31.素敵だわ

 八年前のある夏の日、ロゼッタは同じように、エンリコの小型船ゴンドラに乗っていた。


 上品な空色の一そろいを着て、赤毛を三つ編みにした九歳の一人客に、さすがのエンリコも思案顔だった。


「お金なら持ってるわ。一日、適当に流してちょうだい。どうせ家に帰らないわけにはいかないんだから、変な心配しないで」


「そうさなあ……じゃあ、氷菓ジェラートは果実系と乳脂系、どっちが好みかね?」


「あからさまな子供扱いは、不愉快ね」


 ロゼッタは、赤いほおを少しふくらませた。


「あえて言うなら乳脂系よ」


「よしきた!」


 ほとんどゆれもなく、小型船ゴンドラが水路を進む。エンリコは片手に煙管きせる、片手にいで、鼻歌混じりだ。


「器用なものね」


「はっはっは、をにぎって六十年、エンリコじじいと言やあ、この界隈かいわいではちょっと知られたもんよ」


「もう七十代ってこと? 若く見えるわ」


「細けえことはいいんだよ、お嬢ちゃん」


 文字通りけむに巻かれて、ロゼッタが顔をしかめた。


 まったく気にしていない様子で、エンリコが小型船ゴンドラをすべらせる。夏の風が、水面を渡って吹きつけた。


 まぶしい陽射ひざしで、水上都市は輝くようだった。


 深いあおにたゆたう水路、水路にかかる煉瓦造れんがづくりの橋の曲線、同じ煉瓦造れんがづくりでも港に向かうほど鮮やかな色合いになる船乗り誘いの壁通り、生まれ育ったはずの市街でも、初めて一人で出歩く世界は、ロゼッタにとって涙が出そうになるほど美しかった。


 エンリコが小型船ゴンドラを、ささやかな常緑樹のある広場に着けた。


 豪華な氷菓ジェラートの屋台があって、それを遠目で見るように、広場のすみで何人かの子供が遊んでいた。


「いい具合いだな。おーい、おまえたち! このお嬢ちゃんが、氷菓ジェラート御馳走ごちそうしてくれるぞ! ちゃんと礼を言えよ!」


「え……ええっ? ちょっと、なに勝手に……」


「船賃から抜いてくれよ。金銭ってのは、こうやって回さねえとな。血の巡りみてえなもんさ」


 飄々ひょうひょう煙管きせるを吹かせるエンリコに、なにを言い返すひまもなく、子供たちが歓声を上げて集まってくる。全部で四人、みんなロゼッタより年下のようだ。


 素直に目をきらきらさせて、見つめられたロゼッタのほおも、一層に赤くなる。血の巡りとは、よく言ったものだった。


「ああ、もう……わかったわよ! 挨拶代あいさつがわりに、奮発ふんぱつしてあげるわ! お金がなくなったらエンリコじいさんに出してもらうから、一緒に食べまくるわよ!」


「おっと。こいつは、してやられたな」


 苦笑するエンリコを尻目に、ロゼッタは子供たちを引き連れて、先頭を切って氷菓ジェラートの屋台に突撃した。


 それからは、大騒ぎだった。


 活発な八歳のラウルは、ロゼッタと似たような赤褐色せきかっしょくの刈り上げ髪の男の子で、チョコクリーム味チョコラートばかり五杯も食べた。


 イレネオとフランカは八歳と五歳の兄妹で、淡い金髪のくせ毛がおそろいだった。苺味フラーゴラミルク味ラッテを、仲良く二人で分けていた。


 パメラは砂色の髪を肩まで伸ばした七歳の女の子で、桜桃味アマレナ万寿果マンゴ芒果パパイアなど珍しい味を試しては、わかるようなわからないような感想を言っていた。


 昼も軽食屋の、燻製肉くんせいにくをはさんだ堅焼きパニーニを全員でかじりながら、夕暮れまで遊んだ。


 エンリコは、ロゼッタの家の前まで送ってくれた。


 約束通り一日分の船賃を払おうとしても、小型船ゴンドラに乗っていた時間から氷菓ジェラートと昼食の代金を差し引いて、むしろあと半日くらいは無料だと笑って受け取らなかった。


 ロゼッタは言葉に甘えて、次の週末休日もエンリコの小型船ゴンドラに乗せてもらった。


 広場で四人と遊んで、また次も、その次も、当然のように集まる友達同士になっていた。四人は服装も質素で、幼年学校もロゼッタとは別だったが、そんなことは誰も気にしなかった。


「なあ、新しくきた交易船の積荷つみに、見たか? すげえぞ、でっけえ猫みたいな動物とか、おかしな色の果物とか、珍しいものばっかりでさ!」


「見たか、って……また学校を抜け出して、港に行ったの? 今度見つかったら、罰掃除ばつそうじじゃすまないと思うよ」


「う、うるさいな! これも船乗りになるための、勉強だよ、勉強!」


 いつものように興奮気味なラウルに、イレネオがため息をつく。フランカは断然、興味をひかれたようで、幼い顔を上気させた。


「へえ、すごいなあ! そんな動物、誰が買うのかなあ? 街で見られるかなあ?」


 パメラはパメラで、こまっしゃくれた表情でほおをふくらませた。


「なによ、ラウルったら。次に行くときは誘って、って言ったじゃない。船乗りの勉強なら、あたしだって負けてられないわよ」


「女は船乗りになれねえよ。なんたって、度胸と腕っぷしの世界だからな!」


「これからの交易は知識と技術が大切だって、イレネオ言ってたわ。そうよね?」


「え? ええと……」


 勝気な二人にはさまれて、イレネオがしどろもどろになる。ロゼッタは笑いながら、間に入った。


「ラウルとパメラは、船乗りになりたいのね。素敵だわ。海を渡って、世界中の国に行けるなんて、あこがれるわね」


「ロゼッタのおうちは、お金持ちなんでしょ? ロゼッタもがんばれば、お船が買えるんじゃないの?」


 小さいフランカが、夢一杯に目を輝かせる。こっそりとイレネオが、胸をなで下ろしていた。


「そうね。その時は、ラウルとパメラのどっちかが船長ね。イレネオとフランカも、手伝ってくれるかしら?」


「も、もちろんだよ。ラウルなんて海図もまともに読めないんだから、しっかり見ててあげないと、すぐに迷子だよ」


「パメラもちょっと慌てんぼだから、あたしが助けてあげるね! 安心してね!」


「イレネオ、おまえなあ……」


「フランカ、あんたね……」


 ラウルとパメラが肩を落とす。ロゼッタは、吹き出すのをこらえるのが大変だった。

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