廃屋
陽光が煌めく廊下を、スリッパでぺたぺたと歩く。
「おはよー。お母さん」
「なにが早いんだ。もう昼だぞ」
目をこすりながらリビングを覗くと、母からの嫌味な挨拶。
コーヒーを口に運びながら、広げた新聞を読む姿はとても絵になる。ニューヨーク在住のキャリアウーマンと言っても過言ではない。
いつも規則正しくピシッとしてるだけに、私のようにだらけたお寝坊さんは気に入らないのだろう。いや、母だってだらだらしてる時もあるけどね。主に父とイチャイチャしてる時とか。朝、学校行く時とかにされるとめちゃくちゃテンションが下がるんだよなぁ。
と、どうでもいいことを胸中で愚痴って気付く。
「……お父さんは?」
きょろきょろと見回しながら訊ねる。
てっきり、ふたりで仲良く一緒にいると思ったのに。
予想外の展開に首を傾げると母が不機嫌そうに唇を尖らせる。
「客がくるんでな。買い物に行った」
あ、そういうこと。
よほどのことがないかぎり、父は来たお客様にご飯を作ってもてなそうとする。料理好きというより、最大限の歓迎をしたいタイプなんだと思う。食事の腕自体も悪くない。幼い頃より、父から手ほどきを受けた身としては、ちゃんと継承された方だと思う(母の娘にしては)。お客様の中には、父の手料理目当てで来る人もいる。なので、この家には結構人の出入りが激しい。
軽い好奇心で訊ねる。
「へー、今日は誰?」
「嶺也だ」
気乗りしない母の答えに、私は身を乗り出した。
「えッ、嶺ちゃんがくるの!?」
訊き返す声が弾む。
出てきた名前は、両親の友人なのだけれど。
「え~、やだ! 服、なに着よう!? 髪も直さなきゃ! お母さん、嶺ちゃんは何時に来るの!?」
慌てて、鏡と時計を見比べる。
着てるのはルームウェアだし、髪の毛は寝ぐせでボサボサ。こんな姿、嶺ちゃんに見られたくない!
と思うのも、その相手が特別な人だから。
本名は、
私にとって彼は、おじさんというより歳の離れた兄のよう。いつでも助けてくれた唯一の味方と言ってもいい。ラブラブな両親の下に産まれると、たまに寂しくなる。ふたりが娘の存在を忘れたように感じるのだ。そんな幼少期の複雑な心境を一番先に見つけてくれたのは嶺ちゃんだった。『あれ、いい加減にしてほしいよな』と笑って、私の遊び相手になってくれて。物心ついた時から、嶺ちゃんにべったりだった。いや、首ったけ?
いつも自信たっぷりで迷いがなくて、野性味のある笑顔が格好いい。
いつも朗らかで優しい父親とは違う雰囲気に、魅了されたのは言うまでもない。嶺ちゃん以上にカッコいいと思える男の子なんて、クラスの中にはいなかった。
もちろん、初めての淡い恋は気付くと同時に弾けちゃったけれど。今も顔を見るだけでドキドキする。会えると知っただけで、胸が高鳴る。
そんな乙女心を察してくれると期待したのに。いまだに父に恋する母のくせに、浮かべる表情はやや呆れ顔だ。
「おまえ……今さらだが、あんなヤツのどこがいいんだ?」
「なッ」
「金もなければ力もない。出世の見込みもないくせに、口ばかり達者で、ひねくれ度も斜め上をいくし……いつも面倒がってる暇なヤツだぞ。一緒にいたら、苦労すること確実だ」
「そ、そんなこと言わないでよ。嶺ちゃん、すっごく素敵じゃない」
「いかんいかん。その前に、嶺也は私と同い年だ。既婚者だ。妻子持ちだ」
「わ、わかってるわよ。幼い日の他愛ない初恋ってヤツじゃない」
そこを攻められるとツライ。
