27.潮の匂いがしますね

 五年前、嵐の海で、オフィーリア=フォスカリとプリシッラ=フォスカリは死んだ。


 雷雨と暴風、高波に翻弄ほんろうされて、長い航海に耐えた船も、ついに破損した。一度破損すると、連鎖的な崩壊を止める手立てがなかった。


 二隻の船団の、僚船りょうせんに乗り移るしかなかったが、荒れ狂う海にのような小船で脱出しても、助かる可能性は低い。船長の判断が遅れたのは、無理のないことだった。


 壁も柱も倒壊とうかいし、浸水が始まった船内で、ガレアッツオはレナートを抱いて走っていた。すぐ後ろに、オフィーリアとプリシッラもいた。


 レナートは倒壊した壁に頭を強打されて、血を流し、意識が薄れていた。ガレアッツオとオフィーリア、オフィーリアとプリシッラは、互いの腰を布帯ぬのおびで結んで、ガレアッツオが先導していた。


 甲板上かんぱんじょうに出る寸前、ほとんど横倒しに船がゆれた。床が崩落ほうらくして、四人とも倒れた。


 重なり落ちる床の残骸ざんがいに、プリシッラが下敷きにされた。


 胸をつぶされて、血の混じったせきをした。愛らしい、幼い顔が、痛みも感じられないのか呆然としていた。


 ガレアッツオは、決断しなければならなかった。そのはずだった。


 だが、できなかった。


 オフィーリアがうようにプリシッラに近づいて、残骸ざんがいからのぞく右腕と頭を、胸に抱いた。プリシッラが、安堵あんどしたように笑った。


 ガレアッツオは、言葉を探せなかった。


「オフィーリア……」


「母親ですもの。このを……一人には、できないわ」


 ガレアッツオが探せなかった言葉を、オフィーリアが口にした。微笑ほほえんだ。


 ああ、そうだ。ガレアッツオも同じ気持ちだった。一緒に、笑おうとした。


「それは駄目よ。助かる子供を死なせるのも、ヴェルナスタの主宰ドージェが海で死ぬのも、絶対に駄目」


 オフィーリアの残酷な言葉に、ガレアッツオは絶句した。


 心が砕けて、視界が暗くなった。暗い視界の中で、オフィーリアの笑顔だけが、ほのかに明るかった。


 オフィーリアはゆっくりと、ガレアッツオと結び合った布帯ぬのおびをほどいた。


 ガレアッツオは、なじるように言葉を吐いた。


「そんなことが……私に、できるとでも……」


「あなたは父親で、主宰ドージェですもの。やらなければいけないわ」


 オフィーリアの手が、最後にガレアッツオの、左手の薬指に触れた。


「大丈夫。私たちは、海になるの……毎年、あなたと結婚するのよ。楽しみだわ」


 オフィーリアが少女のように笑った。


 そしてプリシッラと抱き合って、目を閉じた。


 ガレアッツオは、目を閉じることができなかった。奥歯をみしめた。


 腕の中のレナートを抱きしめた。


 立ち上がって、歩いた。歩き続けた。



********************



 吹雪がいでいた。


 氷結聖母像が、双面から金切り声のような叫びを上げていた。四本の腕が、鋼鉄の巨神像の頭と両腕をひねりつぶしていた。


 それでも立ちふさがる巨神像の左脚に、ガレアッツオが触れていた。氷結聖母像を、まっすぐに見上げていた。


「私は……おまえの前で、強い主宰ドージェでありたかった。そうすることでしか自分を支えられない、弱い父親だった」


 ガレアッツオの言葉をかき消すように、双面の金切り声が大きくなった。金切り声に、レナートの声が混ざっていた。


 ガレアッツオは、ただ静かに、言葉を続けた。


「そしておまえを、子供だと思っていた。どうしようもない現実を……理不尽を、ありのままに受け入れさせるのは、まだこくだと……私に怒りと憎しみを向けることが、必要だと思っていた」


「……とう……さん……」


「私の弱さとあやまちが、おまえをここまで追いつめた。すまなかった……レナート」


「父さん……ぼくは……」


 氷結聖母像の腕が、巨神像の頭と両腕を引きちぎった。まっ白にけむる空をあおいで、咆哮ほうこうした。


「ただ……一緒に、泣いて欲しかったんだ……っ!」


 慟哭どうこくが、氷原をふるわせた。


 巨神像が片膝をついた。頭と両腕を失った上半身が、ひとりでにひび割れて、崩壊した。


 そして内側にへこんだ。装甲が次々とひび割れて、内側につぶれて、自己圧壊じこあっかいした。


 割れて、つぶれて、その度に鋼鉄が透明度を上げて、金剛石こんごうせきのような半透明に変わっていった。内側からの断熱圧縮だんねつあっしゅく焦熱しょうねつで、乳白色に輝いた。


 縮退しゅくたいする魔法アルテの中心で、光の中で、リヴィオとグリゼルダが重なっていた。


しおの匂いがしますね」


「ああ。さっきも一度、感じた……ラグーナの、海の風だよ」


 氷結聖母像を包むように、ゆるやかな台風のように、まっ白く飽和ほうわした水の気流が渦巻いていた。


 暖かい海風だった。


 ラグーナの氷原が、大運河カナル・グランデ氷塊ひょうかいが崩れて、傷口を洗うように波があふれた。


「あいつにも……とどいているはずだ」


 リヴィオが顔を上げた。


 巨神像は、人体の倍程度まで集束していた。全身が鉱物結晶こうぶつけっしょうを切り出したような鋭角を持ち、装甲が熱を帯びて、半透明の乳白色にゆらめいている。


 両肩後方に翼のような四本の連鎖結節れんさけっせつを、右腕には馬上槍ばじょうそうのような長大な尖突せんとつを、そして頭部には房飾ふさかざりのような二本の積層衝角せきそうしょうかくを伸ばした、白亜はくあの騎士像となっていた。


 リヴィオとグリゼルダが一つに重なって、騎士像の目で氷結聖母像を見る。


 氷結聖母像は、四本の腕でみずからをかきむしり、双面の口から金切り声を上げ続けていた。


 はっきりと見えた。魔法アルテの流れは、聖母像の胸の中央で千々ちぢに乱れて、荒れ狂っていた。


「レナート……今、そこに行く!」


 背面と両肩後方の翼状連鎖結節よくじょうれんさけっせつを展開、圧縮焦熱気流あっしゅくしょうねつきりゅうを解放する。白亜はくあの騎士像が、右腕の槍状尖突やりじょうせんとつを構えて飛翔する。


 想いが、叫びが、一筋の閃光となって氷結聖母像をつらぬいた。


 氷の身体に、その背後の空間に、光の波紋がまたたいた。轟音と爆風が追いかけて、氷片が、ラグーナの果ての空まで砕け散って吹き飛んだ。


 光と音の奔流ほんりゅうの中で、リヴィオは気絶したレナートを手の内に抱きながら、かすかな感謝の声を聞いた気がした。

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