第三章 水上都市の悪霊

29.今日は静かですねえ

 <海との結婚ノッツェ・デラ・マーレ>が終わると、ヴェルナスタはもう夏だ。


 遠浅とおあさで、波の穏やかな紺碧こんぺきラグーナでは、海水浴も楽しめる。大陸中から多くの観光客、行楽客が訪れて、賑やかだ。


 そんな季節の週末休日、アルマンドはいつものようにだらだらと、着崩した官服と寝ぐせ頭で遅い朝食を楽しんでいた。


「今日は静かですねえ。リヴィオくんも、ロゼッタさんたちも、お出かけですか?」


「ついでに言えば、ダニエラさんもです。ぼく一人で大変なんですから、早く食べ終わって下さいよ」


 厨房ちゅうぼうからレナートが、しめの珈琲カッフェを先回りに持って現れる。すでに敬意の軽んじられた口調に、アルマンドがため息をついた。


「いつものこととは言え、部下に冷たくあしらわれるのは辛いですねえ」


「だったら、他にまともな人をいくらでもやとえるでしょうに。どうしてわざわざ、ぼくを部下なんかにしたんですか?」


 レナートが、えりと前掛けだけが濃緑の、清潔な白い厨房服ちゅうぼうふくで肩をすくめた。


 よく晴れた外の通りは、多くの人が行き交っている。判別はできなくとも、その中の何人かは、隠密部隊おんみつぶたい黒い掌パルマネラ>だ。


 さすがに政府の特務機関本部に、不特定多数の民間人が出入りするのは問題なので、ダニエラの宿屋は全室、ヴェルナスタ特務局が長期契約で借り上げていた。周辺地域にも、それとなく警備網が配置されている。


 他の人間はともかく、レナートは<海との結婚ノッツェ・デラ・マーレ>を妨害した騒乱罪そうらんざいで拘束、厳重監視も法の範囲で課せられる立場だ。主宰ドージェが法を曲げて身内をかばうことは、少なくともヴェルナスタ共和国の政治体制では不可能だし、ガレアッツオがするはずもない。


 現状の放免に近い処置は、アルマンドが無理を通したとしか、レナートには考えられなかった。


魔法アルテについてもそうですが、素質がありそうだからですよ。レナートくんはぼくのことが嫌いで、命令にも反抗できるでしょう?」


 アルマンドの笑顔に、レナートは鼻白はなじろんだ。はい、とも、いいえ、とも答えにくい、面倒くさい問いかけだった。


「ぼくの役割はね、レナートくん。人を命がけの仕事に引き込んで、いざとなれば国のために死ね、と命令することです。ですから、好意は邪魔なんです」


 アルマンドの厚い眼鏡が、少し角度を変えて、視線を隠した。


「ぼくのことが嫌いで、反抗する気も満々で……それでも、その命令が必要だと判断してくれた時、命をかけてもらいます。ぼくは国の正しさも自分の正しさも信じきれないので、その辺を、皆さんに丸投げします」


「……共和制の特殊工作機関なんて、成立しないと思いますけど」


「ヴェルナスタらしくて良いでしょう? レナートくんも、すきあらば本格的な魔法士アルティスタにしてやろうと狙ってますよ。<赤い頭テスタロッサ>は、いつでも人手不足ですからね」


 魔法士アルティスタになった途端、また敵に操られても困るだろう。様子見ようすみとは、そういうことらしい。レナートは、それなりに納得した。


「あと、まあ、これはちょっと大きな声では言えないんですが……レナートくんがいてくれると、主宰ドージェが、私費しひをいろいろな名目で融通ゆうづうしてくれるんですよ。おもに食費の精算で、非常に助かってます」


 なるほど。嫌いというなら、自分の素質は充分だ。


 レナートは冷ややかな目で、食卓の皿を、全部まとめて取り上げた。珈琲カッフェはまだ、口もつけられていなかった。



********************



 水上都市ヴェルナスタの市街は、北端にある交易船の主要港から、中心部を大きく蛇行だこうして南下なんかする大運河カナル・グランデで東西に分割される。


 南端のやや手前で、今度は東西に流れるもう一本の大運河カナル・グランデが合流し、東に進むと主宰宮殿パラッツォ・ドゥカーレの南岸を通過、国立造船所アーセナルラグーナに出る。


 国立造船所アーセナルは、主宰公式船ブチェンタウロや、ラグーナの外に広がる大陸内海たいりくないかいの交易船、旧時代の軍船にも使われていた木造櫂船もくぞうかいせんの造船所だ。


 大陸内海は波が穏やかで風がぐことも多く、帆船ほせんより人力じんりき櫂船かいせんの方が適していた。


 は重労働だが、受け持ちのかいの周辺空間を私用で使うことができ、個人的な物品の輸出入売買を無税で許可されていることから、才覚次第で豊かな副収入を得られる人気の職業だった。


 国立造船所アーセナルの逆、大運河カナル・グランデの西の出口には、旧時代の軍港がある。


 現在は観光用に整然と区画整備され、美しい人工の浅瀬あさせは海水浴に、静かな沖合いは魚介類の養殖業に開放されていた。


「ここは楽園ですね」


「全裸はやめときなさい」


 紺碧こんぺきラグーナを見て陶然とうぜんとするマトリョーナに、ロゼッタが釘を刺した。


「……友達の踊り食いは」


「ちゃんとシメたのが屋台で売ってるから、そっちにしなさいよ」


 ロゼッタの肩が落ちる。


 マトリョーナの物言いは、短い金髪と、引き結んだ唇の堅い印象からは、だいぶ頓狂とんきょうに離れていた。


 二人とも同じ<赤い頭テスタロッサ>の、赤い縁取ふちどりの紺色官服こんいろかんふくだ。


 変装の必要がなくなったからか、マトリョーナの胸元は、今は豊満な存在感を誇示している。これで奇行に走られたら、たまったものではない。


 自己申告によればマトリョーナは二十四歳、ロゼッタよりかなり年上で、背も高い。元ロセリア連邦陸軍の諜報員で、立派な大人だ。


 なのに、さっそく買ってきた烏賊いかの串焼きにかじりつく顔は、無表情ながら子供のようだ。


 二本買ってきた片方を差し出されて、ロゼッタも苦笑してかじりついた。少しげた魚醤コラトゥーラ香味こうみが、肉厚の烏賊いかの甘みによく合っていた。

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