実際に、彼の人格がどうとかの前に年齢差もあるし、美人で優しい奥さんもいるし。子供だっているし、そんな彼らも立派な高校生だ。
だから、私の初恋なんて気付いたと同時に失恋決定なわけで。
普通なら、のたうち回るであろう恥辱の思い出になったはず。そうならなかったのは、嶺ちゃんのおかげだ。彼は、いつも当たり前のように「俺も好きだぞ」と言って、真正面から受け止めてくれた。たったそれだけのことなのに、本来あったはずの悲しみや悔恨、未練さえも淡雪のように溶けてしまう。
報われることはなかったけれど、私の初恋は今も美しく輝いている(現在、進行形で)。
私の目に狂いはなかった。
母が何と言おうと、嶺ちゃんは特別な人なのだ。でも、対峙する相手はそんな私の心を見透かしたよう。神妙な面持ちではあるが、いまいち釈然としないといった口調で反論してくる。
「さて、どうだろう。さすがに我が娘が五歳児にして昼ドラ並みの修羅場を展開した時には、どうしようかと思ったぞ。おまえは『大きくなったら嶺ちゃんのお嫁さんになる』と言って聞かなくて、嶺也の細君と派手な口論を始めてな。双方、ともに引くに引けないからヒートアップするし、当の二股かけた本人は笑い転げるだけだし。どう収拾つけるか、いやー、悩んだ。悩んだ」
「もーッ、止めてよ! そんな本人が覚えてない話ッ!」
真っ赤になりながら、抗議する。
まずい。そんなの記憶にない。
嶺ちゃんの奥さんに悪いことをしちゃったな。遊びに行くと、いつも笑顔で迎えてくれたのに。
ついでに言うなら、母は面白がってるに違いない。
「そりゃあ、あのひともショックを受けていたぞ。産まれて間もない娘本人から、唐突に未来の結婚話をされたんだからな。その日の夜は、慰めるのが大変だった」
「はッ!?」
いきなり何のカミングアウト?
しみじみ語る母の言葉に、猛烈な好奇心をかき立てられる。
「あ、あの……それ、本当? お父さん、ビックリしたの?」
「そんなことはどうでもいい。おまえの男を見る目のことを言っている」
ぴしゃりと無理矢理、遮られた。
そんで、母のお説教が始まった。
「嶺也を好きになるあたり、とてつもなく不安だ。おまえの場合、異性に好感を抱いてもすぐについて行くなよ。簡単には靡かず、次々とハードルを用意して相手の本心を見極めろ」
「…………うん」
大学当初から父をゲットした母との恋愛経験は雲泥の差である。男の子を好きになったこともなければ、告白したりされたこともない。黙って拝聴するしかなかった。
「あのふたりの腐れ縁は今に始まったことではない。しばらく続くと覚悟してはいたんだが、よもやこんな関係性になろうとは。全く、予想外なことばかりしてくれる」
そんで、いきなり愚痴になった。
ぷりぷりと怒る母は、嶺ちゃんのことを快く思っていないみたいだ。家に来るってわかったから不機嫌になったんだろう。長い付き合いなのに、何か矛盾してる。
「ねぇ、お母さん。嶺也ちゃんとは、そもそもどっちがどういう経緯で知り合ったの?」
「んん?」
ぽつりと呟いた疑問に母が目を丸くする。
数秒間の沈黙の後、発言の意図を理解したらしく軽く手を振った。
「違う違う。私と嶺也は元から同じ学部でな。『ちょっとおまえに紹介したいヤツがいる~』と言って、唐突にあの人を紹介されて」
「えッ。それじゃあ、嶺ちゃんがキューピッド役ってこと?」
うわ。いきなり、両親の馴れ初めが再びですよ。しかも、それに私の初恋の人が関わってる?
