32.お邪魔してごめんなさいね

 朝から走り回って遊んで、昼食の堅焼きパニーニを食べながら、こうして他愛たあいのない話をしていた。広場の脇の水路では、エンリコがのんきに煙管きせるを吹かしている。


 夏の陽射ひざしに、広場が輝いている。五人の座る常緑樹の木陰こかげに、さわやかな風が吹いた。


 ロゼッタは大きく伸びをして、寝転がりたくなった。心地よくて、思わず手が動いて、堅焼きパニーニから燻製肉くんせいにくのかけらが石畳いしだたみに落ちた。


 パメラとフランカが、小さな悲鳴を上げた。


 物陰から大きな、まっ黒いねずみが走り出て、燻製肉くんせいにくのかけらをさらって行った。ラウルが素早く小石を投げたが、かすりもしなかった。


「びっくりした……すっごく大きいねずみだったね」


 フランカが、上ずった声で胸をなでおろす。横でラウルも、鼻を鳴らした。


「港にもいたぜ。交易船に忍び込んでた、異国のねずみかもな。丸々と太りやがって、きっちり焼いたら美味うまいんじゃねえか?」


「ちょ、ちょっとラウル! 変なこと言わないでよ!」


「なんだよ、船乗りになりたいんだろ? ねずみくらいでびくびくするなって」


「普通のねずみなら平気よ!」


「大きくても小さくても、黒くても茶色でも、ねずみねずみだろ。だらしねえなあ」


 からかうラウルに、パメラが口をとがらせる。ロゼッタもフランカも苦笑した。


 気がつくとイレネオだけが、なんだか表情をくもらせていた。


「異国のねずみ……嫌だな、気味が悪い……」


「イレネオ、ねずみがそんなに苦手だったの? ごめんなさい、もう食べ物を落とさないよう、気をつけるわ」


「あ、いや、そうじゃなくて」


 ロゼッタの謝罪に、イレネオが慌てて手を振った。


「東方の国なんかじゃ、ねずみは、悪霊の手下とか呼ばれてるんだって。飢饉ききんや病気が流行はやる時に、たくさん出るから……」


「そりゃあ、死んだ人間を食って増えるからだろ?」


「ラ、ラウル、あんたね……!」


「だからさ、こっちが先に食っちまえばいいんだよ。船が遭難そうなんした時の話なんかで、聞いたことあるしさ」


 珍しく腰が引けた感じのパメラに、ラウルが、調子に乗ってたたみかける。そろそろかな、と、ロゼッタがラウルに拳骨げんこつを落とした。


余所よその国は知らないけど、ヴェルナスタの船乗りは国の顔たる紳士であれ、よ。それくらい、学校で習うでしょ?」


「いてて……その言葉、卑怯だよな。言われたら、なにも返せなくなっちまう」


「発明した人は、きっと無神経な男に悩まされたのね。素晴らしい教訓、いえ、戦術訓だわ」


「せんじゅつ?」


「戦い方、この場合は相手の黙らせ方、ってことよ」


 ました顔のロゼッタを、パメラとフランカが尊敬の眼差しで見る。ラウルとイレネオは、なにをか言わんや、だ。


 ひとしきり笑い合って、昼食も終えて、まだまだ遊ぶ勢いでロゼッタが腰を浮かせた時、不意に声をかけられた。


「お邪魔してごめんなさいね。あなたが、ロゼッタちゃんかしら?」


 ロゼッタが声のした方を見ると、少し離れたところに、品の良い薄黄色のドレスヴェスティートを着た老婦人が立っていた。


 雪のような白髪をい上げ、顔のしわは深いけれど柔和な雰囲気で、姿勢もしっかりしている。ドレスヴェスティートと同じ色の日傘ひがさをさして、ロゼッタを見て微笑ほほえんでいた。


 ロゼッタは警戒した。知らない顔だ。悪い人間ではないとしても、家の使いであるのは明白だった。


「おばあさん、誰?」


 フランカが無邪気に言う。老婦人が、しゃがみ込んで目線を合わせた。


「ロゼッタちゃんのお父さんから頼まれて、迎えに来たの。モルガナ=ラ・トルレよ。よろしくね。ええと……」


「あたし、フランカ! あっちがイレネオお兄ちゃんとパメラちゃん、あっちがラウル!」


「俺だけ呼び捨てかよ……」


「まあ、ラウルだからね」


「ラウルなんだから当然よ!」


 したり顔のイレネオとパメラ、うなだれるラウルを横目に、ロゼッタは、モルガナと名乗った老婦人から距離を取った。


 気の毒だけど、言いなりになるつもりはない。こんなお年寄りを迎えによこすなんて、それこそいやらしい。


 ロゼッタは隠す気もなく、表情に出した。モルガナが、フランカの前にしゃがみ込んだまま、また微笑ほほえんだ。


 モルガナは動く様子がなかったが、ロゼッタは、優しく手を握られた。


「え……?」


「ごめんなさいね」


 フランカの前にしゃがんでいたはずのモルガナが消えて、ロゼッタの隣に立っていた。フランカも、イレネオもパメラもラウルも、目を丸くした。


「光の進み方をね、少しいじったのよ。私、手品師なの。今度みんなにも、いろいろ見せてあげるから、今日はロゼッタちゃんを連れ帰らせてちょうだいね」


 ロゼッタは呆気あっけにとられていた。


 手だけでなく、モルガナの表情も声も優しくて、振り払う気にならなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る