ヴェルナスタ特務局の魔法事件簿

司之々

第一章 大運河の怪魚人

1.静かな夜も良いんだけどな

 リヴィオ=ヴィオラートの週に一度の楽しみは、造船所の雑用上がりに、屋台で白身魚しろみざかなものを買い食いすることだった。


 もちろん家に帰って夕食も食べるが、十六歳の育ちざかりには、カリカリにげられたころも動物油どうぶつあぶらの甘みがたまらなかった。


「今週もがんばった! 食べて良いぞ、俺!」


 雑用は週末休日の二日間、道具の整備や場内清掃じょうないせいそうなんかが多い。明日からは、また学校だ。


 リヴィオは同級生の中でも、背が低かった。亜麻色あまいろのやわらかい髪と、いつも同じ作業着もどきのそですそをまくった格好を、女子にまでからかわれる。


 少しでも成長するため、こういう安価あんか熱量ねつりょうも必要なのだ。


 硝子灯がらすとうともる夜の帰り道を、新聞紙に包まれた熱々あつあつものを片手に、歩く。


 歩道より広く複雑に交差する小型船ゴンドラの水路に、月明かりも反射して、幻想的だ。この街で育ったリヴィオもそう思うのだから、旅行客なんかは、ひとしおだろう。


 もう少し暖かくなれば、外国の金持ちが観光に来て、またにぎやかになる。 


「静かな夜も良いんだけどな。ホント、変な騒ぎさえなけりゃ……」


 手頃に冷めてきた包みを開けて、一口目をかぶりついた、その時だった。


 魚が立っていた。


 細い路地の影に、ぬめっとした照り返しが、それはそれで幻想的だ。リヴィオより背が高い。と言うか、足が長い。


 食い出がありそうな巨大な魚に、むだ毛のないつるっつるの、筋肉質の手足が生えていた。


「……のぉおああああああッ!?」


『もぉおあああああああッ』


 同じような悲鳴と、多分、威嚇いかくの声を、リヴィオと怪魚人かいぎょじんが同時に上げた。


 そして同時に走った。リヴィオが逃げて、怪魚人かいぎょじんが追ってきた。歩幅ほはばが長い分、怪魚人かいぎょじんも、水棲生物すいせいせいぶつっぽくない陸上速度だった。


「で、で、で、出たっ! ホントに出たっ! 俺、腹へりすぎて、倒れたわけじゃないよなッ?」


『もぉおあああああああッ』


 怪魚人かいぎょじんが、また叫んだ。上半身と言うか、手足以外は魚そのままなのに、声帯せいたいはあるのか。リヴィオは思わず、どうでも良いことを考えた。


『もぉおあああああああッ』


「す、すす、すいませんッ! 生意気なこと考えましたッ! な、なんか、怒ってます? 話し合いましょう! え、えええと、こ、これでも、食べながら……」


 言いかけて、ふと思いつく。


 我ながら、この後に及んでしっかり持ったままの、カリカリにげられたこれは、彼の同族なのではないか。


 同族。


 産業革命さんぎょうかくめい世界大戦せかいたいせんも終わったこの科学時代に、なにを今さら街中でささやかれていた怪奇話では、夜な夜な現れる怪魚人かいぎょじんに海中にさらわれた人間が、同じ怪魚人かいぎょじんにされるという。


 命でなくても、陸上生物の尊厳そんげんと空腹をはかりにかけて、リヴィオはものを捨てるかどうか悩んだ。どうして悩むのか、まず、そこからおかしいことに気がつかないほど混乱していた。


 とにかく走る。逃げる。


 何度目かの角を曲がった先で、今度はまともな人影と、鉢合はちあわせた。


 軍や警察みたいな、銀の縁取ふちどりの、紺色こんいろ官服かんふくだ。厚い眼鏡めがねをかけて手足が細く、焦茶色こげちゃいろの髪に寝ぐせの残る、なんだか頼りない三十歳くらいの男だった。