う~ん。
なんて感慨深いんだろ。
と、ひとりで盛り上がっていると向かいの母は当時を思い出しながら呟く。
「そんないいものじゃなかったな。大抵が、青い顔したあの人の介抱を命じられることが多かったし」
「……と、言いますと?」
「嶺也は、霊能力者なのだ。除霊や事後処理で、あのひとの面倒を見られなくなると私に預けて来たんだ」
えッ。
聞いてないよ、そんな話。
その日の原因は、母というか複雑な事情だった。
それには私の父、
人ならざるもの。
異形なもの。
妖と呼ばれるもの。
そんな類の存在に、父は産まれた時から悩まされていた。四六時中、彼らのコンタクトに付き合わされ、周囲の人間は様々な反応をする。理解できないとか怖がるなら、まだいい。一番、始末に負えないのは好奇心に駆られる者たちだ。
自分たちの暇潰しに父を利用する。その日も、ある有名な心霊スポットに拉致同然で連れ出したらしい。
その当時、友人以上恋人未満だった母は連中の電話でことの詳細を知る。探検をしていた場所で父が行方不明になったという。母でなくたって、イラッとする状況だろう。嶺ちゃんは、いきなり過ぎる呼び出しにも応じてくれたものの、やっぱり機嫌がすこぶる悪かったようだ。
「……っていうか、お父さんを無理矢理に誘った同級生って最低じゃない」
「放っておけない状況に持ち込む辺りが特にな」
もちろん、人のよすぎる母ばかりも責められない。彼女だって、大した知り合いでもない同級生から呼び出され、親交のある先輩が行方不明だと告げられたのだ。しかも、その経緯がくだらなかった。心霊スポットに父のような霊感のある人間を連れていくとは、まともな神経ではない。案の定、探索をしていた最中に恐ろしい目に遭ったのだろう。無理矢理に連れてきた父をろくに探しもせず、母に事後処理を任せて帰ってしまったのだ。
途方に暮れた母が、こんな状況下で頼れるのは(不本意ながら)嶺ちゃんだけだったという。
「このド阿呆」
忘れもしない。
待ち合わせ場所に着くなり、開口一番のセリフがそれだった。
嶺ちゃんの挨拶は、大抵罵り言葉から始まる。だから、母でなくともおよその人間は面を食らうらしい。
嘘でしょ?
「聞こえなかったのか? この考えなしの赤毛魔女」
首を傾げ、たれ目ぎみの瞳を細める。長い前髪と眼鏡の縁で、鋭い印象は大分落ちてるはずだけど、飛び出す言葉は刺々しい。毎回、顔を合わせる度に母は何も言えなくなるという。
「嘘だぁぁぁぁ。嶺ちゃんは、そんなこと言わない……」
「当たり前だ。おまえみたいな子供相手にそんな暴言を吐くようなら、面会謝絶にしてやるわ。というか、玄関の敷居は跨がせん」
「でも、メガネ……」
「昔は、してたんだ。あのひとが言うには、ナンパ除けだったらしいが。自意識過剰とは思わんか?」
それは、お母さんの意見?
確かに、嶺ちゃんはモデルみたいに端正な顔立ちをしている。若い頃は、めちゃくちゃモテただろうな。普段から見惚れてしまう顔に眼鏡をかけさせてみる。
うん。悪くない。
素敵な脳内イメージが固まったせいで、うっかり口からささやかな願望がこぼれてしまう。
「ちょっと見ていみたかったかも」
「残念だったな。野暮ったい黒縁メガネだったぞ」
母はあくまで冷ややかだ。やっぱり見てみたいかも。軽いミーハー心が疼いたものの、ここではたと気付く。
「あ。もしかして、お母さんが前に言ってた知り合いの霊能者って……」
「そうだ。嶺也だ。いつだったか軽い世間話のついでに霊視をしてくれたことがあってな。あのひとがトラブルに巻き込まれて魔除けが欲しい時によく呼び出されたのだ」
以前に、母の鈍い霊感体質について原因があるのではと聞いた気がする。その時は深く考えていなかったけど。もしや、父との縁は別のもので繋がっているとか?
「……どういうことなの」
「私は霊的に不感症というより、マイナスな干渉を撥ねのける体質らしい。だから、よほどのことがないかぎり影響は受けないし、あのひとの体調も悪化しない」
自分の胸に手を当てて説明する母の表情は曇りぎみ。本人も半信半疑らしいけど、私は思わぬ方向性に感心するしかない。
「へえ。お母さんがねぇ……」
まじまじと見つめる。
てっきり我が両親は、母の一人相撲で築いた縁かと思いきや、いっそ腐れ縁なのかも。
かたや霊感体質、かたや霊的不干渉体質。
母は、災厄を退けるお札か?
霊的に特異な者同士、一緒にいることでようやく普通の生活が送れるのかもしれない。そう思うと、ますます複雑だ。特に母の幸せそうな笑顔を見る度に。
「今も鮮やかに思い出せるぞ。具合の悪い、あのひとの手を握って励ますと、はにかんでお礼を口にする表情を。今にして思えば、私が恋に落ちた瞬間はあの笑顔なのだろう」
父は、それでよかったのか。まさか、つり橋効果じゃなかろうな?
