30.強いて選ぶなら果実系です

 ラグーナ潮風しおかぜを感じながら、大運河カナル・グランデの対岸を見る。


 諜報員として潜入していたマトリョーナには、説明するまでもない。ヴェルナスタの最南端を構成する巨大な島は、蒸気機関で近代化された工廟こうびょうの立ち並ぶ、第二国立造船所アーセナル・ドゥーエだ。


 大洋たいようを航海する蒸気式旅客船じょうきしきりょきゃくせんや、大砲を備えた駆逐艦くちくかん巡洋艦じゅんようかんを製造する軍施設で、資材運搬船しざいうんぱんせん巡視艇じゅんしていが往来し、遠目にも物々しい。


「この手の雰囲気は、どの国も変わりませんね」


「まあ、特に最近は大変みたいよ。おとぎ話の登場人物みたいな魔法士アルティスタとしては、技術屋ってのは頭が下がるわ」


 大航海時代に世界大戦に、とにかく船舶技術の発展は気の休まるひまもない。海洋交易で国を支えるヴェルナスタとしては、これに遅れるわけにはいかなかった。


 特に軍艦は、少し前まで鋼鉄張りの船体に可能な限りの大口径砲を積んだ大艦巨砲主義がもてはやされていたと思ったら、世界大戦が終わってみれば、航空機を艦載かんさいした機動艦隊戦術論きどうかんたいせんじゅつろんにあっさり移り変わっていた。


 ヴェルナスタの特務局は、軍とは管轄かんかつが違うが、魔法アルテへの備えから協力を依頼されることもある。日に日に激務でやつれていく、何人かの知り合いを思い浮かべて、ロゼッタが肩をすくめた。


「また呼ばれることもあるだろうから、案内はその時ね。用もないのに近づいたら、さすがにとっ捕まるわよ」


「それはそれで新しい快感に目覚めそうですが、自重じちょうします」


「長生きするわ、あんた」


 食べ終わったくしを道すがらの屑箱くずばこに入れて、二人は近くの水路に戻った。


 水路には、一艘いっそう小型船ゴンドラまっていた。船尾で、初老の男が煙管きせるを吹かしている。


 白髪混じりの黒髪を短く刈って、赤銅色しゃくどういろ陽焼ひやけした身体が、それなりにたくましい。灰色のズボンパンタローニに、だいだいと白の格子模様の半袖を引っ掛けて、いかにも派手だ。


「なんだ、びしょ濡れかぱだかで帰ってくるのを期待したのに、つれねえなあ。この季節、若い娘が水遊びしないで、どうするよ?」


 しわの多い顔が、闊達かったつに笑う。ロゼッタが渋面じゅうめんになった。


「冗談にならないわよ。前から思ってたけど、そんな下品で、よく小型船漕ぎゴンドリエーレなんてやってられるわね」


「はっはっは、こう見えて結構、客受け良いんだぜ? をにぎって六十年のエンリコじじいと言やあ、御婦人方には、ちょっとしたもんよ」


「エンリコさま。往路では確か、五十八歳とうかがいましたが」


「細けえことはいいんだよ、べっぴんさん」


 マトリョーナを軽くいなして、エンリコじじいこと、エンリコ=コッポリーノ自称五十八歳が、煙管きせるをくわえたまま船尾に立った。


 あきれ返った顔のロゼッタと、よくわかっていないような無表情のマトリョーナが、エンリコの小型船ゴンドラに乗り込んだ。


 するり、と、小型船ゴンドラが岸を離れる。ほとんど音もなく、水路をすべるように進んだ。


「次はどこに行くかね? ロゼッタ嬢ちゃん」


「任せるわ。この娘、特務局の新入りなのよ。ヴェルナスタ育ちじゃないから、街の裏表を一通り見せたいの。貸切料金は、役立たずの局長につけといて」


「一日仕事か。年寄りを働かすねえ」


「申しわけありません、お世話になります」


「なあに、いいってことよ! 客はみんな一期一会の恋人ってな。古女房の頼みで、べっぴんさんのお相手となりゃ、老骨にも気合いが入るってもんだ!」


「ちょっと! 誰が古女房よ?」


「おお。失言、失言」


 エンリコが、のんきに煙管きせるを吹かす。器用に片手でぎ、小型船ゴンドラ爽快そうかいに風を切った。


 水上都市ヴェルナスタは、縦横に多くの水路が走っている。水路でへだてられた無数の島が、橋で連結されて市街を形作っている、と言い換えても良い。


 その昔、大陸の戦争から逃げてきた避難民が、ラグーナに木のくいを埋めて石の土台を乗せ、長い時間をかけて都市を作り上げたと言われている。


 科学の発展で大砲の射程がのび、航空機まで戦争に使われるとなって、水上立地の利点は失われた。


 それでもヴェルナスタ共和国は、海軍力と政治力、交易でつちかった経済力で、海洋独立国家として大戦後の世界に確固たる存在感を示していた。


「どうせ市街のことも、いろいろ調べたんでしょうけど、まあ、ここほど一朝一夕いっちょういっせき把握はあくできない街もないわよ。これからは仕事仲間なんだし、今日はきっちりつき合うから、気になってた所や、行きたい所があったら言って。質問にも、できるだけ答えるわ」


「ありがとうございます。では、氷菓ジェラート美味おいしいお店など、御存知であればお願いします」


「はっはっは! そいつぁ、御存知なんてもんじゃねえな! 果実系と乳脂系は、どっちが好みかね?」


いて選ぶなら果実系です」


「……そういうことを言ったんじゃないんだけどね」


 しわくちゃに崩れそうな笑顔と、ほおを上気させた無表情、正反対な様子で盛り上がる二人を見て、ロゼッタも観念して笑った。

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