38.それで充分よ

 <海との結婚ノッツェ・デラ・マーレ>が終わったヴェルナスタは、もう夏だ。


 ラグーナからのさわやかな潮風しおかぜが、煉瓦造れんがづくりの建物と、水路の隙間すきまを通りすぎる。明るい陽射ひざしと心地よい暑さに、いつにも増して街が活気づく。


 小さな子供たちも、若い恋人たちも、大人げない大人たちも、エンリコの小型船ゴンドラからながめる人たちは、みんな楽しそうだった。


魔法励起現象アルティファクタが、連続しているということですか」


 桜桃味アマレナ苺味フラーゴラ万寿果マンゴ芒果パパイア氷菓ジェラートを段重ねにして食べながら、マトリョーナが、少しだけ目を丸くした。


「さあ? 確かめようがないわよ。ジャズアルドは、自分からはなにも言わないし、あたしも聞かないしね」


 マトリョーナに負けじと、チョコクリーム味チョコラートナッツ味ノッチョラミルク味ラッテ氷菓ジェラートを段重ねで食べながら、ロゼッタが笑う。


「あたしが死ぬまで、あたしだけの相棒。それで充分よ」


 小型船ゴンドラが、ゆっくりと水路を流れる。


 エンリコは片手で煙管きせるを吹かし、片手でいで、鼻歌を歌っていた。


 ヴェルナスタ市街は北の端に、交易船の主要港がある。港には鮮やかな色合いで塗られた、煉瓦造れんがづくりの倉庫が立ち並び、そこから市街に向かう道すがら、建物の壁がだんだんと日常的な色に戻っていく。帰る家に心を誘う、船乗り誘いの壁通りだ。


 水深の深いあおにたゆたう水路、煉瓦造れんがづくりの橋の曲線、水路のへり、壁の穴、建物の隙間すきまや抜け道、全部覚えていた。


 あの短い夏の日々に、駆け回った場所だ。奥に入れば、ささやかな常緑樹のある広場が見えるだろう。


 ロゼッタは、大きく伸びをした。


 目を閉じれば、いつでも思い出せる。それでいい。


 氷菓ジェラートをこぼしそうになって、ちょっと慌てて姿勢を戻す。エンリコが無遠慮に笑った。その笑い声に、水路脇の道を歩いていた家族連れの母親が、顔を巡らせた。


「あら、お父さん。それに、ロゼッタさんとマトリョーナさんも」


「おうダニエラ、なんだ、こいつらと知り合いか?」


 亜麻色あまいろの髪を整えて、仕事着ではない服を着て、少しだけ化粧けしょうもしたダニエラが微笑ほほえんだ。


 ロゼッタは、それどころではなかった。


「えええっ? エンリコじいさん、ダニエラさんのお父さんだったのっ? なによ、全然聞いてないわよ!」


「いや、そりゃあ……こっちこそ、おまえさんとダニエラが、どうつながってんだかわかりゃしねえよ」


「なんだよ、ロゼッタ。じいちゃんと知り合いだったの?」


 ダニエラの横で、リヴィオがのんきな顔をする。他人のことは言えないが、リヴィオも仕事着の紺色官服こんいろかんふくだ。


 そのリヴィオと、同じ官服のロゼッタとマトリョーナを見比べて、ダニエラの隣にいた別の男が目を輝かせた。


「ああ! お嬢さん方が、リヴィオのお世話になってるって言う、お仕事の……初めまして! リヴィオの父、ピエトロ=ヴィオラートです!」


 陽気に大声を張り上げて、右手を顔の横につける。


 船乗りの敬礼だ。水兵襟すいへいえりの白い上衣に黒いズボンパンタローニ、浅黒く陽焼ひやけしたたくましい身体つきは、いかにもだ。大きな荷物袋を背中に引っかけているのは、多分、今しがた交易船が着いたばかりなのだろう。