死にかけてる緊張感の中、一緒にいたから恋愛感情と錯覚したとかいう。
いやいや!
そんな恐ろしいこと考えてる場合じゃない!
問題は、父の居所だ!
「よりにもよって、ここかよ……」
唐突に呼び出された嶺ちゃんは、心底うんざりといった溜め息をついた。
彼らが佇む場所は、ある山中だった。懐中電灯で照らす景色には、崩れかけた廃屋や祠、井戸などが現れる。以前には小さな集落があったのだろう。草むらの中にひっそりと存在していた。
「何か、まずいのか」
「まずいどころか、俺に死ねって言ってんのか。おまえは」
母の問いにも、いちいち突っかかる。だから、彼女も少しばかり反抗したくなったようだ。
「おまえが犠牲になってあのひとが助かるなら、考慮に入れよう」
「他人を堂々と生贄にすんな。つか、楽観的な妄想に走んな。先輩と俺自身が心身ともに健康で生還できる確率が低いっつってんだよ」
父の安全を確保するため生贄になれと言われた嶺ちゃん。当然のごとく、辛辣な言葉を吐きながら腕時計を見る。
「ったく。呼び出すなら、もっと早く連絡しろよ。わざわざ向こうの絶頂コンディションに合わせるこたねーだろが」
今現在の時刻は日付が変わったばかりの零時。
肝試しをするには格好の時期だけど、今の母たちにとって(主に嶺ちゃん)は不利な時間帯らしい。それを聞いた私は目を瞬かせてしまう。
「そーなの?」
「日付が変わって丑三つ時までは、向こうの連中が絶好調なんだそうだ」
つまり、午前二時半くらいまでが、もっとも魔の強まる時刻。嶺ちゃんは手に数珠を握りしめ、しばらく黙考していたという。
「……かと言って、夜明けを待ってたら先輩の生命が危ない。状況は最悪だな」
歯ぎしりしながら、数珠をじゃらじゃら鳴らす。その仕草にある苛立ちを隠しもしない。
「えぇい、暇と労力を持て余したアホ大学生どもめ。肝試しすんなら他の場所でやれよ」
自分も大学生なのに、ちゃっかり棚にあげた発言。
まぁ、夜中に肝試しするほどの暇人もいないよね。ましてや、それでトラブルに発展したんだし。
満月とはいえ、深夜の山中で人捜しを甘く見ていた母だった。嶺ちゃんの深刻そうな表情で、ようやく事態を正確に把握することができた。
「そんなに危ないのか」
「危ないとかのレベルじゃねーよ。ここ、殺人現場」
さらりと告げられただけに、母の反応が遅れた。
「それも、ひとりやふたりじゃない……しかも、古いな。昭和初期あたりか? ちょっと頭のおかしい村人が他の連中を皆殺しにしたみたいだな」
ぶつぶつとぼやく嶺ちゃんの霊視は、かなり物騒だった。映画や小説にできそうな猟奇殺人っぽい空気を感じた母は、つい強がってしまう。
「そんな大事件があったなら、もっと有名になっていそうだけどな」
「あぁん?」
至極まっとうな意見にも、嶺ちゃんは片眉を器用につり上げただけ。
「いつの話してんだよ。この日本だって、過去にゃ人知れず絶えた村だってあるかもしれないぜ」
事態は、さらに怖いことになった。
実際にあった殺人事件より、本物かどうかもわからない心霊の方がよかったかもしれない。それもちゃんとした形で決着がついてるなら。
嶺ちゃんの口ぶりでは、その集落はきっと悲惨な最後だったと思う。
だから余計に父の救出を急がねば。嶺ちゃんは、懐中電灯と数珠だけを持って集落に入ろうとする。もちろん、その後を追いかける母だったが。
「おい。何で、おまえがついてくるんだよ」
しっしっと手を振って、犬みたいに追い払おうとする。
「ただでさえ、先輩の面倒を見なけりゃならんのだ。おまえなんぞに構ってる暇はない。とっとと帰れ」