 それでも、魚でないだけ、細かいことにこだわる余裕がリヴィオにはなかった。すがりつく。


「た、たた、助けてください! で、出ました! 魚! 変な魚!」


 描写通りの怪魚人かいぎょじんが、追って現れた。


 えらの動きが早い。呼吸してるのか。しかも乱れてるのか。やっぱりどうでも良いことを、思わずリヴィオは考えた。


「……あ、ホントですね。困りました」


 男が、のんきな声をもらした。そしてリヴィオを振り払って、逃げ出した。


「え? えええっ? ちょ、ちょっと……」


『もぉおあああああああッ』


「わぁああああああッ!」


 また叫んで、男を追って、リヴィオも逃げた。阿鼻叫喚あびきょうかんだ。


「あ、ああ、あんた! その官服かんふく、政府の人だろっ? 国民を守れよ、この役立たずッ!」


「ぼく、えらい人なんですよ。適当に形だけ見回って、こういう体力仕事は部下に押しつける気でいましたのに、あてが外れちゃいました」


「さ、最低だっ!」


 言うだけあって、男の走る速さは、リヴィオとどっこいだった。多分一緒に、それほどもたず、息が切れるだろう。


「どうしましょうかねえ」


「その、ぶ……部下の、人は……っ?」


「近くにはいないみたいですね。ぼく、嫌われてるっぽいですから」


「すっげーわかるよッ!」



 振り返れば、怪魚人かいぎょじんの見たくない影が、しつこく追ってくる。走りながら、男が横目で、リヴィオを見た。


「ええと……君、提案があります」


「なんだよっ?」


「ここに、秘密のお薬があります。飲むと、すごい力に目覚めて、ああいう怪物をやっつけることができます」


 男が小さな、丸薬がんやくのようなものを取り出した。鉄錆色てつさびいろで、見るからに、飲んだら死にそうだった。


「う、胡散臭うさんくさすぎるよっ! 押し売りでも、もう少し頭使うぞ! 自分で飲めよッ!」


「ぼく、才能ないと思うんですよ。君なら、そう、才能というか……素質がありそうです」


「どうしてそれでだませると思ってるのか、不思議だよ!」


「それから、素質があって力に目覚めても、呪いがかかります」


「聞いてねえッ!」


 不毛ふもうな言い争いをしたせいか、リヴィオも男も、息の乱れが大きくなった。状況は、悪化の要素しかない。


「い……一応、確認するけど……呪いって、どんな……」


「恋人ができなくなります」


「最悪だっ! 魚になるか、恋人あきらめるかの二択かよ! どっちにしても人生終わるのかよ!」


「そうですか? 脊椎動物せきついどうぶつやめるのって、相当、重い気がしますが」


「魚だって脊椎動物せきついどうぶつだよ!」


「あれ、そうでしたっけ?」


「食べる時、骨よけるだろっ!」


『もぉおあああああああッ』


「わああああっ! すいません! 食べるとか言いませんっ!」


 収拾のつかない状態で、ついにリヴィオの足がもつれた。男の服をつかむと、まったく支えにならず、二人そろって硝子灯がらすとうの、根元の石畳いしだたみに転がった。


いたたた……ええと、困りましたねえ。二人で一緒に魚になるより、君が一人で恋人あきらめてくれた方が、ぼくの利益が大きいんですけど」


「そうだろうよ、この税金泥棒……っ!」


「んー。それじゃあ、こうしましょう。良い娼館しょうかんを紹介してあげます。魚は、なんて言いましたっけ、ほら、体外受精ですから。人間でしたら恋人ができなくても、お金でそれらしいことはできますよ」


「お、大人って、きたない……っ」



 不毛が加速していく会話の間にも、怪魚人かいぎょじんの、まだまだ体力の持ちそうな足音が近づいてくる。


 硝子灯がらすとうの明かりがとどく外縁がいえん、暗がりの中から、大きくたて薄長うすながい不気味な影がのぞき込んできた。

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