18.私をお母さまに紹介するのです

 リヴィオはまどろみの中で、胸が苦しくなるような、甘い花のにおいをいでいた。暖かい木漏こもに抱かれて、花園はなぞのもれているようだった。


 いや、違う。本当に息が苦しい。


 懸命けんめいまぶたを持ち上げると、素裸すはだかの乳房が目に飛び込んできた。頓狂とんきょうな声で叫んで、リヴィオは寝台からころげ落ちた。


「ようやく起きてくれましたか。外は良い天気ですよ。いつまでも伴侶はんりょを放ったらかしでは、いけませんね」


 胸と腰に豊かな金髪だけをまとわせて、グリゼルダが悪い顔で笑う。


「どうやって起こすのが効果的か、あなたの潜在意識から探りました。嬉しいでしょう。うふふふふ」


「あ、あばきすぎないで! いたたまれないから! とにかく、その、服! 服を着てよ!」


「奥ゆかしいですね。そこでガバっと来てくれても、しつ甲斐がいがあってこのましいのですが」


拷問ごうもん、ぎりぎり回避ってことな」


「まあ、後の楽しみに致しましょう」


 グリゼルダがいつもと少し違う、浅葱色あさぎいろの簡素なドレス姿ヴェスティートになる。金髪が一本の三つみにまとまって、服と同じ色の、つば広の帽子ぼうしを頭に乗せた。


 幻像なのだから、自由自在だ。たおやかに微笑ほほえむと、外見だけは、観光旅行に訪れた深窓しんそうの貴婦人そのものだった。


「ロゼッタたちに負けてはいられません。私たちもデートアップンタメントに参りましょう。今までつつましく待っていた健気けなげな私のために、さあ、早く」


 ふん、と、鼻息が荒い。


 食事は外でれ、ということだ。リヴィオは観念して、手早く、赤い縁取ふちどりの紺色官服こんいろかんふくに着替えた。


「それは仕事着でしょう」


「でも、これが一番まともな服だよ。他は、いつもの作業着みたいなのばっかりだし」


「お小遣こづかいを含めて、行き先が決まりましたね。私も一緒に、素敵な服を見立ててあげましょう」


「ずっと独り芝居を見られる、こっちの身にもなって欲しいなあ」


「どんな恋人たちも、二人きりの世界に没入ぼつにゅうするものです。気にしたら負けですよ」


 これ以上、なにか口ごたえしたら、回避した拷問ごうもんが戻ってくるな。リヴィオは舌なめずりのようなグリゼルダの視線に、間合まあいをさとった。


 起き抜けから全力回転のグリゼルダに追い立てられ、階下に降りると、食堂でロゼッタとジャズアルドが優雅に珈琲カッフェを飲んでいた。


 非日常性とやらは今朝けさまでで充分に堪能たんのうしたのか、ロゼッタはリヴィオと同じ紺色官服こんいろかんふくで、ジャズアルドもいつもの黒衣姿こくいすがただ。


 グリゼルダがきっちりめかし込んでいるだけに、が悪い。軽く頭を抱えるリヴィオの背中が、ぽん、と叩かれた。


「あれはちょっと、かないそうにないわねえ。レナートも言ってたけど、あんたのどこが悪いってわけじゃないんだから、しょげないのよ」


「母さん、まだそんなこと……って、え? あの人、見えてるの?」


「なに言ってるんだか。もう昼だけど、あんたも珈琲カッフェくらい飲むだろ? 座ってなよ」


 よく見れば、確かに、ジャズアルドの前にも珈琲カッフェの杯がある。実存体じつぞんたいということだ。


 グリゼルダの白い腕が、リヴィオの首に巻きついた。


「リヴィオ。あなたも早く実存体じつぞんたいを準備できるようになって、私をお母さまに紹介するのです」


「わ、わかったから……妙な対抗心、燃やさないで」


 ぎりぎりと締まる首に気が遠くなりながら、リヴィオはロゼッタたちの食卓しょくたくに混じった。


「おはよう、ロゼッタ。ジャズアルドさん。仕事でもないのに実存体じつぞんたいで出てくるなんて、気合きあい入ってるね」


「おはよう。グリゼルダこそ、気合きあい入れてんじゃないの。良いわね、初々ういういしいわね」


 ロゼッタは、なんと言うか、つやっつやに満ち足りたうえから目線めせんだ。グリゼルダが口をひん曲げる。


 見ないふりをして、リヴィオは、ジャズアルドの隣に座った。


「前に言ってましたけど、これ、なにかを準備するんですか? いや、その、俺にもできたら便利かな、って」


 どうにも言い訳っぽくなる。ジャズアルドが、口元を隠すえりの中で、苦笑したようだった。


「私もグリゼルダも、本質は君たちの身体中に浸透しんとうしている。その一部を、抜き出して媒介ばいかいにする。もっとも使いやすいのは、血液だ」


「血……?」


「そうだ。一度に多くは用意できないが、血液なら、二、三日で身体が補充できるからな」


「ちょっとリヴィオ。先輩として、できそうって判断したらちゃんと教えるから、勝手に試しちゃ駄目よ」


 ロゼッタが、少し真面目まじめな顔をリヴィオに向ける。


媒介ばいかいは純粋なほど良いけど、血だけじゃ充分な質量を準備できないから、布なんかに染み込ませて、何日もかけて二次媒介にじばいかいを作るのよ。あんまり薄めると魔法励起現象アルティファクタが不安定になるし、軽いと風に飛ばされるわよ」


「へえ。文字通り、身をけずるんだなあ」


「一心同体ですね、リヴィオ」


 リヴィオの首にへびのように巻きつきながら、グリゼルダがのんきなことを言う。ダニエラがました顔で、リヴィオの珈琲カッフェを持ってくると、食卓しょくたくに三人分の杯が並んだ。


 確かにちょっとだけ気の毒かな、とリヴィオが思うと、グリゼルダの吐息といきに耳たぶをくすぐられた。


「あ、あれ? そう言えば、レナートは?」


 慌てて思いつきの話を振ると、ダニエラが、厨房ちゅうぼうに戻りがてら肩をすくめた。


「とっくに遊びに出かけたよ。かない顔はしてたけど……まあ、良い傾向けいこうかしらね」


「あいつも、考えすぎるところあるからなあ」


「なに、なんの話よ?」


「あいつの親父さん、主宰ドージェなんだよ」


 リヴィオの短い言葉に、ロゼッタも、それ以上は続けなかった。五年前の海難事故かいなんじこは、ヴェルナスタの国民なら、誰でも知っている話だ。


 もちろん、ガレアッツオ=フォスカリが事故の後も、海洋交易国家かいようこうえきこっか元首げんしゅを立派に務めていることを含めて、だ。


「ロゼッタも家出してんだっけ? 第二分校に行ってたってことは、貴族か金持ちだよな。育ちが良いと、たかが家出も大事おおごとになるもんだなあ」


「あんたは、ずいぶん無頓着むとんちゃくね……家出にれるなんてこと、あるのかしら」


「この辺の連中は、季節に一回くらいしてるよ」


「それは遊びほうけて、帰り忘れるだけでしょうに」


 ロゼッタが苦笑する。


 グリゼルダとジャズアルドも、苦笑したようだ。


「あんたたち、出かけるんでしょ? 近くまでつき合うわ。レナートの奴にも、氷菓ジェラートの一つくらい、おごってやろうかしらね」


「はっきり言ってお邪魔ですが、まあ良いでしょう」


「え? どういうこと?」


 リヴィオが一人だけ不得要領ふえようりょうな顔をしたが、とにかく四人、傍目はためには三人、連れ立って街に出た。

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