いつになく過剰な拒絶反応を示す嶺ちゃん。
それだけ危険な状況だとは母も察していた。足手まといになる可能性も、状況が悪化する恐れもある。待っているという選択肢も浮かんだものの、
「何を言っている」
と、母はきっぱりと反論した。
ついでに、どうでもいい本音があふれ出て止まらない。
「想い人の窮地に駆けつけるのは千載一遇のチャンス……じゃなかった。至極、当然の流れだろう。このまま、おまえに任せては眠り姫の目覚めのごとく運命の相手が私ではなく、嶺也になるではないか。おっと違った。私の女が廃るではないか」
「いろいろとツッコミ要素はあるけどよ。まぁ、この際どうでもいいや」
嶺ちゃんの表情は半眼だったものの、深く追求したりしなかった。
彼の基本スタンスは、放置。うちの両親が目の前でイチャイチャしててもスルーする。そりゃもう見事に。ラブラブなバカップルを目の前にしても動じない、あの強靭なメンタリティはどこからくるのか。長年の謎である。
とはいえ目下の突っ込みどころは、当時の母に腐女子疑惑が浮上した点とだけ言っておこうか。
集落を探索するにあたり、母は廃屋の一軒一軒を覗いて歩くとばかり思っていた。
しかし、予想に反して嶺ちゃんは敷地内どころか集落の外側ぎりぎりをぐるりと一周する。時間が厳しいと愚痴っていながら、じっくりと手間暇かけてある一軒の建物に目星をつけた。その行き当たりばったりにも思える行動に母は眉をひそめる。
「嶺也。何で、ここなんだ?」
「当てずっぽうじゃねっつの。見ろ」
戸口前に立っていた嶺ちゃんは、母の頭を掴むなり背後へと視線を向けさせた。 すると、わずかな月明かりに浮かぶ家屋が見える。その木材の壁に浮かぶのは黒い人影。もちろん、母や嶺ちゃんではない。
「声を立てるなよ」
口を塞がれ、小声で命令される。
頷く余裕もなかった。それどころか、彼の言葉の意味すら理解する暇もなかったらしい。
薄い戸板に映る黒い影は、小柄でやや猫背の男性と思われる。ひたり、ひたりとゆっくりとした動作で歩いていた。手には鉈を思わせる大きな刃物の形が、はっきり見えたという。
何を思うよりも先に、嶺ちゃんの警告が落ちてくる。
「極力、音を立てるな。声も出すな。あいつは自分が死んだことさえ忘れてる」
見つかったら殺されるぞ。
耳元より、すぐ上で囁かれる言葉。母は必死に頷く。心臓が鷲掴みにされ、どくどくと脈打つ鼓動を感じながら。
「な、なんなの、それ……」
「だから、そいつが殺人犯の霊なんだろう」
さらりと返す母の返答が不思議で仕方ない。
こっちは口の中がカラカラになるほど緊張しているのに、彼女の態度は本当に現場にいたのか疑わしくなるほど平然としている。
普通、殺人犯の幽霊に遭遇したら、もっと慌てるものではなかろうか。あるいは、足が竦んで動けなくなるとか。
「そうか? 私は、実際に生きている殺人犯に遭遇する方が怖いぞ」
それも、ごもっともですが。
すでに亡くなられたはずの魂が彷徨ってるだけでも充分ですがな。
とにかく、父の身の安全が最優先。
集落に残っている魂の成仏よりも、行方不明者の捜索と安全確保を第一に取った。
なるべく音を立てずに、嶺ちゃんが見当をつけた家に入る。
中は当然、荒れ果てていた。食器や衣服、雑貨が散乱して、上に土埃が降り積もっている。木材の傷みも激しく、柱は歪んだり折れかけて、床板はところどころ抜けている場所もあった。
懐中電灯の明かり頼みなだけ、寂れた室内も恐怖を煽るのに充分だった。でも、嶺ちゃんは臆することなく、中へ進む。
「先輩。いるんでしょ。迎えに来ました」
小声で呼びかけても返事はない。
