2.なかなかの美意識ですね

 リヴィオは観念かんねんした。


「ああ、もう……わかったよ! こうなったら恋人なんて通り越して、直接、結婚相手を探すことにするよっ!」


 叫んで、男から丸薬がんやくをひったくって、飲み込んだ。


 やっぱり、すごく不味まずい。


 なんだこれ。なにも起きないぞ。


 力とか素質とか、ああ、もう、どこからがデタラメなんだ。


 いろいろ考えていると、硝子灯がらすとうの明かりに飛び込んでくる、怪魚人かいぎょじん筋骨きんこつたくましい腕が、妙にゆっくりと見えた。


 ぬるっと湿しめっている。生臭なまぐさそうだ。


 リヴィオは、きつく目を閉じた。


 一呼吸して、それでもなにも起きなかった。


 いや、においがした。花のような、石鹸せっけんのような、澄んだ甘い匂いだ。あまりに予想外の匂いだったので、リヴィオは驚いて目を開けた。


 開けた目の間近まぢかで、怪魚人かいぎょじんの腕が止まっていた。奇妙にねじくれた岩のはしらが何本も地面から伸びて、怪魚人かいぎょじんの腕をらえていた。


「なかなかの美意識ですね……あなた、気に入りましたよ」


 リヴィオの横に、においのぬしが立っていた。


 ゆるやかに波打つ腰までの金髪に、少し切れ長の碧眼へきがん、まっ白な肌と大昔の神話に出てくるような紗幕しゃまくを重ねた衣装、それこそ女神そのものの、二十歳くらいの背の高い美女だった。


 ふわ、と、また良いにおいがして、衣装のすそを持ち上げた瑞々みずみずしいあしが、リヴィオの顔をばした。


「え……ええ……?」


「気を抜かないで下さい。魔法アルテかなめは、あなたですよ」


 美女の言葉に少し遅れて、怪魚人かいぎょじん咆哮ほうこうし、岩のはしららえられた腕を強引に引き抜いた。もしかして、これが本気の怒りなのか、さっきまでとは違う名状めいじょうがた咆哮ほうこうだった。


 引き抜いた勢いで、岩柱群がんちゅうぐんの向こうから、めちゃくちゃに殴りかかってくる。岩のはしらがぼろぼろと欠片かけらをこぼし、ひび割れた。


「あ、あああ、あの、俺は、どうすれば……っ?」


 ばされたのを、このさいなかったことにして、リヴィオは美女の横に立ち上がった。美女も、ばしたのをなかったことのように、優しく微笑ほほえんだ。


「グリゼルダ」


「は……?」


「私です。良い名前でしょう」


 グリゼルダが、リヴィオの後ろから、寄りうように左手に左手を、右手に右手を重ねた。そのまま、ゆみを構える格好に右手を引く。リヴィオの身体も、同じ形に追随ついずいした。


気合きあいを込めなさい。まずは、それだけです」


「よくわからないけど、わかった……っ!」


 リヴィオは、もう考えるのをやめた。岩のはしらを破壊した向こうから、また姿が見えた怪魚人かいぎょじんと同じように、咆哮ほうこうした。


 グリゼルダとリヴィオが、右手を突き出した。


 くだけて飛ぶ岩柱いわばしら破片はへんのまん中、なにもない空間にこぶしを送る。腕が伸び切る刹那せつな、踏み込んでいた右足から、石畳いしだたみに光の波紋はもんが広がった。


 石畳いしだたみが砕け散り、鉱物結晶こうぶつけっしょうのような無数の粒子りゅうしが舞い上がる。


 うずを巻き、凝集ぎょうしゅうして、リヴィオのこぶしの先に巨大な、鋼鉄色こうてついろよろいじみた腕を形成けいせいした。その腕の一撃が、怪魚人かいぎょじんの全身を粉砕ふんさいした。


