の名前を使いたくないのです」

「わかりました、アインス」


 当のシエラは、喋り疲れたのかいつの間にか眠っていた。だから、ここで喋れるのは俺とアインスだけ。

 アインスは、爵位を剥奪されているのだな。5年前か。……何があったのか、聞くタイミングを逃したな。まあ、陛下は元気かどうかを心配なさっていたから、元気だったと報告すれば良いか。そうそう、元老院に知られていることも。


 先程のアインスの話によれば、シエラの奴は俺らと逸れてからの記憶がないらしい。だからイリヤが、俺だけをここに連れてきたんだと。

 奴を家に返さないのも、拷問した相手に死んだと見せかけた方が良いとイリヤが判断したとか。肋が肺に刺さるのは建前か。

 確かに、ここまで執拗に身体をいたぶった犯人なら、シエラが生きていたとわかれば今度こそ命を狙ってくるだろう。俺も、その考えに賛成だ。


 こいつは、何を見たのだろう。それとも、元々何か情報を持っていたのか? 何か知られたらまずいような、情報を。


「では、お言葉に甘えまして。……ダービー伯爵に関して、何か黒い噂がないかをお調べいただきたいのです」

「ダービー……」

「ベルお嬢様の婚約者の父親です。婚約者のサルバトーレ様から聞いたところ、ベルお嬢様の飲んだ毒はダービー伯爵からいただいたものと判明しました。サルバトーレ様は、中身がなんなのかいまだにわかっておりません。もし、気づいてしまったら彼も危ないと思い、内緒にしています」

「……なるほど。それは、サルバトーレ・ダービーからの情報でしょうか」

「ええ。最近、打ち解けられるような出来事がございまして。なんの気無しに聞いてみたら、父親から渡されたものだと」

「……そうか、ベル嬢には婚約者が」


 あ、違う。

 そんなことを口にしたかったわけではない。待ってくれ、時間を戻してくれ。誰か、お願いだ。


 腕を組みながら無意識にそう呟くと、アインスが拍子抜けしたような顔して俺を見てきた。

 違うんだ。サルバトーレ・ダービーにも命の危険があるということを確認したかったんだ。決して、ベル嬢の婚約者がどうこうと言いたかったわけではない。断じて違う。


「貴殿は、ベルお嬢様を好いていらっしゃる」

「……申し訳「悪いことではございませんぞ」」

「えっと、正直何に引かれているかはわからないのです。なぜか、ベル嬢がいらっしゃると目で追ってしまいたくなって。危なっかしいと言いますか、なんと言いますか……」

「左様ですか。ほほう、そうですか。それはそれは」

「……忘れてください」

 

 アインスは、今までに見せたことがないようなニマニマとした表情になって俺を見てくる。なんだ、その「孫を見ました」的な顔は。恥ずかしすぎるから、やめてくれ。俺が悪かった。


 しかも、そのタイミングでイリヤが戻ってきた。

 1人だ。ベル嬢は居ない。


「あれ、シエラ寝てる」

「さっき寝たよ。ベルお嬢様はどうだ?」

「こっちも寝たよ。寝かしつけてから来たから、遅くなっちゃった。どこまで話したの?」

「は!? 寝かしつけ……!?」


 ちょっと待て! お前、侍女の格好してるが男だぞ!?

 ベル嬢を寝かしつけた? 何をしたんだ?


 俺が少々声を張り上げるも、イリヤはもちろんアインスも「それが何か?」みたいな顔してこっちを見てやがる。ってことは、もしかしてこれが日常なのか? だとしたら、ベル嬢は警戒心というものがないぞ……。それは、ダメだ。俺が許さん。

 ……いや、俺が許さなくたってどうってことない。わかってるさ。


「何? アレンがやる?」

「ばっ……そんな問題じゃない!」

「ほら、シエラ起きるって。どこまで話したの?」

「……シエラの記憶喪失と、今後どうするのかって話を少しな」

「そっかそっか。じゃあ、シエラをこの屋敷で雇う話もしたんだね」

「は!?」


 聞いてない。


 確かに、シエラは騎士団を除名されて職を失った。それに、生きているのがバレないようにするには、ここに居た方が良いのはわかる。いやでも、だからってそれは……。


「アインス、話してないの?」

「話してなかったな。ダービー伯爵の情報収集を頼んだところで」

「あー、そっちね。アレン、よろしく」

「ああ……。それは良いが、シエラはここで何をするんだ?」

「お嬢様の秘書だよ。今後、仕事が増えるからスケジュール管理する人が必要になる」

「……そ、え?」


 やっぱり、許さん!

 それはダメだ、シエラにはまだ早すぎる!


 俺は、自分でもよくわからない怒りでイリヤを睨みつける。が、まあわかっていたが、本人はそんな睨みをなんとも思っていないかのように「あ、枝毛。やだなあ」なんて髪の毛を触ってるじゃないか。

 アインスに至っては、「川に入った後、ちゃんと乾かさなかったんだろう」なんて言っている。俺を置いていくな。

 そして、情報収集ならイリヤの方が絶対早いじゃないか。なぜ、俺に頼むんだ?


 俺は、よくわからないことづくしのこの状況についていけず、立ち尽くすしかない。

 

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