26.痛くしませんよ

 主宰宮殿パラッツオ・ドゥカーレの屋根の端で、ザハールが動きを止めた。


 凍結したラグーナ大運河カナル・グランデと公共広場の南岸、組み合ったままの氷結聖母像と巨神像を見る。巨神像の方は頭部と両腕が破損していたが、自身よりもなお巨大な氷結聖母像と、真正面から拮抗きっこうしていた。


「レナートくんの素質にも驚きますが……あの少年の底力も、素晴らしいですね。少し、目算が怪しくなってきました」


「当然……! あたしの戦友を、なめんじゃないわよ……」


 ロゼッタが荒い息で、胸を張る。一まとめにした赤毛の髪が、あやつる炎のように、吹雪になびいた。


 顔、手足、服の至る所に、裂傷があった。ジャズアルドの両腕はロゼッタを胸に抱くように交差して、十二条の炎のむちはすべて独立してえ間なく旋回せんかいし、球状の結界をしている。


 それでも、ザハールの速度は上がり続け、火線を置き去りにして灼熱しゃくねつむちをかいくぐり、白刃はくじんがロゼッタにとどいた。


 炎のむちと撃ち合い、熱でくずれた小剣を捨てて、白い上下の中から新しい小剣を抜く。


「あきれたものね……何本持ってるのよ、それ」


「私の魔法アルテは見抜かれた通り、基本的に、体内に作用するだけですからね。魔法士アルティスタを相手にする時は、武器の予備が欠かせません」


 貴公子然きこうしぜんとした優雅さをそのままに、ザハールがおどけて見せる。そしてロゼッタに向き合い、一礼した。


御挨拶ごあいさつなさい、ヤロスラーフ」


 主宰宮殿パラッツオ・ドゥカーレの屋根にうっすらと伸びるザハールの影から、瘴気しょうきが立ちのぼった。長身痩躯ちょうしんそうくのザハールの、胸ほどまでの幻影をむすぶ。


 主人と同じ意匠いしょうの深い紫の上下、まっすぐ長い金髪の、透き通るような美少年が慇懃いんぎんに頭を下げた。


 そんな場合でもなかったが、ロゼッタがげんなりとする。


「ああ、うん……やっぱり、そういう方向なのね……」


「御安心を。レナートくんに浮気はしていません」


 白くけむる吹雪と、わずかに残った火の粉の明滅を背負い、ヤロスラーフが紫色の瘴気しょうきに変化してザハールを包み込む。小剣までが、禍々まがまがしい瘴気しょうきに輝いた。


 次の刹那せつなまたたきにも満たない刹那せつな、ザハールが消えて十二条の炎のむちが寸断された。


 感覚神経も追いつかない、痛みもない。ロゼッタはひどくゆっくりと、落ちた自分の左腕の切断面から、鮮血が飛ぶのを認識した。


 遅れて来た絶叫をみ殺し、残った右腕と全力で、魔法励起現象アルティファクタの火の粉を舞い上げる。ようやく走った火線の先、最初と同じ大聖堂の鐘楼しょうろうに、紫の瘴気しょうきまとうザハールが立っていた。


魔法アルテを分担しているのですよ。ですから、この子だけは特別です」


 紫の瘴気しょうきが、ゆらめいた。


「ヤロスラーフは摩擦を操作します。接地の摩擦を上げて推力すいりょくを、気流の摩擦をなくして動きを、そして武器を包んで魔法アルテの特性を付与ふよします。今のは、音速を超えました」


御丁寧ごていねいに、いたみいるわ……」


 ロゼッタが、蒼白そうはくな顔でうずくまりながら、歯をいた。


「それでも……勝ち名乗りは、早いわよ……っ!」


「次は首を落とします。痛くしませんよ」


 ザハールが微笑ほほえんだ。


 威嚇いかくでも、示威じいでもない。淡々とした事実だ。


 火の粉の火線は意味がない。ザハールが言った通り、気流の摩擦も操作できるなら、火の粉の接触もすり抜けられる。純粋な速度は、もう完全に認識の外だ。


 魔法アルテの特性を持った小剣は、ジャズアルドの炎のむちを、すべて切り刻んだ。


 再構築できない。左上腕の断面は押さえても血流がこぼれ落ち、魔法励起現象アルティファクタ維持いじすることができない。ジャズアルドも、ロゼッタをかばうように抱きながら、輪郭りんかくかすんでいた。


 ロゼッタはせめて、顔を上げた。ザハールをにらんだ。目線が合って、覚悟を決めた。


 だから、すぐには気がつかなかった。


 気流に、しおの匂いが乗っていた。ラグーナの果てに広がる、海の匂いだ。


 いつの間にかいだ吹雪を押し渡り、吹雪と見紛みまがうほどにまっ白く飽和ほうわした水の気流が、主宰宮殿パラッツオ・ドゥカーレと大聖堂の鐘楼しょうろうを空間ごと包んでいた。


 ザハールが消えた。


 紫の瘴気しょうきが水の気流を受け流し、まっ白い空間に空洞くうどうの軌跡を穿うがつ。それが見えた。ロゼッタの眼前に瘴気しょうきをまとった刃が迫る。


 ジャズアルドが、てのひらを突き出していた。ロゼッタの左上腕から流れ出た血を、まっ赤にともなっていた。ジャズアルド自身がけて満ちた、魔法アルテをはらむ血だ。


 刃がてのひらつらぬく瞬間、血が極一点で焦熱しょうねつした。小さく圧縮された魔法アルテ焦熱しょうねつが、水の気流の、一滴のかくを崩壊させた。


 魔法励起現象アルティファクタ核崩壊熱かくほうかいねつ面制御めんせいぎょして、刹那せつなを超えたわずかな交錯こうさくに、の光のような火球を爆発させた。


 ジャズアルドが消えて、崩壊する主宰宮殿パラッツオ・ドゥカーレに落ちるロゼッタを、虹色帽子にじいろぼうしに輝く影が抱きとめた。皮膜ひまくを持つ触手が広がって、ふわりと滑空かっくうし、公共広場の端に降りる。


 蜜色巻みついろまの長い髪、舞踏仮面マスケラの奥の翠緑すいりょくの瞳、まっ白い乳房と尻を桃色ももいろの水着が、しなやかな手足を、光沢のある同じ桃色ももいろ革手袋かわてぶくろ革長靴かわちょうかが包んでいた。


「……あんた……どうして……」


「恩は肉体からだで返すモノ! あなたの愛人アマンテは、お尻は軽いけど、義理堅ぎりがたいのよ!」


 メドゥサのからかうような口上こうじょうに、ロゼッタも苦笑する。子供のように抱かれて、もう指一本、動かせなかった。


「やった、かしら……?」


「そんな可愛かわいげないわよ。でも、あんな魔法アルテと動きを、そうそう続けてられないわ。奥の手も防がれたんだから、今回のところは退いたでしょ」


 メドゥサが、つやめかしく片目をつむって見せる。同性にこびを売られても、ロゼッタとしては困ったものだが、憎まれ口を返す余裕もない。


「リヴィオを……お願い……」


 それだけ言って、ロゼッタは遠のく意識を手放した。

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