 魚肉片ぎょにくへんが飛び散り、多分、手足の元になっていたのだろう、ぱだかの男が転がった。


 巨腕きょわんもすぐにばらばらになって、見る影もないほど破壊された石畳いしだたみの上に、岩と鋼鉄片の雨が降る。


 無我夢中むがむちゅうで腕を振り抜いたリヴィオが、最後にその場に、すっころんだ。


「な……なにが、どうなって……?」


 リヴィオは、そこまでしか言えなかった。倒れたまま、すさまじい目眩めまいがして、意識と視界はあるのに、口も手足も動かせなくなった。


「まあ、こんなものですかね。初体験はつたいけんにしてはお上手じょうずでしたよ、リヴィオ」


 グリゼルダが、痙攣けいれんするリヴィオを、なんだか嬉しそうに上からのぞき込んだ。しなやかな指が、リヴィオの左手を指す。


 リヴィオがなんとか目玉だけを動かすと、我ながらあきれたもので、ずっと握りしめていたままの白身魚しろみさかなものが見えた。


「それ、食べたらいかがですか。少しは元気が戻りますよ」


 この人は、なにを言ってるんだろう。リヴィオはようやく、グリゼルダを、異常ななにかを見る目で見上げた。


「ええと……あ、片づいたみたいですね。いやあ、やっぱり君、才能がありましたね」


 だいぶ離れた路地ろじの影から、自称えらい眼鏡男めがねおとこが現れた。


 こんちくしょう。正真正銘しょうしんしょうめいの役立たずだな。


 リヴィオが目だけでののしった。まったく伝わっていない顔で、男が頭をかいた。


 そのままリヴィオの方に歩いてこようとした男が、立ち止まった。


「あれ? すいません、まだでしたか」


 男の言葉に、リヴィオは嫌な衝撃を受けた。すっころんだ拍子ひょうしに、リヴィオは今、怪魚人かいぎょじんがいたのとは逆方向を向いて倒れている。動けない。


 それでも、あちこちに飛散した魚肉片ぎょにくへんの一つが、視界のはしにあった。


 小刻こきざみにふるえて、虫のようなあしの生えた、小さな怪魚かいぎょになった。カサカサカサカサカサ、と、石畳いしだたみを伝わって、さざ波のような音が聞こえ始めた。


 天地てんちちかって、さっきまでも、尊厳的そんげんてきななにかをかけて真剣だった。だが比較にならない真剣さで、リヴィオは生理的嫌悪せいりてきけんおの悲鳴を上げた。


 男のくせに情けない、とよく言われても、虫は大嫌いだった。特にあしが多い奴は駄目だ。


 こんな状態でたかられたら、さらわれる前に死ねる。グリゼルダも、さすがに少し困ったような思案顔しあんがおで、リヴィオを見下ろしてくるだけだった。


 もう少し遅かったら、本気で泣いていた。


 六本だか八本だかのあしうごめかせて近づいてくる小怪魚しょうかいぎょに、ふわり、と、一枚のまっ羽根はねが落ちて触れた。


 触れた瞬間、小怪魚しょうかいぎょが燃え上がった。


 ふわり、ふわりと、同じくまっな羽根が、夜空をめる雪のように舞い、意思があるように空中を泳いで、リヴィオの背中側で炎の熱と光が破裂した。


 なんとか振り向こうと、リヴィオは身体をよじった。


 顔が上を向いた時、倒れずに残っていた硝子灯がらすとうのてっぺんに、赤い縁取ふちどりの紺色官服こんいろかんふくを着て、赤毛あかげを馬ののような一本縛りにした少女が立っていた。


 炎の照り返しに、勝気かちきそうな金茶色きんちゃいろの瞳が光っている。


「なによ。もっとひどい目にわせてから、ギリギリで出てやろうと思ってたのに、先に他人をひどい目にわせてたわけ? 始末に負えないわね」


「それ、上司に言う台詞せりふですかねえ」


 どうやら、自称えらい眼鏡男めがねおとこの、嫌われている部下らしい。


 いつの間に現れたのか、少女の下、硝子灯がらすとう根元ねもと黒髪黒衣くろかみこくい精悍せいかんな男の人も立っている。


 鋭い目でグリゼルダと見合っているが、敵意のない、たよれそうな感じだった。


 緊張の糸が切れた。


 リヴィオは、暗くなる視界のまま、気絶することをなんとなく自覚した。


 最後に、あたり一面に立ち込め始めた、魚の焼けるにおいが空腹を思い出させた。怪魚かいぎょのくせに、こうばしく美味おいしそうなにおいだったことに、イラッとした。

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