36.構いやしないわ

 ロゼッタは二日後の朝、頭の熱さを自覚した。


 フランカのいた寝台で、身体を起こす。重く感じた。


 窓の隙間すきまから、遺体を焼く臭いが入ってくる。もう慣れたものだった。


 部屋の中は一人だった。モルガナも、バティスタの手伝いをしているのだろう。なんとなくわかる。


 遺体はもちろん、この一帯の水、土、空気、植物、動物、虫、とにかくすべてを一つ一つ調べて、疫病えきびょうがどうやって人を襲うのか、どんな薬で対抗できるのか、どうすればそれを作れるのか、気の遠くなるような実験を積み重ねるのだ。


「あたしには……間に合いそうも、ないかしら」


 ロゼッタは苦笑して、寝台を降りた。


 鈍い頭痛とめまいをこらえながら、衣服を脱ぎ捨てる。下着も脱いで、素裸すはだかになった。


 肌は白かったが、右の内股に、風船のようなものがいくつもできていた。


「あの時、つぶしたのは……これね」


 路地でフランカを抱いた時、このものが破れて、みが出た。同じ症状しょうじょうだ。いずれ、黒斑こくはんも浮かんでくるだろう。


 自分で選んだ行動の結果だ。それだけは、わかっていた。


 足の力が抜けた。床に尻をつけて、座り込んだ。


 低くなったロゼッタの目線が、ふと、寝台の足元にうずくまった、小さな二つの目と合った。


 ねずみだった。黒くて丸々としたねずみが、じっとロゼッタを見ていた。


「なによ……もう食べに来たの? 気が早いわね……!」


 ロゼッタは腹が立って、脱いだまま転がしていた靴を片方、拾って投げた。


 靴は何度か床をねて、たまたま上手うまく、ねずみにぶつかった。ねずみがうめくように鳴いて、痙攣けいれんした。


 おかしい、と、ロゼッタの意識に引っかかる。


 ラウル、そう、ラウルが広場で素早く投げた小石は、ねずみにかすりもしなかった。今、自分は、それほど早く強く、正確に靴を投げられたのだろうか。


 そんなはずはない。近づいてねずみを見ると、だらりと口を開けていた。


「弱ってる……? 変なの……まだ焼かれてない食べ物が、いくらでも……」


 おかしい、と、また引っかかる。


 ラウルはねずみが、死んだ人間を食べて増えるのだろう、と言っていた。それなら増えるのは、疫病えきびょうが流行している最中か、後半のはずだ。


 イレネオ、そう、イレネオはねずみが、悪霊の手下と呼ばれている、と言っていた。手下なら、悪霊より先に来るのが普通だろう。


ねずみは……疫病えきびょうより、先に増えてる……? 増えて……それから……」


 疫病えきびょうに襲われている人間に、わざわざねずみを退治する余裕なんてない。疫病えきびょうの流行の後、増えたねずみに困らされたという話も、聞いたことがない。


 増えたねずみは、人間とほとんど同時に、勝手に死んでいる。


 すっごく大きいねずみ、と言ったのはフランカだ。


 普通のねずみなら、と言ったのはパメラだ。


 ロゼッタは目の前の、黒く大きい、普通じゃないねずみを素手でつかんだ。立ち上がって、足がもつれて、ぶつかるようにして部屋の扉を開けた。


 小さな家の、小さな部屋の外では、バティスタとモルガナと、何人かの医療局の人間が作業していた。


 急に飛び出してきた、裸のロゼッタに、全員が目を丸くする。そして内股のものを見て、瞬時に状況を理解した。


 ロゼッタも、同じように状況を理解した。


 バティスタたちは、あきらめずに地道な調査を続けていた。医療局の一人が、かごに捕まえたねずみを取り出すところだった。茶色で小さくて、元気そうな普通のねずみだ。


「違う……こっちが先……っ!」


 ロゼッタは、つかんだねずみを差し出した。


「異国のねずみ……港にも、いたって……悪霊の……手下……っ!」


 バティスタと医療局の人間が、鋭い目線を交わす。


 うなずき合い、灰色の覆面ふくめんと手袋を改めた一人が、ロゼッタからうやうやしくねずみを受け取った。この見慣れない、黒い大きな異国のねずみは、なにかの自然発生的な要因で死にかけている。


 モルガナが、裸のロゼッタを、包み込むように抱き上げた。老婦人とは思えないほど軽々と、しっかりと抱きしめる。


 ロゼッタは素直に、身体の力を抜いた。頭痛とめまいを思い出した。


 モルガナがロゼッタを元の部屋に運んで、そのまま寝台に座った。抱いた手を離さなかった。


「教えてくれて……本当にありがとう、ロゼッタちゃん」


 モルガナはロゼッタにほおをすり寄せて、それから軽く苦笑した。


「でも、女の子なのにちょっと、はしたなかったわね」


「……どうせ、すぐまっ黒になって死ぬんだから……構いやしないわ」


 ロゼッタも苦笑した。


「だけど……みんなで、一矢報いっしむくいたわ……。後……お願いね……」


「嫌よ」


 モルガナが、子供のように唇をとがらせた。


「九歳が八十歳に、後をお願いするなんて、おかしいわ。あべこべよ」


 モルガナが片手を伸ばす。いつの間にか、日傘ひがさが握られていた。


「ここでがんばれなかったら、魔法士アルティスタの名折れだわ」


魔法士アルティスタ……?」


 ロゼッタのつぶやきに、モルガナが満面の笑みを返した。

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