 ロゼッタは仕事の先輩として、まともな挨拶あいさつを返そうとした。しかしながら、段重ねの氷菓ジェラートを片手に、小型船ゴンドラにふんぞり返っている状態では、如何いかんともしがたかった。マトリョーナはもとより、無表情だ。


 リヴィオの父、ピエトロはしげしげと二人を見て、リヴィオの肩を強く叩いた。


「意気込みは買う! けどな、やっぱり母さんが言うように、ちょっとまだ無理目むりめだな。気を落とすんじゃないぞ! 男は、当たり前にれて振られて、成長するんだからな!」


「いや、だから違うって……息子の生命いのちを縮めるなよ、マジでさ」


「はっはっは! 一丁前の口をきくようになったなあ、ピエトロ坊主! おまえさんはどうなんだ? あちこちの港で、悪さなんかしとらんかったかね?」 


「とんでもない! そっちこそ、女性客に色目なんて使ってないでしょうね、助平義父すけべおやじ!」


 リヴィオよりよっぽど子供っぽいエンリコとピエトロの言い合いに、ダニエラが嘆息たんそくする。ロゼッタも、もう笑うしかなかった。


「あれ? ロゼッタもマトリョーナも出かけてるってことは、留守番はレナートとアルマンドの二人だけ?」


 リヴィオが、思い出したように言う。


「そうだろうけど……なに、心配? 友達過保護ね」


「んー、レナートのやつ、最近いろいろ手厳しいからなあ。アルマンドのぐだぐだっぷりと、合わないような気がしてさ」


「まあ、そうね」


 ロゼッタも同意する。アルマンドはどこ吹く風だろうが、レナートは苛々いらいら蓄積ちくせきしてそうだ。


「じいちゃん、少し乗せてよ」


 言うが早いか、水路のへりを飛び越えて、リヴィオが小型船ゴンドラに乗り込んだ。小さな船体が大きくゆれて、エンリコは涼しい顔だが、ロゼッタは危うく氷菓ジェラートを胸に落とすところだった。


「ちょ、ちょっとリヴィオ……!」


「家の近くに寄ってくれたら、降りるからさ。デートアップンタメントの邪魔はしないよ」


デートアップンタメントじゃないわよ!」


小型船ゴンドラで仲良く氷菓ジェラートを食ってたら、デートアップンタメントじゃねえの?」


「はっはっは、違いねえ!」


「やぶさかではありません」


 エンリコとマトリョーナが混ぜ返す。いつの間にか、多数決では勝ち目のない状況だった。


「そんなわけで、俺、先に帰ってるからさ。父さんと母さんは、二人きりでゆっくりしなよ」


「おう! なんなら、今夜は帰らないかも知れないぞ!」


「あ、あなたっ? なに言って……っ!」


「非日常性、ってやつ? わかった。それなら、こっちはこっちでのんびりしてるよ」


 男どもの太平楽たいへいらくにあてられて、ロゼッタとダニエラが、辟易へきえきと視線を交わす。小型船ゴンドラは、もう音もなく動き出していた。


 晴れた夏の昼下がり、水上都市を小型船ゴンドラが行く。


 あくび混じりに、他愛たあいのない会話が、風に流れていく。 


「母さんたちが帰って来ないなら、今夜は屋台の買い食いかな……小遣こづかい、残ってたかなあ?」


「それこそ、アルマンドに出させれば良いわよ。レナート一人に、全員分の料理をしてもらうのも申しわけないしね」


「俺はからっきしだけど、ロゼッタも料理、苦手なの?」


「丸焼きなら、得意なんだけどね」


「海の友達を召集しましょうか」


「それはらない」


 リヴィオと声がそろって、ロゼッタは笑った。笑えることが、誇らしかった。


 新しい仲間と新しい自分、変わらない思い出と、美しいラグーナの街で、ロゼッタは今を生きていた。



〜 第三章 水上都市ヴェルナスタ悪霊あくりょう 完 〜

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る