彼の言動に半信半疑の母は後をついて行きながら、周りを見渡した。
すると、今きたばかりの戸口の側。通り過ぎた玄関の影に黒い塊が。入る時には気付かなかった。まるで、そこに膝を抱えた人が座り込んでいるような。
ぞっと背筋に何かが這い上がる。
「…………うッ」
「よし。気持ちはわかるが、こらえろ」
嶺ちゃんに再び口を塞がれて、心臓がぎゅっと握りしめられた感覚に陥った。彼がいなければ間違いなく悲鳴をあげていた。黒い影も幻覚ではなく、本当に人間だったらしい。
嶺ちゃんが懐中電灯で玄関を照らす。
そこにいたのは、父だった。
腕に顔を伏せたまま、ぴくりとも動かない。
「先輩。帰りましょう」
嶺ちゃんは側に膝をつき、優しい声音で話しかける。
そこで、ようやく父が反応する。
ゆるゆるとあげた顔は真っ青で、口からこぼれた声もとても弱々しい。
「……神代?」
懐中電灯の明かりにすら目を細めて、相手が嶺ちゃんだとはわかったようだ。ほっと安堵するのも束の間。ここで何故か、母は急に腹を立てた。
「どうして先に嶺也の名前を呼ぶんだッ」
父の正面に座り込み、むきになって噛みつく。唐突な抗議だったので、さすがの嶺ちゃんも呆れぎみに突っ込んだ。
「さっき死体と間違えたのに、すげー言い草だな」
そうなのだ。
一瞬前は明らかに父を遺体か妖と見間違えたのに。真っ先に母の名前を呼べとはどういうことか。主張が意味不明すぎて、指摘するべきか迷う。
娘の私ですら戸惑う発言にも、父は動じない。母の姿を認めるなり、すぐに状況も彼女の気持ちも察したようで、優しく微笑んだ。
「君が神代を呼んでくれたんだ。ありがとう」
血の気も失せた表情のせいか、触れたら今にも消えそうな感謝の声。疲労や不調を訴える身でありながら、恨み言ひとつ口にしない。
この時、母の胸は高鳴った。
今の状況でも他者を思いやり、言葉を尽くす彼の精神に尊敬の念を抱く。
そして、この人の側にいたい。支えたいと思わされた。おそらく一番最初に父を異性として意識した時だろうと母は言う。
「……そこ、重要?」
「ものすごく重要だろう。おまえの両親が運命を感じた瞬間だぞ」
私の素朴な疑問にも、胸を盛大に張って正当化する。そんな場違いともいえるトンチンカンな意見を述べる母は、さておき。
「問題は、そこじゃないでしょ。お父さんが今まで生きてた方にビックリだよ」
きっと誰もが思う事実を指摘すると、彼女はいきなり眦をつり上げた。
「なんてことを言うんだ。あの人が生きてなければ、おまえは産まれてないんだぞ」
そっちこそ、なんてこと言うんだ。
母親のくせに娘の存在意義をあっさり否定してるじゃないか。
「……まぁ、あの人もただの素人ではないってことだ」
「???」
私の言いたいことは伝わっていたらしい。父が、その場所にいたのには何か理由があるようだ。
「そこを犯人の家と知っていて、わざと隠れていたらしい」
「いやいや。それ、怖いよッ……むしろ、逆効果じゃない?」
予想外の流れに、こっちまで背筋が寒くなる。
「大体、何で集落を出て、山を降りなかったの? 車はなくたって、道路くらいは……」
「これだから都会っ子は」
なけなしの反論は、母の舌打ちであっけなく玉砕。っていうか都会育ちにしたのは、あなたたち両親じゃないですか。
「普通に考えて、地形もわからない夜中の山中を歩くのは自殺行為なんだ。どんなに慣れた登山家でも、遭難したら夜に動かないのが鉄則だ。方向感覚は鈍るし、体力も消費する。うっかり熊に出くわすともかぎらん」
うッ。
黙って聞いていればよかった。所詮は、素人の浅知恵ってヤツ?
