17.きっとそうなんですね

 だが、感謝をささげるというのは、納得できなかった。


主宰ドージェ役割やくわりとか、責任とか言うなら、そうかも知れないよ! でも、それが父さんの必要はないじゃないか! 他の誰かがやれば良いじゃないか!」


 国家元首こっかげんしゅの候補者などいくらでもいるし、個々人の優劣は大きな問題にならない。そのための大評議会だいひょうぎかいであり、政府組織であり、共和国制だ。


 海洋交易国家かいようこうえきこっかとしてのヴェルナスタ共和国が、そして国民すべてが、海の恵みと不可分ふかぶんの関係にあると言うのも、そうだろう。


 外国に逃げたって良い。二人きりで残された自分とガレアッツオだけは、せめて海に感謝など、強制される筋合いはないはずだ。


 レナートは納得できなかった。


 ガレアッツオが理解できなかった。


 それでも、貴族として不自由なく育ったレナートが、一人で市街に飛び出したところで、できることはなかった。ただ水路の迷宮で、途方に暮れただけだった。


「なんだか素人しろうとっぽい家出だなあ。その年齢としまで、したことないのかよ?」


 初めて出会った時のリヴィオは、もう造船所で雑用の仕事をしていた。


 宿屋に連れられると、ダニエラはレナートを見て、すぐにいろいろさっしたようだった。


 主宰ドージェと家族の海難事故かいなんじこは国中に知られていたし、その後も<海との結婚ノッツェ・デラ・マーレ>を毅然きぜんり行なった姿が、国民の尊敬を集めていることも、レナートは知っていた。


 ガレアッツオが宿屋にたずねてきて、ダニエラと話し合って、今の生活が始まった。リヴィオと一緒に、ヴェルナスタ国立高等学校・第三分校にも通うことになった。


 日々は流れて、季節が自然にめぐり、今年も<海との結婚ノッツェ・デラ・マーレ>がいわわれる。ガレアッツオは海に感謝をささげて、宣誓せんせいするのだろう。


 レナートは夜中に、目を覚ました。


 月明かりで、部屋がほのかに明るかった。窓を開けて、夜気やきを入れる。


 街中が浮き立つこの時期になると、レナートは、自分だけが周囲から切り取られて、薄っぺらな紙細工かみざいくになったような感覚にとらわれた。


 淡いきりれて、崩れてしまいそうだった。


 どれだけそうしていたのか、ふと気がつくと、遠くから音楽が聞こえた。


 竪琴たてごとだ。少し、異国の旋律せんりつを感じた。


 周囲の家に明かりはない。人通りもなく、その音楽以外、街は静まり返っていた。


 祝祭しゅくさいに参加する旅芸人が、ひそかに練習しているのだろうか。レナートが考えたのは、そこまでだった。


 芸術の定義は、知的活動の生産物で、鑑賞者かんしょうしゃにも知的感動を共鳴させ得るもの、だという。


 レナートは、この不思議な音楽に共鳴した。


 見ていた夢のせいもあるのだろう。単調にささやくような旋律せんりつが、母オフィーリアと妹プリシッラとの他愛たあいもない会話を、声を、心に想起そうきさせた。


 レナートは足音を忍ばせて、宿屋を出た。まばらな硝子灯がらすとうと、きりをたたえる水路の街を、夢の続きのように歩いた。


 だんだんと二人の面影おもかげきりの中に浮かんできて、手を引かれるように、レナートは街の広場に出た。


 広場中央の、噴水ふんすい縁石えんせきに腰かけて、男が一人で竪琴たてごとかなでていた。


 白金色はくきんしょくの長めの髪の隙間すきまから、深いあおの目が見えた。年齢は二十五、六歳ほどで、長身痩躯ちょうしんそうくに白い上下を着て、優雅な気品を持つ貴公子然きこうしぜんとした美男だった。


 男はレナートに気づいても、竪琴たてごとかなで続けた。


 レナートも、音が続いている間は二人が近くにいてくれるような気がして、黙って聞いていた。


 月が、噴水ふんすいに浮かんでいた。


「私の音楽を気に入ってくれる人は……悲しい人が多いんです。君も、きっとそうなんですね」


 詩をささやくように、男が言った。


 レナートは涙を流した。五年前にれるほど流した涙が、またあふれて、ほおを濡らした。そのまま、立ち尽くした。


 男が演奏を止めて、レナートに歩み寄った。泣きながら見上げるレナートのほおに、てのひらえる。


「悲しいのなら、悲しいままで良いんですよ。誰にも、わかってもらえなくても……あなたの心は、あなただけのものなのですから」


 レナートは、あの日の約束を果たすように、オフィーリアとプリシッラに抱きしめられた気がした。

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