「そもそも、山は異界の入り口とされる。特別な霊場でもあるし、遭難者もいる。あの人にとっては、どちらもつらい空間なのだ」
「すみません……私が間違ってました」
そういや、家族旅行ってしたことないな。
いつも近場の美術館や博物館を日帰りで見学するだけ。運がよければ遊園地とかに連れてってもらえたけど、同級生の友達とは違う家族サービスに幼少期は不満だった。もしや、父の体質が原因だったとは。同じ理由で海も駄目そうだな。
恐怖で二の腕をさすっていると、突然、母がおかしな方向へと話を変えた。
「今、おまえは人を殺したい気分だ」
「え」
「めちゃくちゃ人を殺したくてたまらない気分だ。それこそ、誰かれ構わず」
「…………」
「なるべく大勢の人間を手にかけたい。おそらく自分は生きては帰れないだろう。ならば、他者に手をかけられるより、最期は自ら生命を絶とう。そこまで思い詰めていたとする」
「………………」
これって、付き合うしかないんだろうか。
怪しいなと思いつつ、とりあえず話を最後まで聞いてみようと割り切る。
「お、おう。今の私は、誰でもいいから殺してみたい気分デス……」
「そうだ。そうだ。アドレナリンが大分泌されて、今にも欲望を抑えきれない。そんな時、おまえならどうする?」
「あ」
そこまで説明されて、気がつく。
衝動的な殺人だとするなら、犯人は目についた人間を襲うはず。家にいたなら、まず家族を殺すだろうと母は言いたいのだ。
そうすると、別の視点が見えてくる。
「そっか。ある意味、集落の中じゃ犯人の家が一番安全なんだ」
「うむ。家族を殺したら、帰る必要がないからな。最も興味の薄い場所と言える」
実際の犯人が、どういう心理状態だったのかはわからない。少なくとも、生きている人間を探して集落を歩き回っている。その狂気を敏感に察知した父は、襲われにくい場所を探して身を潜めたのだ。
理解した瞬間、ぞっとなる。
恐るべき回避能力の高さだ。そう判断できるほどの経験があるのだろう。そして、それをさっさと探し当てる嶺ちゃんもすごい。
私の想像以上に、ふたりの日常はとんでもないのかもしれない。
「もちろん、犯人の家に隠れても無事とは言えんがな。いろいろ歪んだ念が染みついて、きっと精神的に参っていただろう」
「うえーッ……」
淡々と語る母の補足説明は聞きたくなかった。
よく考えてみれば、そうなのだ。犯人の気が狂った場所は、おそらく生まれ育った家である可能性が高い。見えざるもの、人の気持ちに敏感な父にすれば、地獄のような空間だろう。
早く脱出するぞと嶺ちゃんが口にしかけた時だった。
突然、壁から大きな音が響く。それも、二度三度。外側から何かを叩きつけるような騒音だった。
「な、なんだ……?」
「おまえが派手に騒ぐから気付かれたんだよ」
驚く母に、舌打ちする嶺ちゃん。
ふたりのテンションが違いすぎる。静かにしろと警告はしたものの、嶺ちゃんは最悪の事態まで予想ができたようだ。
何者かが家の壁を破って侵入して来ようとする。でも、この集落にいる人間は自分たちしかいない。ようやく母が生きている人間以外の存在を信じ始めた瞬間だった。
強い力で叩かれ、弱った木材がメリメリと悲鳴をあげる。殺意すら感じる暴力的な音に背筋が凍った。
「嶺也ッ、どうにかできないのかッ!?」
「今、やってるつっのッ! ド阿呆!」
手に数珠を巻きつけ、嶺ちゃんが襲撃された壁板を睨む。
「俺が押さえ込んでる。今の内に、あいつの持ち物を探せ。何でもいいッ! 茶碗でも靴でも、服の切れ端でもいい! 犯人の私物を探せ」
「そ、そんなこと言っても」
「早くしろ! 俺の力は長くは保たないッ!」
有無を言わせない気迫に母は焦りを感じた。
懐中電灯の頼りない明かりの中、必死に目を凝らす。散乱している日用品はあるものの、どれを渡せばいいのかわからない。全て犯人の持ち物である可能性は高いが、そうでない確率も少なからずある。
嶺ちゃんの様子からして、何度も間違えている暇はない。確実に男物だとわかるものはないか。どくどくと激しく打ち鳴らす心臓が今にも口から飛び出しそうだ。重くて鈍くなる身体を叱咤して、室内全体に視線を這わしている最中だった。
「あれを」
かすれた声に母が目を瞠る。
側に座り込んでいた父が震える手をあげた。
力の入らない指で示すのは、土間の隅で無造作に置いてある鉈だった。刃どころか柄の部分すら黒く変色している。その原因を考えたくないほど、ひどい汚れ方だ。
父は吐き気と戦っているのか、途切れ途切れに小さく言葉を紡ぐ。
「あれが一番、蠢く黒い影が濃い。きっと、長く……手元にあったものだ。早く、神代に……」
疑う理由なんてない。
説明も終わらない内に、母は鉈を拾いあげた。
「嶺也ッ!」
名前を叫んで、放り投げる。
すぐに反応した嶺ちゃんは受け取るなり、居間へと昇る。犯人がいると思しき壁を見つめながら、思いきり鉈を床板へ突き立てる。
「血に飢えた咎人。深淵に沈め」
嶺ちゃんが低くそう告げた途端、戸を打ち鳴らす音が止んだ。硬直していた母の身体も軽くなる。
真冬だというのに全身が汗でぐっしょりだった。緊張と恐怖から解放されて呆然とする中、
「先輩は、もう限界だ。とりあえず出るぞ」
ぐったりした父を担いで、こともなく告げた。
自分よりも身長のある先輩を背負い直して、家を出て行く。その後ろ姿が母としては面白くない。
嶺ちゃんは、こんなことが「当たり前の日常」のように思えたから。
「……嶺ちゃん。カッコいい」
「そうか? ただのカッコつけだろう」
うっとりとした感想にも、母の興味は薄い。それだけ男性の好みが離れてるんだろうか。
おかしいな。
普通、娘は父親と同じタイプを好きになるというのに。よって母とは話が合うはずなのに、嶺ちゃんのこととなると清々しいまでに噛み合わない。
私は慌てて首を振る。
「いやいや。嶺ちゃん、その集落を彷徨ってる悪霊を退治したんでしょ」
「あいつがそんな優秀だったら、今頃、あの人もピンシャンしてるだろうよ」
うわ。
お父さんの体調不良を嶺ちゃんのせいにした。彼の能力は大したことないときっぱり言い切る。
そのココロはと訊けば。
「後で聞いた話、あいつは封じただけだ」
「えッ……」
ここは、嶺ちゃんがパーッと華麗に除霊したんでしょ?
考えていたことが顔に出ていたらしい。向かいの母は長い溜め息をついて、ゆるゆると首を振る。
「嶺也にしてみれば、そんなパターンは稀なんだそうだ。長年の恨みつらみだけで人に害をなす存在というのものは、封じるか木っ端微塵に吹き飛ばすしかない」
お経を唱えて成仏できる方が少ない。
水に溺れた人がパニックを起こして、他者に抱きつくみたいに。長い時を恨みだけで存在させる念は、力ずくで解決させるしかない。それこそ、生命を賭けて全力で。
そんな考え方、暴力と何も変わらない。
「だから、あの人は望まない。嶺也もそれを知っているから実行しない」
つんと尖らせた唇。
明らかに面白くないって態度。
きっと、父と嶺ちゃんの関係だな。いつも文句たらたらの嶺ちゃんだけど、最終的には必ず父を助ける。父の望んだ通りに。母は嫉妬してるのだ。切っても切れない、ふたりの関係を。
私だって、子供心に気付いてた。
父と嶺ちゃんの間には特別な空気が流れてる。普通に会話してるだけなのに、娘の私でさえ入れない。
拒絶されてるわけじゃない。
無視されてるわけじゃない。
ただ、お互いがお互いに特別な存在なんだと思う。助けて、助けられるだけの関係じゃない。嶺ちゃんも、父に助けられたことがあるんだろう。強い繋がりだから他の人間は入れない。
母も、嶺ちゃんの奥さんも。
彼女たちでなくたって悔しい。嶺ちゃんを慕ってる者としては。
聞いた昔話の結論でむっとした頃、玄関のチャイムが鳴り響いた。
「あ」
もしかして、嶺ちゃん?
「もー! お母さんが唐突に昔話するからッ!」
「おいおい。私のせいか?」
母に向き直って怒鳴るも、全ては遅すぎる。着替えも身支度も、してる暇なんかない。早く、お客様を出迎えなければ。
「はぁーい。今、行きますー!」
再度、鳴るチャイムに返事をしながら玄関に向かった。
アヤカシ奇譚 MaiKa @kkym-8090-aaw
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